【解説】「面倒でございます」の交渉術――増徳院のニール談判を読み解く
第二百二十九話から第二百三十二話まで、横浜・増徳院の客殿で近衛糸子と英国代理公使エドワード・セント・ジョン・ニールが向き合う。糸子は一度も声を荒げず、ニールを言い負かそうともしない。それでも英国は生糸を他国より先に受け取る約定を持ち帰り、ニールは七つの品を本国への報告に載せ、自分の意見として女王陛下の政府に推すところまで約束する。
帰りの坂道でエリオットが「量りに参ったつもりが、量られて帰る心持ちでございます」と漏らすと、ニールは「そのとおりだ」と認めている。それなのに二人は屈辱を受けた様子ではなく、むしろ糸子への評価を上げて帰っていく。
この談判の面白さは、十五歳の少女が英国外交官をやり込めたことにあるのではない。糸子はニールから意思決定権を奪っていない。むしろ最後までニール自身に考えさせ、値踏みさせ、英国にとっての利益を見つけさせ、その結果として「本国へ書こう」「自分の意見として推そう」と本人の口から言わせている。
現代の交渉学や心理学には、アジェンダ設定、情報の選択的開示、自己説得、BATNA、リフレーミング、統合型交渉など、この談判を説明する言葉がいくつもある。ただし、それらを一つずつ場面に貼り付けるだけでは、この会談の本当の巧さは見えてこない。一つの手が次の手を準備し、前半で置かれたものが後半で別の価値を持って戻ってくるところに、増徳院談判の凄みがある。
■話が始まる前に、座の意味を決めてしまう
糸子が最初に握ったのは、議題ではなく場所だった。会談場所に選んだのは英国公使館でも幕府の役所でもなく、増徳院の客殿である。そこへ居留地から椅子を揃え、畳を傷めないよう緋毛氈を敷き、英国人が違和感なく座れるようにしておきながら、なぜこの寺なのかと問われると「今日、この客殿は、天朝の座でございます」とだけ答える。英国式の椅子に英国代理公使を座らせながら、その椅子が置かれている空間の意味は糸子が決めている。
ここで重要なのは、増徳院が最初から糸子の陣地だったわけではないことである。誰のものでもない場所を借り、そこへ天朝という意味を与え、ニールを自分から訪ねてきた客の位置に置いた。しかも英国側の作法を排除していないので、露骨な威圧にはならない。形式については相手に合わせ、意味については自分が握る。相手の面子を保ちながら交渉の枠組みだけはこちらで決めるというやり方は、このあと何度も繰り返される。
寺へ向かう途中でエリオットが門や参道の侍を数えていることも見逃せない。ニールたちはまだ糸子と本題を一言も交わしていないのに、場所を変えるだけでこれだけの人間を動かせる相手だという情報を受け取っている。交渉の力は、こちらが「力があります」と説明するより、相手自身に観察させたほうが強く伝わる。増徳院の談判では、糸子の説明より先に、場所と人の配置が彼女の立場を語っている。
■通詞を追い出さず、断りにくい形で外へ出す
座に着く前、糸子は英国の通詞を外で休ませてはどうかと持ちかける。理由は「朝から、さぞお疲れでございましょうから」である。通詞を出せと命じたわけではなく、疲れている者への気遣いとして提案しているところが重要で、ニールはその場で損得を計算することになる。通詞を残せば、姫の英語を信用していないと受け取られかねない。一方で外へ出せば、日本側の侍たちが日本語で何を話しても英国側には分からなくなる。
つまりニールには選択肢が残されているが、その二つには同じ重さがない。拒否することにだけ余計な心理的費用が付いている。現代の行動科学なら選択設計に近い構造として説明できるが、この場面ではもっと単純に、糸子は相手から選択権を奪わずに、どちらを選びやすいかだけを先に決めていると考えればよい。命令されて通詞を外したのならニールには押し切られた感覚が残るが、自分で受け入れた以上、その不利益も自分の判断として引き受けることになる。
しかも、ここで外されたのは単なる通訳ではない。交渉の途中で言葉を確認し、時間を稼ぎ、相手の発言を一度第三者の口を通して受け取るための緩衝材でもある。糸子は「人を介さずに話ができましょう」と直接対話へ持ち込み、ニール自身にその条件を受け入れさせた。後にニールが糸子の問いへ即座に答え、その答えを材料に次の問いを返されていくことを考えると、この最初の一手は小さくない。
■詫びを後へ回して、英国側に未払いを一つ残す
