第12話 「本部の会議室と、整備される通路」
午前十時。
冒険者ギルド日本本部、地下三階の大会議室に、二十人ほどの人物が集まっていた。
中央の大きな楕円形の机の正面には、日本本部の本部長、東條英隆が座っていた。六十代後半。白髪。柔らかい、しかし鋭い目。三十年間、このギルドの様々な危機を乗り越えてきた人物だった。
彼の右隣に、地方監査室主任、萩田孝史。左隣に、翠嵐ダンジョン詰所所長、竹内良治。その周りに、地方監査室の若手職員、詰所の女性職員、それから外部からの有識者として、大学のダンジョン学教授、三名。全員、真剣な顔で、机の上の資料を見つめていた。
資料の表紙には、シンプルな言葉が書かれていた。
『翠嵐ダンジョン 環境変化 緊急調査 報告書』
*
「では、始めよう」
東條は静かにそう言った。会議室の中の空気が、少しだけ引き締まった。
「萩田くん」
「はい」
「まず、この一週間の状況の整理をお願いする」
「はい、承知しました」
萩田は書類を開いた。彼はこの一週間、翠嵐ダンジョンの記録を丹念に追いかけてきた。分析の結果は、既に書類の中に綺麗に整理されていた。
「今日から遡って七日間、翠嵐ダンジョン内で、特別冒険者、風見晴人様が活動されました。一日目、一階層、B級モンスター、シャドウ・パンサーを一体討伐。通路の壁、水平に切断」
東條は書類の該当箇所に指を置いた。
「二日目、一階層、A級モンスター、シャドウ・パンサー成体を一体討伐。通路の壁、斜めに切断。あと、二階層、初回探索、E級スライムを三体討伐。三日目、二階層、S級モンスター、ジャイアント・スカラベの群れ、およそ四百体を、下段水平払いにて一斉討伐」
「うむ」
「四日目、三階層、S級モンスター、ロック・タイタンを一体、逆手の垂直払いにて討伐。同日、地方監査室、萩田、山道にて、特別冒険者登録の書類を風見様に記入いただきました。五日目、四階層進入。緑光層。中規模のモンスターを二体討伐。六日目、休日。ダンジョン内、活動なし」
東條はゆっくり書類のページをめくった。
「七日目、三階層、左通路奥。SS級モンスター、シャドウ・ドラゴンを一体、突きにて討伐。昨日、七日目の続きとして、四階層、重力異常区画進入。B級モンスター、フローティング・ハーヴェスターを七体討伐」
「うむ」
萩田は書類を閉じた。会議室の全員が深呼吸をした。改めて、書類の中身を聞くと、この一週間の活動の密度が異常だった。
*
東條はしばらく頷いていた。
「今の報告のモンスターの階級を平均すると、どうなる」
「はい、平均、A級とS級の間です」
「討伐の方法を平均すると」
「木の枝の一振り、または一突きです」
東條はしばらく指で机の表面を叩いた。
「使用者、単独。装備、無し。防具、着用なし。武器、木の枝のみ。補足として、風見様はモンスターの正式名称を認識されておりません。地の文、または口頭で、モンスター名を使用されることは、これまで一度もありません」
「なるほど」
「呼称は、この七日間で以下の通りです」
萩田は書類の下段を開いた。
『黒い獣』
『大きな獣の成体』
『甲虫の群れ』
『岩でできた塊』
『大きな飛ぶ生き物』
『大きいトカゲ』
『浮遊する半球状の生き物』
会議室の全員が書類を見た。しばらく沈黙が続いた。
「……愛らしい呼称、だな」
と東條が、静かに言った。
*
「では、本題に入る」
会議室の全員が姿勢を正した。
「今日、この会議を開いた理由の本題だ。東條本部長より、お願いします」
萩田は頭を下げ、机の脇に下がった。中央に東條本部長が立った。彼は大きなモニターの前に進み、リモコンを手に取った。
モニターに、翠嵐ダンジョンの内部の平面図が映された。
一階層、二階層、三階層、四階層。それぞれの階層の構造が、色分けされて表示されていた。
*
「諸君」
「はい」
「風見晴人様が通られた後の通路の状態を、確認してもらいたい」
東條はモニターの拡大表示を切り替えた。
一階層の通路の映像が映った。
通路の両側の壁。天井。床。全てが綺麗だった。
余りに綺麗だった。
壁には乱れがなかった。天井には亀裂がなかった。床には瓦礫が落ちていなかった。
