第13話 「歯車の関節と、股下の通過」
午前四時半。
風見晴人は公園に立っていた。
八日目の朝である。ダンジョンに通い始めてから八日目。振り返れば、随分と遠くまで来た気がした。だが、朝の公園はいつもと同じだった。砂場。三本の桜。街灯。夜の湿度。空気の切れる音。
今朝は、一つだけ、いつもと違うことを試すつもりだった。
昨日、四階層の重力の狂う区画で掴んだ、あの感覚。腰の位置を意識的に動かして、体の芯を探る、あの感覚を、朝の素振りに持ち帰ってきた。
樫の枝を持ち上げた。
一。二。三。四。
振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。
最初の百本はいつも通り振った。二百本、三百本、四百本、五百本。ここまでは通常のフォーム。
五百一本目から、彼は腰の位置を意識的に動かし始めた。
通常より二センチ深く落として、振る。
次の一振りは、通常より二センチ上げて、振る。
その次は通常の位置で振る。
その次は通常より一センチ深くで、振る。
彼は腰の位置を一振りごとに微妙に変えながら、体の芯の通り方を細かく確認していった。
*
視聴者たちの画面には、その動作が映っていた。
地味な猫背の中年男性が、朝の公園で木の枝を静かに振り続けていた。派手さは皆無だった。だが、視聴者たちはその動きをじっと見た。
『あれ』
『いつもと違う』
『腰の位置』
『五百一本目から腰が動いてる』
『微妙に動いてる』
『詳しい人、いる?』
『居合、少しだけやってた者だけど、これ、ヤバいよ』
『何が、ヤバい?』
『地面に対して、体の芯の通り方を常に修正し続けている』
『それ、昨日の四階層の話じゃない?』
『昨日の区画で掴んだ感覚を、朝の素振りに持ち帰ってきてる』
『……天才って、こういう人のこと言うんだな』
『毎日、新しい進化』
『視聴者数、また増える』
視聴者数、開始十五分で十四万を超えていた。
*
千本をいつも通り振り抜いた。
最後の一本は通常の位置で振った。深く息を吐き、木の枝を軽く振って砂を落とした。
「……悪くないな」
小さくつぶやいた。
いつもと少しだけ違う朝だった。腰の位置を意識的に動かした、その影響が体の中に残っていた。体の芯の通し方が、いつもより細かく意識されていた。
*
駅までの道を歩いた。始発に乗った。
電車の中はまた若い人が多かった。今日は五、六人、明らかに彼の顔を見ていた。晴人はまた自分の服装を確認したが、特におかしなところはなかった。
電車を降り、山道に入った。
山道の途中、いつものベンチのそばには、今日は誰もいなかった。
彼は詰所に着いた。
*
今日の担当は、またあの女性職員だった。彼女は晴人を見て、少しだけ頬を緩めた。彼女は今朝、いつもより少しだけ早く詰所に着いていた。書類の記入項目の整理を、済ませてあった。
「お疲れ様です、風見様」
「はい、おはようございます」
「本日は、どちらまで」
「はい、四階層の大きな部屋の奥まで。あの、昨日の大きな部屋の入り口までで引き返しました。今日は、その奥までと思っています」
「はい、承知しました」
女性職員は書類にペンを走らせた。手は震えていなかった。彼女は今日、一つだけ伝えることがあった。
「あの、風見様」
「はい」
「本日、四階層の大きな部屋の奥は、その、少し独特の造りになっております。あの、金属の光沢のある、大きな、その、動いているものがおります」
晴人は静かに続きを待った。
「あの、それが動いていて」
「はい、承知しました」
「無理はなさらないでください」
「はい」
晴人は深く頷き、頭を下げ、詰所を出た。
*
視聴者たちはその詰所の会話を、ドローンのマイクを通して聞いていた。
『詰所のあの人、またモンスター名、伏せてる』
『「金属の光沢のある、大きな、その、動いているもの」』
『職業病じゃない、意識してる』
『萩田さんの指示って話も、あった』
『あの人には、モンスター名を認識してほしくない』
『視聴者、みんな知ってる』
『名前をコメント欄で書かない、暗黙のルール』
『……そういえばそうだな』
『気付いたら俺たち、風見さんの朝の素振りの質を守ってる』
『不思議なコミュニティ』
『素振り宗、朝の御勤め、集団守護』