ニールは会談の早い段階で、暮れの座に自分が出なかったことを詫びようとする。謝罪を先に済ませてしまえば、過去の失点を清算したうえで本題に入れるからである。ところが糸子は片手を少し上げてそれを止め、「お詫びは、後ほどゆっくり伺いまする」と言う。謝罪を拒絶したのではなく、受け取る時期を自分で決めたのである。
ニールにとって厄介なのは、詫びが済まないまま話が始まることだった。何を話していても、英国側にはまだ果たしていないものが一つ残っている。交渉学でいうアジェンダ設定は、単に議題の順番を決める技術ではない。何を先に処理し、何を未処理のまま残すかによって、その後の発言の意味まで変えることができる。糸子は謝罪を議題から外したのではなく、後で最も価値が高くなる場所まで保留した。
その意味が明らかになるのは、ニールが英国の本気をどう示せばよいのかと尋ねたときである。そこで糸子は「まずは、お詫びから」と戻す。会談の冒頭で受けていれば、過去の無礼を清算するだけの謝罪だったものが、この位置まで持ってくることで、英国が日本との関係を本気で考えていることを示す最初の証へ変わる。謝罪の内容は同じなのに、順番を変えただけで意味が変わっている。糸子が握っていたのは謝罪そのものではなく、謝罪にどんな意味を持たせるかを決める権利だった。
■情報は、持っている量より、どこまで持っているか分からないほうが怖い
本題に入る前、糸子は王配アルバート公の死を悼み、ヴィクトリア女王がいまも喪にあることに触れる。ニールが受けた衝撃は、知っていることそのものより、知っている範囲が読めなくなったことにある。本文には、知っていることを先に見せられたぶん、見せられていないものの大きさが測れなくなった、とある。英国の議会のこと、本国の訓令のこと、横浜にいる英国兵の数。どこまで知られているのか、ニールには分からない。
そこで情報源を尋ねると、糸子は「それは、極秘でございます」と微笑むだけで、手掛かりすら渡さない。ところが英語を誰に習ったのかと問われれば、村田蔵六と中浜万次郎の名を出し、その経歴まで添えて答える。ここが重要で、何でも秘密にしているわけではない。出してもよい情報は惜しまず出し、守るべき情報だけを閉じているので、ニールから見れば、彼女が隠しているのは無知をごまかすためではなく、本当に出すつもりがない情報だと分かる。
交渉における情報優位は、知識の量だけでは決まらない。相手がこちらの情報量を正確に見積もれないことにも価値がある。こちらが十まで知っていると分かれば、相手は十一番目から先だけを警戒すればよい。しかし三まで知っているのか、十まで知っているのか、二十まで知っているのか分からなければ、自分が口にする一つ一つについて「これはもう知られているのではないか」と考えなければならなくなる。糸子は王配の死という一つの情報を見せることで、その背後にある情報網全体をニールに想像させている。
■答えたくない質問には、拒絶ではなく同じ値札を返す
ニールは暮れの座に糸子を出したのは誰なのかと探る。英国側から見れば当然の質問で、糸子の背後に誰がいるのかが分かれば、朝廷内部の力関係や、今後どこへ働きかければよいのかが見えてくる。糸子は家の内のことだから答えられないとしたうえで、英国が自国の内の事情、つまり誰が誰を遣わし、誰の指図でニールが動いているのかを同じだけ詳しく話すなら、自分も考えてよいと返す。
これは単純な拒絶より強い。秘密情報そのものに値札を付け、欲しいなら同じ種類の秘密を同じだけ差し出してほしい、としたからである。社会心理学でいう自己開示の返報性に似た構造はあるが、ここでは心理的な親密さより交換条件として見るほうが分かりやすい。糸子は「話しません」と扉を閉めたのではなく、「同額なら売ります」と店を開けたままにした。
しかしニールにはその値段を払えない。誰が誰を遣わし、誰の指図で動いているのかまで話すなら、本国から受けている訓令や、暮れの座に自分が出なかった事情にも触れざるを得ない。そこで取引は成立しない。糸子は「では、話はついたようでございますね」と閉じるだけで、ニールを責めもしない。ただし完全な引き分けではなく、英国が「誰が糸子を動かしているのか」を知りたがっていることは、質問した時点で糸子に伝わっている。情報を取りに来たニールは、答えを得られなかったうえに、自分が何を知りたがっているかという情報だけを置いていった。
■自分の格を説明せず、ニール自身の物差しで測らせる
糸子が帝にどれほど近い人物なのかを知りたいニールに対しても、同じやり方が使われる。糸子は自分の身分や朝廷内の人脈を並べず、「ニール殿は、ヴィクトリア女王陛下に、気軽にお目にかかれますか」と逆に尋ねる。ニールは考えるまでもなく「とんでもない」と答え、そのあとで、自分が何を言わされたのかに気づく。
