第十五章 地球の裏側で オーストラリア 5 オーストラリアの鳥たち
5 オーストラリアの鳥たち
ロイヤル国立公園で私たちは何日かを過ごした。この一六〇平方キロをこえるすばらしい場所は、驚くべきことには、なんと一八七九年の昔にさかのぼり、既に創立されていたのである。ここは、シドニーと近郊の人々のレクリエーションによく利用されており、人が集まるポイント、たとえばカンガルー・フラットの樹木におおわれた川岸のピクニック場のようなところには、鳥がたくさん見られた。すぐそばの草地でモモイロインコの大群が餌をとり、キバタンが枝からさかさにぶら下がって、木の実をかじっている。動物園でしか見たことがない種類だ。カラスに似たフエガラスは、ヨーロッパの鳴禽類のどの種類よりも大きい。
ツチスドリのつがいが、ちょうどツバメの巣を巨大にしたような、風変りな泥の巣のところにいるのを見た。巣は、枝のおおいも何もないところに、むき出しで作られている。同じようなところに、細い小枝をこぎれいにきちんとクモの巣でとりつけたオニサンショウクイの巣もあった。実用的なバードスたちは、この鳥をビフクスと呼んでいた。何十種類もの鳥たちは、どれを見てもイギリスのものとは著しく異なるものばかりであった。
レディ・キャリントン・ドライブをはずれてすぐのところで、私たちはやわらかな叫びや舌打ちのような鳴き声を聞きつけた。きわめつけともいうべきコトドリの雄の声で、それもすぐそばだ。みんなは、私がやぶに入って、自分の力で見つけるようにとすすめてくれた。おかげで、わずか一・八メートルの距離から、なんともすてきな奇妙な鳥が、ディスプレイ用の台座でさえずり、尾を立てて、まるで背中から裏返しになるような恰好をしてみせるのを、じっくりと眺めることができた。
この公園には、ありとあらゆるものがあった。そびえたつ照葉樹の雨林、乾燥したものも、湿潤なものもあるヒース地帯、砂浜の湾。そこではサメ除けに張られた網の内側で泳いだものだ。シドニーの海岸では、その日、怪物じみたサメが四〇〇頭以上も数えられている。
これだけ大都会に近いところで、これほど広大、かつ鳥を見るのによい場所を、他にはまだ見たことがない。オーストラリアの高名なアマチュアの鳥学者で、著述家のアーノルド・マクギルが、今世紀初め、この公園からスタートを切ったのは、何のふしぎもない。この老哲学者とともにフィールドに出ると、かつてロムニー・マーシュでホレース・アリグザンダーといっしょに歩いたことが思い出された。ホレースも、思い出を語るのが好きだった
アーノルドは、アオアズマヤドリを見に連れて行ってくれた。ジョージとメアリーのディブリー夫妻のようなほかの大ベテランといっしょだった。この鳥の雄は、小枝でトンネルのような求愛場所を作り、自分と同じ青い色のものを集めてきて、雌をひきつける。美しい雄は、同じ色のさまざまな小物で飾られた、ディスプレイ用のトンネルにいた。飾りつけに使われていたのは、ペンのキャップ、ビンのふた、ストロー、そして、明らかにいちばんくすねやすいせんたくばさみなどだった。土地に住んでいる友人は、奥さんのせんたくばさみのストックを、アオアズマヤドリから取りかえしていた。
その日にも、イギリス人やアメリカ人のバードリスターたち(この人たちは、みんな、いったいどうやって、こうした時間やお金を都合しているのだろうか!)がシドニーへと飛んできていた。この人たちは、ロイヤルやカーネル周辺、そして外洋をまわるフィールドクラブの船旅で、数日間でてっとり早く二〇〇種類を稼いでゆく。地球の裏側にあたるこの国の人々は、もう見慣れていることだが、私もこうした荒稼ぎの様子を見る羽目になった。もっとも、私もこうした船旅に連れて行ってもらっている。
それにしても、この人たちはトラツグミを見るほど運にめぐまれてはいなかっただろう。なんとかして私に一羽を見せてくれようとして、友人たちは、三回にわたって出かけてくれたのだ。ロイヤルの森林におおわれた谷あいで、六〇メートルもの高さにそびえたつユーカリや、テレピン松や、ユーカリの類の鉄皮樹が生え、昼なお暗く、じっとりと冷たい場所である。私はどうしてもトラツグミが見たかった。英語では「うろこツグミ」と呼ばれることもあるこの鳥は、オーストラリアからシベリアに至る広大な分布域を持ち、イギリスにも時には渡来することがあると言われている。しかし、イギリスでの目撃例のほとんどは、じっさいにはヤドリギツグミの若鳥だった。