視聴者数、その時、十五万八千。
*
四階層まで下りた。
昨日、通り抜けた重力の狂う区画をまた通った。今日も区画に入った瞬間、足裏の感覚が変わった。踏み込みが浅く入る。次の足の上がり方が速くなる。
だが、今日の晴人は既に対応方法を知っていた。腰、三センチ深く、膝、柔らかく。
彼はそれを意識的に体に乗せた。体の芯の通り方が、綺麗に通った。
通路の途中で、また浮遊する半球状の生き物が三体出た。彼はそれを通り抜けるついでに、それぞれ一振りずつで通り過ぎた。全て、上下、真っ二つになった。
やがて、通路が開けた。
大きな部屋の入り口だった。
昨日、途中で引き返した、あの大きな部屋だった。
*
部屋の中は大きかった。
天井の高さはおよそ三十メートル。壁は緑がかった金属の光沢を帯びていた。床は大きな金属の板が格子状に敷き詰められていた。あちこちに大小様々な歯車が回転していた。歯車の回る低い金属音が、部屋の中を静かに揺らしていた。
部屋の中央に、大きな影があった。
最初、晴人はそれを大きな柱だと思った。
だが、その柱の形は、太い二本の脚と、太い二本の腕と、大きな胴体と、丸い頭部を持っていた。
全長、およそ二十五メートル。全身が緑がかった金属で覆われていた。関節の部分に大きな歯車が露出していた。歯車はゆっくり回転していた。全ての歯車が噛み合って、大きな金属の骨格が静かに動いていた。
その大きな影は、部屋の中央でゆっくり両手を上下に動かしていた。歯車の回転に合わせて、腕が上がり、腕が下がり、腕が上がり、腕が下がった。ただ、それだけだった。
まるで、体操をしている、かのようだった。
*
「……ほう」
晴人は、木の枝を持ち直した。
これは、非常に大きな、金属の体操をしているものだ、と彼は素直に思った。
パーティ時代、こういう類の大きな影を見た記憶はなかった。生き物なのか、それとも動く造り物なのか、彼には判断がつかなかった。歯車が露出していることから、たぶん造り物の方に近いと彼は推測した。
部屋の天井のあちこちから細い鎖が下がっていて、鎖の先が大きな影の肩のあたりに繋がっていた。鎖は明らかに、この大きな影を部屋の中に固定するために用意されていた。
鎖は緩んでいた。大きな影は体操をしているが、その体操が鎖の範囲を超えることはなかった。
*
視聴者たちの画面には、その光景が映っていた。
『は?』
『これ、S級指定の古代兵器、ゲアリー・ジャイアント、じゃない?』
『ゲアリー・ジャイアント』
『S級、ではなく、A級、指定です』
『あ、そうだったっけ』
『討伐というより、封印対象』
『造られた時代の技術が既に失われていて、動くだけで貴重』
『鎖で封印されている状態が正常』
『鎖の範囲内で体操をしているのは、内部の動力を維持するため』
『詳しい人、多い』
『動力の維持は、静かに続いてくれるといい』
『あの人、あれをどうするつもり?』
『……たぶん何もしない』
『そうだよね、あの人、体操中のものはそのまま通す』
『でも、通り抜けるの、大変じゃない?』
『鎖の間の隙間、通り抜けられる距離』
視聴者数、その時、十七万三千。
*
晴人はしばらく大きな影を、じっと見た。
彼は大きな影を通り抜ける方法を、頭の中で探した。
大きな影は鎖で固定されていた。鎖の範囲は、部屋の中央からおよそ五メートル。その範囲の外側を通れば、大きな影は彼に触れることはない。
部屋は大きかった。壁沿いに幅五メートルほどの隙間があった。晴人は、そこを通り抜ければ良いと判断した。
彼は静かに右側の壁沿いに歩き始めた。
*
途中、大きな影の真横を通った。
彼はそこで少し立ち止まった。
大きな影の右膝の関節の部分に露出している歯車が、目に入った。
その歯車は、他の歯車と、少しだけ噛み合いが悪かった。
噛み合いが悪いその歯車が回転するたびに、少しだけ金属の擦れる音が鳴っていた。他の部位の歯車は綺麗に噛み合っていて、静かな金属音を鳴らしていた。右膝の歯車だけが、少しだけずれていた。
……ずれているな、と晴人は思った。
それを直したくなった。
これは彼の癖だった。パーティ時代、荷物持ちとして、パーティの装備の細かな乱れを直すのが彼の仕事だった。ミアの杖の留め紐の緩みを直した。カイの盾の鋲の外れかけを押し込んだ。リラの僧衣の袖の糸のほつれを縫い直した。レオンの剣の鞘の位置の微妙なずれを修正した。