糸子はそこで「貴国で申せば、わたくしは、気軽にお目にかかれる側の者にございます」と置く。正木が気づいたとおり、帝に気軽に会えると直接言ったわけではない。英国代理公使が自国の君主からどれほど遠いのかを本人に言わせ、その距離を基準にして自分の位置を示しただけである。糸子が「わたくしは帝に近い」と自分で主張すれば、ニールには誇張を疑う余地がある。しかし自分で作った物差しを使って測った以上、その結論を否定するには、先ほど自分が答えた「とんでもない」から崩さなければならない。
心理学では、自分自身で導いた結論ほど受け入れやすくなる現象を自己説得として説明することがある。この場面の巧さは、まさにそこにある。糸子はニールに結論を教えていない。前提だけを口にさせ、結論はニールの頭の中で作らせている。増徳院談判で後々まで繰り返される、「相手に自分の口で言わせる」という型が、ここでは最も小さな形で現れている。
■「面倒でございます」は、断り文句ではなく価格の提示である
帝との距離を測り終えたニールは、英国政府と朝廷の間に立ってほしいと率直に頼む。英国には京都への直接の道がなく、糸子がその間に入れば大きな価値がある。ところが返ってきたのは、「なぜ、わたくしが? これでも十分に忙しいのでございます」と、「それに率直に申しまして、面倒でございます」だった。
ニールが戸惑ったのは当然である。外交上の依頼を断るなら、国情が許さない、本国の承認がない、時期が悪いといった理由が普通で、面倒だから嫌だという返事は聞いたことがない。しかし糸子の声には英国への侮りがない。そこでニールは意味を読み直し、自分たちが糸子に何も差し出していなかったことに気づく。英国には朝廷への道が必要だが、その必要性は英国側の事情にすぎず、糸子が骨を折る理由にはならない。
ここがこの談判の転換点である。「面倒でございます」は英国との関係を拒絶した言葉ではなく、英国側が当然のように置いていた前提を壊す言葉だった。英国に必要なのだから、糸子も協力するだろうという前提に対して、「なぜ、わたくしが?」と問い返したのである。相手にとって価値があることと、自分にとって価値があることを混同しない。交渉はそこから始まる。
しかも糸子は茶を一口飲んだあと、「ただし」と続ける。英国が日本と仲良くしたいと本気を見せるなら、自分も骨を折ろう、と。ここでニールは、拒絶されたのではなく値を付けられたのだと理解する。ただ働きなら面倒である。働かせたいなら、それに見合うものを示してほしい。まだ糸子は具体的に何も要求していないので、ニールのほうから「では、その本気を、どう示せと申される」と尋ねることになる。
この順番が重要である。糸子が先に七つの品を並べれば、日本側からの要求になる。しかしニール自身が「値段を教えてくれ」と尋ねたあとなら、それは英国が自ら尋ねた「本気の値段」になる。要求の中身を変えずに、要求が出てくる文脈を変えている。
■恩を売らず、「商い」にする
謝罪を受けたあと、糸子は英国の本気を言葉ではなく商いで見せてほしいと言う。ニールが手を貸すということかと確かめると、「手をお貸しするのではございません」「商いをいたしますの」と訂正する。この違いは、言葉遣い以上に大きい。
手を貸せば恩になる。恩は返済額も返済期限も曖昧で、貸した側が後から意味を決められる。英国代理公使が「日本の姫に恩を受けた」とロンドンへ持ち帰れば、英国外務省には扱いにくい案件になる。しかし商いなら、英国が何を得て、日本が何を得るのかを条件として説明できる。糸子は自分が有利になる形式ではなく、ニールが本国へ説明できる形式を選んでいる。
ここには、目の前の相手だけを説得しても意味がないという理解がある。ニールが納得しても、ロンドンが首を振れば話は進まない。だから糸子は最初から、ニールが本国へ戻したときに通る理屈を作っている。後に「お書きいただくことだけを」と頼み、報告書に書く理由まで三つに整理して渡すのも同じ発想で、増徳院の客殿で交渉している相手はニール一人でも、糸子が見ている決裁者はその先の英国政府まで含まれている。
■品の値段を話す前に、英国が得るものの値段を決める
糸子は七つの品をすぐには求めない。先に英国が日本で何を得られるのかを説明する。本文でも糸子は、品から話せば相手は品の値を量り、本国が金を出すまいと考えると見ている。そこで順番を逆にし、英国側の利益を先に量らせてから、日本側が求めるものを出す。
