第十五章 地球の裏側で オーストラリア 6 オーストラリアあちこち
6 オーストラリアあちこち
デイヴィッドとエリザベスのクローズ夫妻は、木陰の多いコロマンデル・バレーの自宅から、ジョーンと私をマレー・スクラブに連れて行ってくれた。ふたりのお子さんたちも一緒である。クローズ家の庭ではナナクサインコの類がやかましかった。しかし、北方の砂漠のへりにあたるマレー・スクラブでは、黄色くすがれた草がまばらに生えた土地が何キロも続いている。やけつくような暑熱は数多くの開拓者の心をもうちくだいたに違いない。この土地はうち捨てられ、カンガルーにまかされていた。
オオトカゲやtall-standing lizardなどが砂ぼこりを後に残してすばやく逃げ出した。一方、眠そうなアオジタトカゲは、口を大きくあけて威嚇したものの、口から離れたところで、うろこにおおわれた肥った胴体に手をまわして持ち上げても、されるがままになっていた。
友人たちは、クサムラツカツクリを見せようとして、連れてきてくれたのだ。この地方にしかいないツカツクリの一種で、背丈は六〇センチもある。藪の中の足跡をたどって行くと、巣のところに出た。草や葉や砂を積み上げた大きな塚は、広さ三・六メートルもあり、孵卵器の役割を果たしている。中心部には二〇個から三〇個の卵が埋められており、ふ化したヒナは穴を掘って外に出る。そして、親鳥の助けがないままに、自力で餌を探しはじめるのだ。クローズ夫妻のおかげでこの鳥を見ることができた。
他の足跡をたどってゆくと、私とジョーンにとってはまた違った意味で、珍しいものごとにぶつかった。乾燥した砂漠上の灌木地帯に、アデレード鳥学クラブがコンクリート製の水のみ場を作っていた。そして、善良な農民のひとりが、二キロ近くもの長さのパイプラインで水を供給してくれていた。私たちは、水を飲みにきていたキツネを一頭見かけた。この国に導入された数々の生物の中でも、キツネの導入はもっとも愚かなことのひとつと言えるだろう。キツネは水浴びをしていた何羽ものハチクイやモリツバメ、ルリオーストラリアムシクイ、そして、あろうことか、ヨーロッパ原産のゴシキヒワ一羽を驚かせた。
ジム・フランシス、ジョン・ウォー、そして、またしても旧知の間柄だったジャネット・エイトキンは、シドニーから北上してニューキャッスルに至る海岸に、三回にわたって連れて行ってくれた。イギリスのタインサイドにあるもともとのニューキャッスルに、ここはよく似ていた。イギリスでもオーストラリアでもニューキャッスルは製鉄所、石炭殻、鉄道のあるやかましい都市だが、ここでもイギリスと同様に、潮が入る大きなハンター川があって、泥のスロープではたくさんの鳥が餌をとっていた。イギリスで私たちが携わっている保護の仕事は、友人たちにとっても大きな励みになった。すばらしい場所を保護する必要を感じるためには、わざわざイギリスの保護区を訪れるまでもなかった。この人たちは、小さい地方グループに所属しており、ウィルマ・バーデンが精力的に活動をリードしていた。彼女は大多数の地域住民が産業による乱開発に無関心であることや、狩猟法が実際に施行されていないことに対抗して、クーラガング鳥類保護区を確立するために働いた人である。
製鉄所によって、川岸には大きな堤防が築かれていた。灰と溶鉱炉の鉱滓は、マングローブの沼沢地を埋め立てるのに使われていたが、堤防のすきまを埋めるのにも用いられていた。幸運なことには、こうした場所はしばらくの間、鳥が餌をとるのに素晴らしく具合がよくなる。ここでは、コシグロペリカンや渉禽類の大群が見られた。なかでも、オオソリハシシギ、ダイシャクシギ、チュウシャクシギはそれぞれ数千羽もの大群をなし、キアシシギやソリハシシギも数百羽の群れが見られた。より少ないが、メダイチドリをはじめ、大型のチドリ類もいた。地域で講演したり、新聞のインタビューに答えたりして、私もささやかながら、保護のための宣伝活動に協力させてもらった。