三年間、それを毎日繰り返した。
繰り返したその癖が、彼の体に深く残っていた。ずれているものを見ると、直したくなる。歯車も道具である。ずれているなら、直す。
*
彼は右手を伸ばした。
右膝の歯車に指の腹を当てた。指の腹に金属の冷たさが伝わった。歯車の噛み合いのずれが、指の感触で確認できた。
ずれは、およそ二ミリ。
彼は指で歯車を押し込もうとした。
その時。
彼は自分の手を少し止めた。
*
彼はしばらく指を止めたまま、大きな影を見上げた。
大きな影の頭部の丸い金属の表面が、緑がかった光を静かに反射していた。頭部の両側に、二つの小さな赤い光があった。それは目のようにも見えたし、単なる装飾のようにも見えた。
……この造り物は、私のものではない、と晴人は静かに思った。
私の装備ではない。パーティの装備でもない。もっと遠い時代の、誰かの造り物である。
ずれているからといって、私が勝手に直すのは失礼だ。
この造り物には、この造り物の持ち主がいるはずだった。歯車の噛み合いのずれも、たぶん持ち主が把握しているはずだった。持ち主が把握していて、それでも直していないなら、直さない方が良い理由があるはずだった。
……勝手に直しては、いけない。
彼はそう判断した。
指を静かに離した。
*
視聴者たちの画面には、その動作が映っていた。
地味な猫背の中年男性が、古代兵器の右膝に指の腹を当てて、しばらく止まった。それから静かに、指を離した。
『……いま、何、しようとした』
『たぶん、直そうとしてた』
『歯車の噛み合い、二ミリずれてたから』
『それ、気付くだけでヤバい』
『気付いて、直そうとして、止めた、のがまたヤバい』
『「勝手に直してはいけない」って思ったんだね』
『分かる、あの人、そういう判断する』
『三年間、パーティの装備修理してたって、記事にあった』
『そういえば、桑原記者の記事だね』
『あの記事の伏線、こんなところで拾われる』
『毎日、新しい伏線回収』
『素振り宗、聖典また更新』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数、その時、十九万を超えた。
*
晴人は右手を静かに体の脇に戻した。
それから彼はまた壁沿いを静かに歩き始めた。
大きな影は、彼に気付いていた。頭部の両側の赤い光が、彼の動きを追っていた。だが、大きな影は動かなかった。両手を上下に動かす体操を静かに続けていた。鎖が緩やかに揺れた。
……悪くない造り物だ、と晴人は少し思った。
*
しかし、部屋の奥に進んでいくと、通路の幅が狭くなった。
部屋の奥の通路の入り口までは幅五メートルあったが、通路の入り口に近づくと、その幅が二メートルまで狭くなった。
通路の入り口は、大きな影の股下の真横だった。
晴人は少し迷った。
大きな影の股下の真横を通るのは、少し失礼な気がした。だが、他に通路の入り口はなかった。壁沿いの隙間は、この股下の真横で細くなり、通路の入り口まで続いていた。
……失礼します、と彼は心の中でつぶやいた。
そして頭を少し下げながら、大きな影の股下を通り抜けた。
*
股下は、高かった。
大きな影の股下の高さはおよそ四メートル。晴人は、猫背のまま身長百七十センチ。頭部と股下の間には二メートル以上の隙間があった。
だが、晴人は律儀に身を屈めた。
通り抜けるその瞬間、彼は頭を深く下げた。
彼は頭を下げたまま静かに、通路の入り口まで歩いた。通り抜けて通路に入った後、静かに頭を上げた。
振り返り、大きな影を見た。
大きな影は、両手を上下に動かす体操を静かに続けていた。頭部の赤い光は彼を追わなかった。既に彼が遠くにいることを認識していた。
晴人は頭を深く下げた。
「……お邪魔しました」
小さく、つぶやいた。
誰にも聞こえない独り言だった。
*
視聴者たちの画面には、その動作が映っていた。
画面がしばらく静止した。
『いま、頭、下げた?』
『下げた』
『股下通る時、頭下げた』
『四メートルあった』
『それでも、下げた』
『通り抜けた後、振り返って、また頭下げた』
『「お邪魔しました」ってつぶやいた』
『「お邪魔しました」』