この順番によって、七つの品を見る基準が変わる。製糸機械や蒸気船だけを先に出されれば、ニールはそれが高いか安いかを考える。しかし日本で外国勢力の先頭に立てる、生糸を他国より先に確保できる、英国製の機械や制度を日本に根付かせられるという利益を先に見せられれば、その後に出る要求は「高価な贈り物」ではなく、その利益を得るための投資として計算される。
ここで糸子が操作しているのは、品の価格ではなく評価の基準である。要求額を小さく見せるために値切ったのではない。英国が得るものを先に大きく見せることで、同じ要求を別の尺度で測らせた。後にニールが七つの品を「大きなもの」と認めながら、それでも本国へ推すと言うことができたのは、この前段があるからである。
■空いた椅子を見せ、そこへフランスの影を置く
糸子は英国の利益を説明するとき、米国から話を始める。日本を開いた米国は内戦で手一杯になり、日本に力を割けない。そのため、異国の先頭に坐る椅子が空いていると表現する。主導権や影響力という抽象的な言葉ではなく、一つしかない椅子に置き換えたことで、英国が得られるものと失うものが目に見える形になる。
ニールが米国もいずれ戻ると試すと、糸子は否定せず、「はい。お戻りになりましょう」と受ける。そのうえで、戻った頃には誰かがもう坐っており、一度坐った椅子はそう簡単には譲らないものだと続ける。英国は清をはじめ各地で、先に地位を取った側として振る舞ってきた国である。糸子は英国に新しい理屈を教えたのではなく、英国自身がよく知っている論理を日本へ持ってきただけだった。
そこへフランスを置く。天朝物産会所はすでにフランス公使館と直接取引し、摺り絵をパリへ送り、印刷機を受け取っている。欧州では蚕の病が広がり、フランスは日本の生糸を欲しがっている。そして「英国がお急ぎになる必要はございませぬ」と言う。
交渉学でいうBATNA、つまり交渉がまとまらなかった場合の代替案という考え方で見ると、この場面は分かりやすい。糸子にはフランスという別の相手がいるので、英国が断っても生糸の売り先に困らない。一方の英国は、何もしなければフランスが先に空いた椅子へ坐るかもしれない。したがって時間が経つことによる損失は、糸子より英国のほうが大きい。
だから糸子は期限を切る必要がない。「明日までに決めてください」と言えば、こちらも急いでいることを教えることになる。急ぐ理由を全部相手に見せたあとで、「急がなくてよい」と言えば、時計を見るのは相手のほうになる。脅して急がせるのではなく、相手自身に急ぐ理由を計算させている。
■英国を優先しながら、えこひいきには見せない
ニールは当然、それほどフランスが欲しがっているなら、なぜベルクールへ持っていかないのかと尋ねる。糸子は「ベルクール殿は、わたくしの元へおいでになってはおりませぬもの」と答え、先に来た英国へ先に話を持ちかけたのだと説明する。
この返答によって、英国を優先することに手続き上の理由が生まれる。英国が好きだからでも、フランスが嫌いだからでもない。先に来た者へ先に話すというだけなので、後からフランスに問われても説明できる。交渉では結果の有利不利だけでなく、その結果がどういう手続きで決まったのかが重要になる。特定の相手を優遇しても、その理由が誰にでも適用できる原則になっていれば、他者から攻撃されにくい。
しかもここには、暮れの座から続く皮肉もある。前回は自分が出向かなかった英国が、今回は自分から糸子のところへ来た。その「来た」という事実が、今度は英国を列の先頭へ置く理由になる。謝罪すべき失点だったものが、会談の進行とともに英国側の利益へ組み替えられている。
■約束するのは順番と量で、値段ではない
糸子が英国へ差し出したのは、天朝物産会所の生糸を英国商人へ、他国より先に、決まった量だけ回すという約束だった。ただし価格は「相場のまま」とする。値を固定しない理由も明快で、「動くものを約束すれば、どちらかが必ず損をいたします」という考え方である。
価格を固定すれば、相場が上がったときは売り手が損をし、下がったときは買い手が損をする。損をする側には約束を破りたくなる理由が生まれる。そこで糸子は、動く価格ではなく、比較的守りやすい順番と量だけを約束する。しかも英国商人が横浜で困っているのは、単に値段が高いことではなく、欲しい量の生糸を確保できず、船を待たせることだった。英国が本当に必要としているのは安値より供給の確実性であり、糸子は日本側が価格を譲らずに、その不確実性だけを取り除いている。