林床で落ち葉をひっくりかえしていたトラツグミは、つと立ち止まり、おそれげもなくこちらをじっと見つめた。大きくて金色をしていて、ほんとうにうろこのようなもようがある。ヤドリギツグミとは、どう見てもひと味違っていた。
トレイルのところまでよじ登ってから、みな、体にくっついた小さいしろものをむしりとった。女性メンバーのひとりは、服の中でもぞもぞやっていた。
「ご存じかしら?ほら、私のつけぼくろですのよ」 胴のまんなかのところに、黒くてよくふくれた八センチもの長さのヒルが吸いついて、いたって幸せそうに、のびのびと体をのばしていた。彼女はまず私に写真を撮らせた。こんなことができる人は、そうそういるものではない。それからヒルの頭に塩をふりかけて、ヒルが落ちるまで、体を傾けてぴょんぴょんはねた。
アン・リンゼイと、アーチストのご主人のテリーは、ブルー・マウンテンをバンで横断する長い週末のキャンプ旅行に連れて行ってくれた。シドニー港のキリビリーで、滞在中、アパートをシェアさせてもらっているマーガレット・キャメロンもいっしょだった。後続の車には、ブライアン・フィンチとカナダから来ているマリリン・マッケラーが乗っていた。
ほとんどの時間は雨に降られたが、まるで魔法のようにすばらしい旅行だった。一四七種もの鳥が見られたということからだけではない。この地域だけで三五〇種類が記録されており、私にとっては、この国の鳥は大多数がなじみのない種類なので、初めて見る鳥がほとんどだったこともさほど不思議ではなかった。
バッカルー、パイプクレイ・クリークなどといった場所を示している朽ちかけたむかしの道標を通り過ぎ、丘を上がり下りし、森林を通過して行く。森には、もっと丈の低い樹種の樹冠の間をきれいに抜いて伸びあがっているシドニー・ブルー・ガムの木も見られた。角を曲がるごとに、何かしら新しいものが目についた。樹木の大半、特にユーカリ、バンクシア、アカシアなどは花をつけていた。花蜜や花にひきつけられた昆虫のおかげで、六八種類におよぶオーストラリアのミツスイ類のうち、たいへん多くの種類を見ることができた。オウムの類も豊富だった。偉大な国、オーストラリアには、オウムやインコの類が五五種類も生息している。
もちろん、悪いこともあった。悪いことをなにも起こしていない国などあるだろうか。斜面が刈り払われ、高い樹木の幹だけが立っている谷間を何か所か見かけた。こうした樹木の死体は、「リング・バーカー;樹皮はがし」(訳注 幹まわりの樹皮をひとまわり、輪状にはがすと、根からの水分や、葉からの栄養分補給が絶たれるために木が枯れてしまう)や「サッカー・バッシャー;藪つぶし」のために、足もとからゆっくりと死んでいったものである。家畜を飼うために、森林を草地に変えようとしているところだった。
かつては樹木の帝王だったこれらの樹幹は、今ではオナガイヌワシの高い見張り塔になっていた。翼開長が二・一メートルもあり、おそろしい鈎爪でカンガルーを殺すこともできる猛禽である。雑食性のカササギフエガラスも、地表を見渡すのにこうした見晴らし場を利用していた。この鳥は、カラス科とはまったく関係のない種類だが、ヨーロッパのズキンガラスをもっと派手にしたような感じの鳥である。
農業における経済的な変動の結果、草地では家畜が減少し、その代わりにカンガルーが著しく増えている。一九〇〇万頭に及ぶと言われるカンガルー(アカカンガルー)は、二億頭にのぼるアナウサギと同様に、農民にとっても脅威になっている。アナウサギはオーストラリアに持ち込まれて以来、際限もなく増加し続けている。コントロールのため、一九五八年から粘液腺腫のさまざまな系統が導入されているが、アナウサギは既に病気への耐性を獲得するに至った。
私たちの車のフロントには、頑丈な「カンガルー・ガード;グリルガード」がとりつけられていた。効果があることはまちがいなかった。幸いに衝突こそしないですんだが、危うくぶつかりそうになったことは何度もあったし、ひかれて道路わきにころがっている死体の数も、はんぱなものではなかった。