通路の幅は均一だった。天井の高さは均一だった。床は水平だった。全ての線が綺麗に揃っていた。
*
教授の一人が、しばらく映像を見た後、静かに口を開いた。
「あの、東條本部長」
「はい」
「これは、いつの映像ですか」
「今朝、六時、撮影」
「今朝、ですか」
「はい」
「あの、翠嵐ダンジョンの一階層の通路は、こういう綺麗な状態、でしたか」
「今から二週間前まで、こうではなかった。壁はあちこち崩れていた。天井には亀裂が走っていた。床は瓦礫だらけだった。ダンジョン特有の地形の乱れが、全体にあった」
教授はモニターの映像と、東條の言葉を、交互に確かめるように見た。
「それが、この一週間でこうなった」
「……」
「一週間前、風見晴人様が初めて一階層を歩かれた。その後、風見様が通路を通るたびに、通路の環境が少しずつ整備された」
教授は身を乗り出した。
「整備、というのは、ダンジョンの修復機能が、風見様の通過のたびに活発化する、ということ」
「はい」
「風見様の大規模な地形変化の後、ダンジョンはその乱れを修復しようとして、修復機能をフル稼働させる。フル稼働は、通常の乱れも同時に修復する。結果、風見様が通られた通路は、全体が綺麗に整備される」
教授はしばらく頷いた。それから、モニターの映像をじっと見た。
*
東條はモニターを切り替えた。
二階層の地下森ドームの映像が映った。
ドームの床は綺麗だった。土は湿っていた。緑の草が健やかに生えていた。倒木はなかった。天井の光は、均一に赤みを湛えていた。
「二階層、地下森ドーム。三日前、風見様が甲虫の群れを、下段水平払いで一斉討伐された。その直後、地下森ドームはこうなった」
教授は映像の緑の光を、じっと見た。
「以前は甲虫の群れが常時繁殖していた、このドームは、既に群れの生息密度が九割減少した。群れが減った、その結果、ドーム内の土の質が変わった。土が湿った。緑の草が生えた。天井の赤い光が、以前より澄んだ」
「はい」
「今、ここはダンジョン内で最も環境の安定した地下森である」
教授はしばらく頷いた。
*
東條は、モニターを、切り替えた。
三階層の中央の大部屋の映像が映った。
大部屋の床は綺麗だった。天井は、赤みがかった岩肌が綺麗に露出していた。壁は割れていなかった。四日前、ロック・タイタンがいたその痕跡は、既になかった。
「三階層、中央の大部屋。四日前、風見様がロック・タイタンを、逆手の垂直払いで討伐された。その後、この大部屋の環境はこうなった」
教授は無言で書類のページをめくった。
「タイタンの素材である大量の岩は、ダンジョンの修復機能により再構成された。再構成の際、大部屋の乱れも同時に整えられた」
「はい」
「今、ここは翠嵐ダンジョンの三階層で、最も環境の澄んだ中央部屋である」
教授はしばらく頷いた。
*
東條は、モニターを、切り替えた。
三階層の左通路の奥の大空間の映像が映った。
大空間の床には、白い骨のようなものが綺麗に片付けられていた。整然と並んでいた。空気は澄んでいた。
「三階層、左通路奥。二日前、風見様がシャドウ・ドラゴンを、突きで討伐された。同時に、風見様が、床に以前の翼の骨が四つ転がっている、と詰所に報告された」
教授は静かに続きを待った。
「その直後、ダンジョンの修復機能が、以前の翼の骨も同時に整理した。四体分の翼の骨は綺麗に並べられ、大空間の雑然が消えた」
「はい」
「今、ここは翠嵐ダンジョンで最も澄んだ大空間である」
教授はしばらく頷いた。
*
「東條本部長」
「はい」
「これは、その、風見様が意図されてこうなさっているのですか」
「していない」
「……していない、と」
「はい」
「なぜ、そう断言できるのですか」
東條はモニターの操作を止め、教授の方に体を向けた。
「風見様の朝の素振りの映像を、この一週間、事務局で分析した。風見様は朝の素振りで、いつも同じフォームを繰り返している。そのフォームで、パーティ時代、三年間、ダンジョンに通われた」
教授はメモを取りながら聞いていた。
「三年間、荷物持ちとして。前衛にも後衛にも加わらず、荷物持ちとして。三年間、風見様はダンジョンで素振りをしなかった。荷物を運んでいた」