ここには統合型交渉の基本がある。相手の要求をそのまま満たすのではなく、なぜそれを欲しがっているのかまで掘る。同じ一円の譲歩でも、こちらには大きな痛手で相手には小さな利益という場合がある。反対に、こちらにはほとんど痛くないものが相手には非常に価値を持つこともある。糸子は安売りという日本側の損失を避けながら、英国商人には大きな価値を渡している。
■「詫びの代金」を英国へ渡す意味
さらに糸子は、この優先権を「ニール殿のお詫びの代金」と呼び、英国を列の先頭へ置く。普通に考えれば、詫びた側が代金を払うはずなのに、ここでは謝罪を受けた糸子の側が英国へ価値を返している。
これはニールの面子を守るうえで大きい。英国代理公使が十五歳の姫に頭を下げ、それだけで帰れば、英国側に残るのは謝罪したという事実だけになる。しかし英国商人にとって価値のある生糸の優先権を持ち帰れば、「謝罪したが、その会談で英国の利益も確保した」と本国へ報告できる。糸子は謝罪を受けながら、謝罪した側が手ぶらで帰らなくて済むものを渡している。
相手の顔を立てるというと、丁寧な言葉遣いや儀礼の話に聞こえやすい。しかし交渉で本当に重要なのは、相手が自分の陣営へ戻ったとき、その合意をどう説明できるかである。ニールに「なぜ頭を下げたのか」だけでなく、「その結果、英国は何を得たのか」まで持たせることで、糸子は謝罪を屈辱ではなく成果のある取引へ変えている。
■最恵国条項を突かれたとき、守りに入らず論点の向きを変える
エリオットは、生糸を英国へ先に回すという約定に最恵国条項をぶつける。日本が英国に特別な扱いを与えれば、フランスや米国も同じ待遇を求めることができ、それでは「英国を先頭に」という話が意味を失うという指摘である。
糸子はそこで「では、求めさせればよろしゅうございます」と返す。日本はどの国へ回しても生糸を売ることができるので困らない。困るのは外国勢力の先頭に立ちたい英国ではないか、と論点をひっくり返す。エリオットは日本側の提案の弱点を突いたつもりだったが、その弱点によって実際に損をするのは英国側だった。
現代の交渉論ならリフレーミングと呼べる場面だが、大事なのは言葉の名称ではない。糸子は相手の指摘そのものを否定していない。「最恵国条項がある」という事実はそのまま受け入れ、「それで困るのは誰か」という問いへ変えている。そのうえで、国と国の約束にせず、天朝物産会所と英国商人との商いの約定にすればよいと解決策まで示す。
ここでニールが笑うのは、単にエリオットが言い負かされたからではない。エリオットの指摘は正しかったが、糸子はそれを敵の攻撃として処理せず、約定をより成立しやすい形に修正する材料として使った。交渉の途中で反論が出たとき、それを潰すことだけを考えれば相手との勝ち負けになる。反論によって合意の穴が見つかったと考えれば、そこから共同作業へ変えられる。増徳院談判がこのあたりから単なる駆け引きを越えていくのは、そのためである。
■ニールにできない約束を求めず、できる一歩だけを取る
糸子は、ニール一人では七つの品を決められないことも理解している。「このお話を、ニール殿お一人でお決めになれぬことは、存じております」と言われたニールが驚くのは、それまでの幕府側との交渉では、代理公使の発言を英国そのものの約束と受け取られることが多かったからである。
相手の権限が足りないと分かったとき、普通は「では権限のある者に聞いてくれ」と迫りたくなる。しかしそれをやれば、ニールには「本国へ照会する」という立派な逃げ道ができる。そこで糸子は約束を求めず、「お書きいただくことだけを、お願いいたします」と要求を一段下げる。ニールができないことではなく、確実にできることだけを求めたのである。
そのうえで、報告書に書くべき理由を三つに整理して渡す。米国が退いて先頭の椅子が空いていること、フランスが生糸を欲しがりすでに会所と取引していること、英国は商いの約定によって他国より先に生糸を得られること。ニールの頭の中では、その三つがそのままラッセル伯への報告書の骨組みになる。
交渉論でいう「黄金の橋」は、相手に降伏を迫るのではなく、相手が自分の陣営へ戻っても歩いてこられる道を用意する考え方である。糸子がここで架けている橋は、増徳院からロンドンまで伸びている。しかも求めたのは「書くこと」だけだったのに、ニールは自分の名で、自分の意見としてラッセル伯へ書くと言い出す。糸子が一歩を求めたところで、ニール自身が二歩目を足したのである。
■七つの品は、贈り物の一覧ではなく一本の道である