生息環境が変化した結果、いくつかの種類の鳥はおびただしく数が増えた。とりわけハトやオウムの類である。環境の変化には、数多く作られたダムや、家畜のために設けられた水のみ場といったものも含まれている。あるトウモロコシ畑の地域では、道にこぼれた穀粒を漁っていたモモイロインコが、一台のトラックのために九羽もひき殺されてしまった。私たちは、やわらかなピンクとグレーの羽に包まれた死体を見るために車をとめた。
私はいくつかの町で講演した。そして、私たちの小さな国イギリスで、EC(ヨーロッパ共同体)の無秩序な過剰生産にさらに穀物を追加するために、どれほど多くの野生生物の生息環境を破壊してきたか、また、数多くの私たちの小さな保護区域で、多すぎる利用者に対応して、どれほどの注意を払いながら運営して行かなくてはならないかを話した。
「ここでは心配ないさ」と思った人も少なくなかっただろう。オーストラリアには、まだ時間も土地もある。しかし、私は同じように大きな国であるアメリカ合衆国ではどうしているかを話した。草土をはぎとって畑を開墾していった初期の開拓者たちは、何十億羽もいたリョコウバトがあっという間にいなくなってしまうなどと、想像してみたことがあっただろうか。オーストラリア固有種で、地上に巣をつくるライチョウバトやクマドリバトは、かつて何百万羽もいたのに、平原に家畜がやってきて、卵をすべて踏みにじってしまったため、いまや絶滅に瀕しているのではないだろうか。
私はこうした問題について、ビクトリア州の環境局次長、シド・コーリングとメルボルンで話し合った。彼はずっと先のことを見通せる人であった。マーボロー校の前校長であったトム・ガーランドも同様であった。トム・ガーランドはサフォークのわが家に近所にしばらく住んでいたことがあり、現在はオーストラリア鳥学会の事務局長だった。私はトレンサムの近くのこの人のお宅に滞在させてもらっていた。木々におおわれた丘陵にあり、ここでの朝の小鳥のコーラスは、導入されたクロウタドリ、ウタツグミ、アオカワラヒワに加えて、何種類かいるオーストラリアのロビンの仲間(どれも、イギリスのロビンのように胸が赤くはない)の声もまじっていた。ただし、ワライカワセミが起き出して、耳障りな声が大気をつんざいてひびきわたり、小鳥たちの歌を笑いとばしてしまう前のいっときのことである。
一九七五年、アデレードに南下して、南オーストラリア鳥学会で講演した時には、こんなふうに言われたものだ。
「もし、私たちがあなたのおっしゃるような管理方法で、鳥やバードウォッチャーに対処する必要ができてくるとするなら、それは、悪しき方向に進んだというものではないのでしょうか」 一人は激しい調子でこう言った。「イギリスはね、飼い鳥業者をうまく取り締まることができない国の裏で、糸をひいているんだ。絶滅危惧種を密輸するようなやつらの蔭でね」
これは、ヒムネキキョウインコの問題についての大きな関心をあらわしている。飼い鳥として大々的に品種改良されているセキセイインコも、オーストラリア原産のもっと地味な種類だが、ヒムネキキョウインコはもう少し大きく、けばけばしい色をした地上採食性の鳥である。この鳥の減少については、イギリスに多大な責任があると非難されている。
一九八八年に出された国際鳥類保護会議(ICBP)の「世界の絶滅危惧鳥類」によれば、この種類はいまだにオーストラリアで絶滅を危惧されている八種類のオウム・インコ類に含まれている。国際組織のCITES;絶滅危惧種輸出入監視組織(Conservation on Trade in Endangered Specues)が新たに作られ、模範的ともいうべき活動を行っているにもかかわらず。
ちなみに一九八八年といえば、アレクサンドリーナ湖のグールワに、RSPBタイプのハイドやそのほかの設備を備えた保護区がオープンした年でもあった。