数年の後、一九八七年になってから、大会社、ブロークン・ヒル・プライアティと地域の評議会が、ここの近くにショートランズ・ウェットランド・センターを設立するために資金を用意したと聞いて、とてもうれしかったものである。トレイルやハイド、ビジターセンターを備え、利用者も多いそうだ。これこそ、鳥とバードウォッチャーの双方の要求に応じた保護区である。
一九七五年にオーストラリアでこういった場所の話をした時には、そんなところに誰が行くだろうかといつでも言われたものだ。おとうさん、おかあさん、そして子供たちが、家族そろって保護区に通う常連になってくれるというのは、おおいに頼もしい傾向である。イギリスに追随することになるなどと反発しないでいただきたい。二五年間、四半世紀にわたってこうした自然観察、そして自然保護の実践方式がイギリスで発達してきているのは、未来にとってすばらしいことである。
一九八二年、夏のオーストラリアで、焼けつくように暑い日のことだった。ジョーンや友人たちがみんなニューキャッスルの大きな橋のアーチの蔭にいる間に、私は水ぎわの泥の上に出て、休息している鳥の大群に近づいていた。テレビのインタビューに応じているところで、レポーターとカメラマンがいっしょだった。あいにくなことに、この人たちは二人ともバードス;オーストラリアでバーダーを示すことばーではなかった。この場所がどれほどすばらしいところか、ここを守ることがどれほど重要か、と熱をこめて話している最中に、私はひょいとこういうことばをはさんだ。「ほら、そこにツルシギが一羽飛んで行きますよ」
ツルシギは特徴のある「チュウイッ」という声で鳴きながら、冬羽の純白の下面、長い嘴、尾をこえて突き出た赤い脚をくっきりと見せて、頭上を飛んだのだ。よく見知ったおなじみのユーラシアの種類である。もしこれがオーストラリアで初めて記録されたツルシギだと知っていたら、私はテレビでの話をもっと活気づけることができたはずだった。どこへ下りたか突き止めようとして、友人たちがあっちだ、こっちだ、と叫びまわっている声もまじえられたに違いない。
このことを聞いて、彼らはあたりを何日も探しまわったが、ツルシギは滞在してはくれなかった。この国で初記録の鳥を目撃した唯一の人間は私であったし、あまりにも短い目撃例であったために、オーストラリア産鳥類に入れるという当然の権利は主張されなかった。その時以降にツルシギは二回以上記録され、何人ものトウィッチャーによる詳細な記載に裏打ちされて、オーストラリアの鳥類リストに含められるようになった。
まったく、「その国で初めて」の鳥などというものを自分で見つけるものではない。ろくなことはない。一九七四年、ナイジェリアで「初記録の」ヤチセンニュウを見たことがある。この時には他の人々がいっしょだったので、記録は容認されたのであった。
もてなしのよいオーストラリア人は、どれほど遠くであっても、最高の鳥を見る最高の場所へと連れて行ってくれた。
「えーっ、ヒメクイナをまだ見たことがないんですか?ヨーロッパでも?」
すぐさま私はブッシェルズ・ラグーンへと連れて行かれて、何羽かのヒメクイナをはじめ、その他見たいと思っていた数多くの鳥を見せてもらった。シドニーから南下したところにある標高の高いバレン・グラウンズにドライブして、きわめて稀な種類であるキジインコを見せてもらったこともある。霧雨がしとしと降っていた。ひざまでの深さの濡れたヒースの原をぬけて歩いている時に、驚いて飛び立ったこの鳥を見ることができたのだ。