ようやく品の話になると、糸子は製糸機械、蒸気機関と工作機械、電信、蒸気商船、技師、商業実務を教える者を順に挙げ、最後に日本が外国から品を求めるときは英国から先に回してほしいという七つ目を置く。ニールが大きな要求だと指摘すると、糸子は小さく見せようとはせず、そのまま大きいと認める。その代わり、それぞれに英国側の利益を付けて説明する。
製糸機械を入れれば糸の品質が揃い、その糸を英国商人が先に受け取れる。英国製の蒸気機関が据われば、部品や次の機械も英国から求めるようになる。最初の電信が英国式なら、その方式が日本に根を張る。最初の商船を英国で造れば、日本の造船は英国を手本にする。英国人から商業実務を学べば、日本商人にとって英国式の商習慣が馴染み深いものになり、英国商人は日本で取引しやすくなる。
後世の経済学なら経路依存性や標準化という言葉を当てることができるが、本文の理屈はもっと素朴である。最初に入った機械は次の部品を呼び、最初に入った方式は次の設備を呼び、最初に覚えた商習慣は次の取引を呼ぶ。英国が今回渡すものは一度きりの贈り物ではなく、その後の英国製品や英国商人の需要を生み出す入口にもなる。糸子は七つの要求を、日本の利益だけでなく英国の将来利益としても読めるようにしている。
さらにエリオットは、六つの品を並べたところで、それらが蚕の繭から英国商人の手へ生糸が届くまでの道筋を埋めていることに気づく。製糸し、機械を動かし、修理し、技術を教え、商いの仕方を整え、通信し、船で運ぶ。七つの品はばらばらな欲しい物の一覧ではなく、生産から商業、通信、輸送までをつなぐ一つの仕組みになっている。
■本当に見るべきなのは、七つも取ったことではなく、何を取らなかったか
増徳院談判では七つの品が目立つため、糸子が英国からどれだけ多く取ったかに目が向きやすい。しかし交渉の設計としてもっと重要なのは、糸子が何を要求しなかったかである。金を求めず、生糸を高値で買う約束も求めず、自分個人への贈り物にもせず、ニールに権限のない約束もさせていない。英国へ恩を売る形を避け、日本国内の商いを英国に握らせることも拒み、英国と朝廷の間を行き来する便利な仲介人になることさえ引き受けていない。
代わりに求めたのは、製糸機械、蒸気機関、工作機械、電信、船、技師、商業実務といった、受け取ったあとに次の価値を生み出すものだった。金は使えばなくなるが、製糸機械は次の生糸を作る。工作機械は壊れた機械を直す力を残し、技師は技術を人に残す。商業実務を教える者は取引の習慣を残し、電信と船は情報と物を運ぶ能力を残す。糸子が選んだのは、その場で価値を消費するものではなく、次の価値を生み続けるものばかりである。
この視点から見ると、七品は英国から毟り取る戦利品ではない。英国が日本市場で先頭に立ちたいという欲望を、日本側の産業と商業を育てる投資へ変換する仕組みになっている。英国は自国の利益のために機械や技術を持ち込み、日本はその英国の利益追求を利用して自国の力を蓄える。どちらか一方だけが相手のために損をする形ではないからこそ、ニールも本国へ推す理由を持てる。
■Win-Winであっても、渡さない線ははっきりしている
もっとも、糸子は何でも英国と共有しようとしているわけではない。外国勢力の中でどの国が先頭に立つかについては英国が競えばよいが、「日本の内の商いは、日本の者が握りまする」と境界を引く。英国が日本市場で有利になることと、日本国内の流通そのものを英国に支配させることは別の話なのである。
技師を条約上の行動範囲の外へ出すには幕府側の許可が必要だとニールが指摘したときも、糸子は「それは、こちらで」とだけ答える。誰に話を通し、どのような条件で許可を取るかまでは英国へ開示しない。英国との交渉と、日本国内で処理すべき政治問題を混ぜていない。
この線引きがあるため、増徳院談判を単純な「Win-Winの成功例」と呼ぶだけでは足りない。双方に利益を作る一方で、共有してよい領域と、自分の側に残す領域を厳密に分けている。協調することと、主導権を渡すことは違う。その区別を糸子は最後まで崩していない。
■「近衛」から「天朝」へ、一語で紙の意味を変える
談判の最後、エリオットが七つの品と生糸の約定を目録にまとめ、その受取人を *Lady Itoko Konoe* と書く。英国側から見れば自然で、詫びを受け、品を求めたのは目の前にいる近衛糸子なのだから、彼女を受取人とするのは当然だった。