『名台詞、更新』
『毎日、名台詞』
『あの人、丁寧さのレベルが他の次元』
『古代兵器に、お邪魔しましたって言う人、他にいない』
『マナー・モンスター界、開祖』
『マナー・モンスター界?』
『新ジャンル』
『毎日、新ジャンル』
『師匠!』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数、その時、二十一万を超えた。
*
通路を少し進んだ。
通路の奥には、五階層への降り口があった。晴人はそこまで歩いて、少しだけ覗き込んだ。
薄い金色の光が、下から漏れていた。
……五階層は、金色の光、か。
彼はそれを心に留めて、静かに背を向けた。今日は四階層の大きな部屋の奥まで、と詰所で伝えた。律儀な性格の彼は、その言葉を守った。
彼は来た道を戻り始めた。
*
通路を戻り、大きな影の股下をまた通り抜けた。今度も彼は頭を深く下げた。通り抜けた後、また振り返り、頭を下げた。
「……お邪魔しました」
小さく、つぶやいた。
大きな影は、両手を上下に動かす体操を静かに続けていた。
*
部屋を出て、通路を戻り、重力の狂う区画をまた通り抜けた。今日は行きよりも、腰の位置の感覚が深く掴めた。腰、三センチ深く、膝、柔らかく、で綺麗に通り抜けた。
四階層の階段を上がり、三階層の中央の部屋を通り抜け、二階層の地下森ドームを通り抜け、一階層の通路を通り抜けた。
ダンジョンの入り口を出た。ドローンを回収した。スマホの青いところを押した。今日も幸か不幸か、青の方に指が当たった。それが既に朝から続いていた配信の終了を意味していた。
詰所に戻った。
*
「お帰りなさい、風見様」
「はい」
「四階層の大きな部屋の奥は」
「はい、あの、大きな金属の造り物が体操をしておりました。あの、鎖で固定されていて、周りを通り抜けることができました」
「はい」
「あの、股下を通り抜ける通路がありまして。あの、少し失礼な気がしたので、頭を下げて通りました」
「……」
「あの、通り抜けた後、頭を下げて、お邪魔しました、と言いました」
「……はい」
「あと、あの、右膝の歯車の噛み合いが少しだけずれておりました。直そうかと思ったのですが、あの、私の造り物ではないので、直すのをやめました」
「……はい」
「他に、五階層への降り口の位置を確認いたしました」
「はい、承知しました」
「あの、書類、多くて申し訳ないです」
「いえ、いえ」
女性職員は書類にペンを走らせた。手は震えていなかった。ただ、書類の記入項目の内容が、彼女の想像の範囲を遥かに超えていた。
*
晴人は詰所を出て、山道を下った。
電車に乗り、街に戻った。スーパーで明日の朝の分の食パンと卵を買った。特売のキャベツが一玉九十八円だったので、一玉買った。冷蔵庫の中身と相談を済ませた。バスに乗って、家に戻った。
昼食を食べ、洗濯物を干し、素振りノートを開いた。
今日の欄に、書き足した。
『朝の素振り、五百一本目から、腰の位置を微妙に変えて振ってみた。体の芯の通り方の確認、大変良かった。明日も続ける』
『四階層、大きな部屋。大きな金属の造り物。体操中。鎖で固定』
『右膝の歯車の噛み合い、二ミリずれ。私の造り物ではないので、直さなかった』
『股下を通り抜けた。頭を下げた。失礼な気がしたので』
『五階層への降り口。金色の光。明日、行く』
五行、書いた。
窓の外で蝉が鳴いていた。西の空が少しずつ赤くなり始めていた。
「……悪くないな」
小さく、つぶやいた。
*
夜。
彼は風呂から上がり、椅子に座った。テーブルの上のスマホを指で掴んだ。
通知欄がまた赤い数字で埋まっていた。
彼はそれを迷惑メールと判断した。開かずに閉じた。
閉じたその瞬間、彼の頭の片隅に小さな疑問が浮かんだ。
……最近、迷惑メール、多いな。
だが、その疑問は深く追わなかった。世の中には、迷惑メールをたくさん送る業者がいるものだ、と彼は納得した。それ以上考えなかった。
彼はまだ、何一つ気づいていない。
あの赤い数字が、実は彼の朝の素振りの二十一万人の視聴者からの反応であることに。
その視聴者たちが、今日、彼が古代兵器の股下で頭を下げたその動作を、既に素振り宗の聖典の新しい一節として追加していることに。
第十三話 了