飛行機で都市から都市へと移動するような旅行では、初めての国にきたのに、見落としてしまうことがあまりにも多い。そこで、ジョーンと私は、クック社の一ヵ月にわたる汽車旅行を予約したことがある。列車はゆっくりと走り、食堂車もいたって好ましく、窓から窓へととびつきたくなるほどの景色は、いくら見ても見飽きなかった。ブリスベーンへ行く途中で通過したレミントン国立公園のオレイリー・マウンテン・リゾートは、亜熱帯の樹林で、鳥を見るにはおよそ望みうる最高の場所であった。わくわくするほどすばらしく、その上快適でもあった。私たちは、オオカンガルーが尻尾によりかかって立ち、すぐそばを通過する列車を眺めているところを見て、大喜びしたものだ。お腹の袋から、赤ちゃんカンガルーが目を丸くして私たちを見つめていることもよくあった。
古くからある有名なオーストラリア横断のインディアン・パシフィック鉄道で西に向かい、アルカリに強いハマアカザ属の灌木が生えた砂漠に出た時には、最近大雨が降って水たまりになった地域を走ることができた。願ってもない幸運である。おかげで、何百羽もの大群をなしたセキセイインコが、本来の生息地で群れているのを見ることができたからである。すばらしい光景だった。セキセイインコは一〇〇万もの家庭に飼われ、むろんのこと、人間のよき伴侶となっている。とりわけ年配の人々にとっては、かけがえのない友だちである。しかし、私はどんな種類の鳥であれー他の動物は言うにおよばずながらーケージに閉じ込められて飼われているのを見るのは好きではない。
この旅行中に、私たちはおよそ考えられるかぎりいちばん怠慢な方法で、ライフ・バードのリストに一種類を付け加えることができた。ワッガ・ワッガをこえた乾燥地帯でのことだ。たいへん親切な車掌さんが、朝六時半にお茶とビスケットを持って起こしにきてくれて、こう言った。「お約束のものが外にいますよ。はよ、おふたかた!」そして、カーテンを上げた。一等客室のベッドから片ひじをついて体を起こすと、そこには初めてみるエミューがいたのだ。四羽の巨大な鳥が、縞もようのついたヒナたちを連れて、ゆっくり走る列車から、ゆうゆうと歩み去るところだった。
オーストラリアは大きい。そして、バードウォッチャーにとって本当におもしろいところだ。オーストラリアのバーダー(オージイ・バードス)たちは、鳥は食べるもの、撃っておもしろいもの、あるいは興味なし、という国々からの移民の割合が増えることを心配していたかもしれない。しかし誇りをもって実践されている平等主義から、こうしたことに対する不満をもらしはしなかった。たとえ、文句を言ったとしても、イギリス系の移民からは十分な理解が得られたに違いないけれど。
イギリスも多文化の共存が見られるようになっている。そして、他の国から移住してきた人々が、私たちの保護区を訪れる割合は高くはない。それでも、私たちはRSPBのジュニア鳥学クラブを通じて、また、学校やテレビの自然番組で、自然の価値を紹介しているそれぞれの州のワイルドライフ・トラストでも、鳥に対しての理解を育ててきている。
オーストラリアは、確実とは言えないにしても、共和政体に向かっているので、政治の話は、特にたずねられないかぎり禁句である。礼儀を守りさえすればよい。そして、気楽に構えていれば、この幸せな国の人々は、すばらしい時間を過ごさせてくれる。
世界のあらゆる国々のうちでも、オーストラリアは、また戻ることができれば心からうれしいと思うところの一つである。シドニーで、黒いホンブルグ帽をかぶり、黒いスーツとちゃんと折り目のついたショートパンツ、白い靴下といったいでたちの、礼儀正しいきちんとした市民のひとりに道をたずねたことがある。英国航空への道をていねいに教えてくれた後、この人は「英国野郎さん、よーお」と気やすくつけ加え、片手で私の肩を抱いたものである。
ジョン・ウォーの庭で開かれた私たちのさよならパーティーで、私はオーストラリアの鳥の本をもらった。便箋とペンもつけられていた。「さあ、これでねえ」とニュー・サウス・ウェールズ野外鳥学クラブの会長であるアラン・ロジャーズが言った。「またねえ、新しい本を書きはじめることができるでしょう。そしてねえ、また私たちのところに来てくださいねえ。」