糸子はそこだけを訂正させる。「近衛ではございませぬ」「天朝、とお書きくださいませ」「これは、わたくしへの品ではございませぬ」。エリオットが *The Imperial Court* と書き直したことで、品の名も数量も変わっていないのに、紙そのものの意味が変わる。近衛糸子宛てなら英国代理公使から一人の姫への私的な贈答だが、天朝宛てなら英国から日本の朝廷へ向けられたものになる。
この一語は、会談冒頭の「今日、この客殿は、天朝の座でございます」と対応している。最初に会談の場所を天朝の座として定義し、最後に書類の受取人を天朝へ変える。増徳院談判は、近衛糸子とニールという二人の個人的な会談から始まりながら、最後には英国と天朝の間に一本の線を引くところまで進んだことになる。
ここまで来ると、ニールが最初に頼んだ「英国と朝廷の間に立ってほしい」という話の意味も変わって見える。糸子はその依頼を「面倒でございます」と断った。しかし最終的には英国から天朝へ向かう最初の紙を自分の手で整えている。矛盾しているのではない。糸子が拒んだのは、英国のために朝廷との間を行き来する便利な伝言係になることであって、英国と朝廷が直接関係を持てる仕組みを作ることではなかった。仲介人になることは断りながら、関係の設計者にはなっている。
■ニールが優秀だからこそ、糸子の交渉も成立している
この談判を糸子一人の圧勝として読むと、かえって場面の面白さが薄くなる。ニールは決して鈍い相手ではない。「面倒でございます」を侮辱と受け取らず、自分たちが何も差し出さずに糸子を働かせようとしていたことに気づく。フランスという代替相手の意味も理解し、生糸の優先権が英国商人にとって持つ価値も計算する。エリオットが最恵国条項を持ち出したときも止めず、指摘そのものは書記官の務めだったと認めたうえで、糸子の解決策を受け入れている。
ニールの本当の強さは、途中で自分が量られていると気づいてからである。普通なら、十五歳の少女に読まれていたと分かった時点で面子を守ろうと意地を張ってもおかしくない。ニールはそうせず、相手が自分の想定以上の交渉者だと認め、その事実を新しい前提として話を続ける。最初は「この少女は英国に使えるか」を測りに来たのに、途中から「この相手とどういう取引なら双方に利益があるか」を考える側へ移っている。
だから増徳院談判は、一方的な心理操作の場面ではない。糸子が相手の利益を読み、ニールも糸子の利益を読み直し、互いに相手の力量を認めたところから実質的な交渉が始まっている。優秀な相手を負かすことより、優秀な相手に「この話なら自分の側にも利益がある」と思わせるほうが難しい。ニールが愚かではないからこそ、最後に彼自身が本国へ推すと言ったことに重みがある。
■談判が終わったあとまで、糸子は答え合わせをしている
会談が終わったあと、糸子は英語をかじっている小田原と野村から、ニールとエリオットが行き帰りの道で何を話していたかを聞く。行きのニールは、姫が帝にどれほど近いのか、英国にとって役に立つ相手なのか、ただの賢い子供なのかを測ろうとしていた。帰りには評価が変わり、糸子のことを語るたびに言葉の重みも変わっている。客殿で糸子に見せた顔と、部下しかいない帰り道で見せた顔に大きなずれがないことを、糸子は別経路の情報で確認している。
ここにも情報の扱い方に一貫性がある。相手が面前で言ったことだけを信じず、別の経路から裏を取る。一方で、その情報を持ってきた小田原と野村については、二人が英語を学んでいることを近藤には言わないと約束する。王配の死をどこから知ったかを伏せたのと同じで、情報をくれる者の身元や立場を守っている。
情報網は、耳の数を増やせばできるものではない。この相手に話したことは自分を危険にさらさないと思われなければ、次の情報は入ってこない。糸子が情報を持っている理由は、単に人を使って探らせているからではなく、情報源を守ることで次の情報が入ってくる関係を維持しているからでもある。
■相手に言わせて、それで相手が笑って帰る
その夜、武藤がこの談判について、相手に自分の口で言わせ、それで相手が笑って帰るような話の運び方は誰にも教わっていない、と評する。この一言が、増徳院談判の本質を最もよく言い表している。
振り返ってみると、重要な結論の多くは糸子ではなくニールの口から出ている。ヴィクトリア女王には気軽に会えないと答えたのも、本気をどう示せばよいのかと尋ねたのも、本国へ書こうと言ったのも、自分の名で自分の意見としてラッセル伯へ書くと言ったのもニールである。糸子は結論を押しつける代わりに、問いを置き、比較する対象を置き、英国側の利益を示し、ニールが自分で結論を作れるところまで条件を整えている。