「……はい」
「今回、初めて、風見様はダンジョンで素振りのフォームを使われた。使った、その素振りのフォームが、大規模な地形変化を伴った」
会議室の空気が、少しだけ張り詰めた。
「風見様ご本人は、その地形変化を認識していない。なぜなら、風見様ご本人は、朝の素振りのフォームをそのまま使っているだけ、と認識しているから」
「はい」
「事務局の分析では、風見様は通路の壁が切れることを、ダンジョン特有の構造、と判断されている。大規模な地形変化と環境の整備を、風見様は意図せず、結果として引き起こされている」
教授はしばらく頷いた。それから静かに、こう言った。
「……つまり、風見様は、天然のダンジョン管理者である、と」
「そういうことになる」
会議室の全員が、しばらく沈黙した。
*
やがて、東條が静かに口を開いた。
「諸君」
会議室の全員が姿勢を正した。
「この事態を風見様に直接伝えるか否か、について意見を聞きたい」
東條は指を三本、机の上に立てた。
「一つ目の選択肢。全て事実を、風見様に伝える。二つ目の選択肢。事実を部分的に伝える。三つ目の選択肢。事実を伝えず、風見様の朝の素振りの日課を、そのまま続けていただく」
教授の一人が、しばらく考えた後、口を開いた。
「本部長」
「はい」
「私は、三つ目の選択肢を推奨します」
「理由は」
「風見様は、朝の素振りを生活の内側に置いておられます。その素振りが、生活の外側に押し出されると、素振りの質が変わります。素振りの質が変わると、朝の素振りのフォームが変わります」
東條は静かに聞いていた。
「フォームが変わると、ダンジョンの修復機能の活性化のパターンも変わります。結果、翠嵐ダンジョンの環境の整備のパターンも変わります。風見様には、朝の素振りをそのまま続けていただく方が、翠嵐ダンジョンの環境の整備には望ましい」
東條はゆっくり頷いた。
「以上が、私の意見です」
東條はしばらく頷いていた。
*
詰所の女性職員が、少し遠慮がちに手を挙げた。
「本部長、あの、私からも一言、よろしいですか」
「どうぞ」
「私、詰所で風見様を七日間、毎日、お迎え、お送りをいたしました。風見様はいつも、丁寧で律儀な方です」
東條は視線を女性職員に向けた。
「詰所で『何階層まで』と伝えていただいた階層より、深く進まれることはありません。今日は五階層まで、と伝えていただければ、五階層までで必ず戻ってこられます」
「なるほど」
「その律儀さがあるので、風見様に事実を伝えるかどうかを、我々が選択できる、この状況があります。もし、事実を伝えて、風見様が意図的に朝の素振りのフォームを変えられた場合、翠嵐ダンジョンの環境は確実に変わります」
彼女は少し息を継いだ。
「私も、教授と同じく、三つ目の選択肢を推奨します。風見様には、朝の素振りをそのまま続けていただきたい。詰所の方で、通り抜けの階層の指示を、静かに続けたいと思っています」
東條はしばらく頷いていた。
*
萩田も頭を下げた。
「本部長」
「はい」
「私も、三つ目の選択肢を推奨します。風見様は、モンスターの正式名称を認識されておりません。その認識を崩さない方が、風見様の朝の素振りの質は保たれます」
東條は書類の一点を指で押さえた。
「モンスターの正式名称を認識された風見様が、朝の素振りのフォームでモンスターを意図的に討伐する、その瞬間、風見様のフォームは変わります。変わったフォームで、ダンジョンの修復機能が活性化するパターンも変わります。結果、翠嵐ダンジョンの環境の整備のパターンも変わります」
萩田は書類を閉じた。
「風見様には、モンスターの正式名称を認識していただかない方が良い。詰所で、モンスターの正式名称を直接伝えないよう、指示を徹底いたします」
東條は深く頷いた。
*
東條はしばらくモニターを見た。
モニターの中で、翠嵐ダンジョンの綺麗に整備された通路が映っていた。壁は乱れがなく、天井は亀裂がなく、床は水平だった。全ての線が綺麗に揃っていた。
彼は静かにリモコンを置き、大きな机の正面に戻った。
「では、決定する」
会議室の全員が姿勢を正した。