国立公園と野生生物省のローリー・デルロイは、鳥の生息環境に対してもっとも深い関心を持つ人だった。この人によれば、最近の大きな進歩として、オーストラリア南部で最良の沼沢地と言われるブール・ラグーンの浚渫計画が、大々的な反対キャンペーンにあったことが挙げられるとのことである。浚渫計画に対して、地元のわずかなバードウォッチャーと、ローリーが所属している漁労狩猟局が掲げた反論の力には、誰もが驚かされた。結局のところ水資源供給公社は計画をあきらめ、ブール・ラグーンは五〇万羽をこえるトキ類ほかの水鳥の繁殖地として守られることになった。その上、マレイ川と関連の湿地帯に影響を与えるような開発計画のすべては、野生生物の保護のためにきびしい検討を加えられることになったのだ。「人々は、結局はめざめるものですよ」とローリーは言った。
しかしながら、いくつかの大都市について、隣接する森林を保護しているとされているところでは、自然保護とはどうも紙上に書かれているにとどまり、ただ単に、著者の評判を上げるために用いられているだけのように見受けられた。
ローリーは、アレクサンドリーナ湖のふちで始めている生息環境管理の活動的な仕事を、熱をこめて見せてくれた。ここは、広大で乾燥したサリコルニアの灌木林である。こういう場所を見ると、鳥にもっと役立つような環境として活用できるじゃないか、と私も声を大にして叫びたくなるようなところだった。
当時のオーストラリアとしてはきわめてユニークで実戦的な自然保護活動として、マット状にひろがっているピッグフェイスの群落がブルドーザーではぎとられた。そして、水鳥の餌となるようなコウキヤガラやその他の植物が導入された。ピッグフェイスはオーストラリア原産の多肉植物で、マツバギクに似た鮮やかな色の花をつける。実や多汁質の葉は食用にでき、地中海地方ではホッテントットイチジクと呼ばれている。
見られた水鳥の中にはロウバシガンもいた。イギリスの公園ではどこでもよく飼われていて、目につく種類だが、生まれ故郷であるここ、オーストラリア南部では稀になっているものだ。小群をなして、野生的で油断のない様子を見るのはすてきだった。
シギ・チドリ類やアジサシ類の繁殖のために、ローリーは堤をめぐらせたスクレイプと小島を作るつもりだった。きっと成功するに違いない。オーストラリア南部のこの地域には、何百万羽ものシギ・チドリ類が越冬しており、これは南半球のどの地域よりも多かった。
アレクサンドリーナ湖のモスキート・ポイントや、プライス・ソルト・フラッツのような場所では、数多くの鳥が繁殖している。中にはイギリスの希少な鳥であるソリハシセイタカシギの親戚で、首がオレンジ色をしたアカガシラソリハシセイタカシギや、イギリスでは最近は繁殖が見られなくなってしまったシロチドリと近縁で、鮮やかな色の頭をしたアカエリシロチドリもいた。こうした場所は、オーストラリア南部でも少なくなっている。しかし、ありがたいことに、この偉大な国の北や北西部の海岸には、まだ広大な干潟があった。
「ここに来た人のなかで、私がやろうとしていることを支持してくれたのは、あなたが初めてですよ」ローリーは言った。「他の人は、これが間違った計画だと思っているのです」
七年後、この場所で再会した時には、ローリーの仕事は進展し、わずかではあるが、支持を得るようになっていた。島で繁殖しているアカガシラソリハシセイタカシギはたった一つがいではあったが、自分がやろうとしている仕事に対して、彼は熱意と忠誠心を失ってはいなかった。私が書いた本「ミンズメア」はおおいに役立ったとローリーは言ってくれた。そして、こうした努力は信用を勝ち得つつあった。
他日、私がアレクサンドリーナ湖の大きな島々に連れて行ってもらった時は、善良なローリーといっしょではなかった。ここは、何千羽ものウ、トキ、ヘラサギ類が巣をかけている場所だったが、この年にはあいにく一羽もいなかった。オーストラリアでは、コロニー営巣の鳥たちが繁殖できるかどうかは、適当な降雨の有無にかかっている。こんな大きな湖でも?むろんのことだ。
私の連れがこの驚くべき意見を言ったのは、そのすぐ後、クロオビトビが出現した時だった。これはカタグロトビによく種類だが、ちょうどミツユビカモメの若鳥のような「W」の模様が翼下面に出る。ここは、通常の生息範囲よりも四八〇キロも南にあたっていた。情けないことに、トウィッチングでは、普通種の鳥がぜんぶ繁殖に失敗してしまったことよりも、一羽の珍鳥の出現の方がはるかに興味深いできごとになるのである。私は繁殖失敗の理由を聞き忘れてしまった。