だからニールには、屈服させられた感覚が残りにくい。自分で考え、自分で利益を見つけ、自分で本国へ推すと決めたからである。心理学でいう自己説得が強く働くのもこの部分で、人は他人から押しつけられた結論より、自分自身で到達した結論を守ろうとする。糸子はニールの意思決定権を奪わないことで、逆にその意思決定を強いものにしている。
■糸子が英国に売ったものは、生糸ではなく「先頭に立てる未来」だった
増徳院談判を最後まで追うと、糸子が英国に売っていたものが単なる生糸ではなかったことが分かる。英国が本当に買おうとしているのは、日本で外国勢力の先頭に立てる可能性であり、フランスや米国より先に商業上の足場を築ける未来である。生糸の優先権はその入口にすぎない。
同じように、糸子が英国から買おうとしていたものも、製糸機械や蒸気船そのものではない。英国の技術、規格、技師、商業実務を使って、日本が次の富を自分で生み出せる状態を買おうとしている。機械一台の価格ではなく、その機械が次に何を生むかを見ている。
このため、双方の利益は同じ場所にありながら同じものではない。英国は日本市場への入口を欲しがり、日本は近代的な生産と商業の能力を欲しがる。欲しいものが違うから交換が成立する。交渉とは、同じ一つのものを奪い合うことだけではない。相手にとって価値が高く、自分にとって渡すことのできるものと、自分にとって価値が高く、相手にとって渡すことのできるものを見つければ、双方が自分の欲しいものを持ち帰ることができる。
■「面倒でございます」の本当の意味
だから、この四話を象徴する台詞は、やはり「面倒でございます」だと思う。この言葉が強いのは、十五歳の少女が英国代理公使を一蹴したからではない。相手にとって重要なことが、そのまま自分の義務になるわけではないと最初にはっきり切り分けたからである。
英国は朝廷への道が欲しい。だから糸子に間へ立ってほしい。しかし、それは英国の事情であって糸子の事情ではない。そこで「なぜ、わたくしが?」と一度止める。相手が困っているから助ける、相手が大国だから従う、相手が欲しがっているからこちらにも価値があるはずだという前提を全部外し、自分にとって何の利益があるのかを改めて問い直す。
そのうえで英国にも利益があり、日本にも利益がある形が作れるなら、「商いをいたしましょう」となる。ただし、日本の内の商いは渡さない。個人的な贈り物にもさせない。英国の便利な仲介人にもならない。自分が渡せるものと渡せないものを分けたうえで、相手が渡せるものとの交換を作る。
増徳院談判で糸子が守っているものを一つだけ挙げるなら、自分の意思決定権だろう。どこで会うかを自分で決め、何を話すかを自分で決め、どの情報を出すかを自分で決め、いつ謝罪を受けるかを自分で決め、何を英国へ渡し、何を日本側に残すかを自分で決める。
しかし同時に、ニールの意思決定権も奪っていない。本国へ書くかどうかも、七つの品を推すかどうかも、最後はニール自身に言わせている。
この二つは矛盾しない。むしろ同じ原則の表と裏である。
**自分の選択を相手に決めさせない。同時に、相手の選択もこちらが無理に決めない。**
その間に、双方が自分の意思で「これなら得だ」と言える条件を作る。
だからニールは、量られたことを認めながら笑って帰ることができた。英国は謝罪しながら、生糸の列の先頭を持ち帰ることができた。糸子は七つの大きな要求を出しながら、それを英国にとっても利益になる投資として本国へ送らせることができた。
強い交渉とは、相手を言い負かすことではない。こちらの要求を力ずくで呑ませることでもない。相手が自分の陣営へ帰ったあとまで、「なぜ自分はこの合意をしたのか」と説明できる理由を残し、その理由を相手自身に作らせることである。
武藤の言う「相手に自分の口で言わせて、それで相手が笑って帰る」という評は、まさにそこを突いている。
そして、その長い談判を動かした最初の言葉は、大仰な外交辞令でも脅しでもなかった。
「なぜ、わたくしが?」
それだけである。
英国が欲しいからといって、自分が動く理由にはならない。まずそこを切り分ける。そして双方の利益が重なる場所を探し、値を付け、条件を作る。
だから、その次の一言が効く。
「面倒でございます」。
これは拒絶の言葉ではない。
『お相手の都合だけで始まっていた話を、双方の利益を交換する本当の交渉へ戻した言葉なのである。』
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