「三つ目の選択肢を採用する。風見様には、朝の素振りをそのまま続けていただく。モンスターの正式名称は、詰所、その他で、直接伝えない」
全員が書類にペンを走らせた。
「翠嵐ダンジョンの環境の整備は、風見様の日課の副産物として継続する。特別冒険者の月額報酬は、算定の上限を維持する。風見様が、ダンジョンで大規模な地形変化を伴う活動をされる場合、詰所で律儀に記録を取る」
東條は一同を見渡した。
「以上、決定する」
会議室の全員が、深く頷いた。
*
「一点、追加で、いいだろうか」
と、教授が静かに口を開いた。
「どうぞ」
「風見様の朝の素振りが、既に日本全国の視聴者、数十万人に日課として定着している。その視聴者たちが、風見様にモンスターの正式名称をコメント欄で伝える可能性が、あります」
東條は少しだけ表情を引き締めた。
「風見様は、コメント欄をご覧になりませんか」
「なりません」
「なぜ」
「風見様のスマホは、通知欄が既に常時、赤い数字で埋まっています。風見様はその赤い数字を、迷惑メールと判断されて、開かずに閉じられます。配信アプリのコメント欄は、開くことがありません。したがって、視聴者からのモンスターの正式名称の通知は、風見様には届きません」
教授はしばらく頷いた。
「……その判断の迂闊さが、風見様の朝の素振りの質を守っているのですね」
東條は少しだけ苦笑した。
「迂闊さではなく、それも、風見様の生活の内側の律儀な選択、なのかもしれません」
会議室の全員が、静かに頷いた。
*
会議は一時間後、静かに終わった。
全員が会議室を出て、それぞれの持ち場に戻った。
東條はしばらく、大きな机の正面に座ったまま、モニターを見ていた。モニターは既に消えていたが、彼の目には、翠嵐ダンジョンの綺麗に整備された通路の映像が、まだ焼き付いていた。
彼は静かにつぶやいた。
「……天然のダンジョン管理者、か」
誰にも届かない独り言だった。
彼はしばらく席を立たなかった。
*
同じ日の午後、二時。
翠嵐ダンジョンの詰所の女性職員は、詰所のカウンターの内側で、書類の整理をしていた。
午前中の会議の内容は、彼女の頭の中にまだ深く残っていた。三つ目の選択肢。事実を伝えず、朝の素振りをそのまま続けていただく。
彼女は、その選択肢に賛成した当事者だった。
だが、賛成したその責任の重さを、彼女はじわりと感じ始めていた。
風見晴人様。三十二歳。地味なジャージ。木の枝。丁寧な丁寧語。律儀な性格。詰所で「何階層まで」と伝えていただいた階層より、深く進まれることはない。
その律儀な方の朝の素振りが、翠嵐ダンジョンの環境の全体を支えている。
その事実を、風見様ご本人は知らない。
彼女はそれを伝えないまま、明日も詰所で風見様をお迎えする。
*
彼女は書類の整理を終え、机の上の写真立てを少し見た。
写真立ての中には、彼女が若い頃、剣道の道場で、稽古着姿で竹刀を握って、真っ直ぐに立っている写真が入っていた。二十五年前の写真だった。
彼女はそれをしばらく見た。
それから静かに、机の引き出しから、小さなノートを取り出した。
ノートには、彼女自身の書き込みがあった。
『風見様の朝の素振り。腰の位置。膝の柔らかさ。呼吸の深さ。体の芯の通し方』
彼女はこの七日間、風見様の朝の素振りの映像を、毎日繰り返し見ていた。彼女なりの勉強だった。
この勉強を、彼女は明日も続ける。
風見様の朝の素振りは、彼女の若い頃の道場の稽古の記憶を、少しずつ静かに揺り起こしていた。
*
同じ頃。
風見晴人は家のテーブルの前で、素振りノートを開いていた。
今日の欄に、こう書き足したところだった。
『詰所の女性職員の方は、若い頃、剣道をやっておられたそうで、大変参考になる助言をいただいた』
『四階層の重力の狂う区画は、足裏の練習に最高』
『腰、三センチ深く、膝、柔らかく』
三行、書いた。
窓の外で夏の蝉が鳴いていた。
彼はまだ、何一つ気づいていない。
彼の朝の素振りが、既に日本本部の会議室のモニターに映され、二十人の大人たちに真剣に分析されていることに。
その分析の結論が「風見様には、朝の素振りをそのまま続けていただく」であることに。
第十二話 了




