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第十三章 はるかな東 遠い西   12 香港 マイポ保護区  

   12 香港 マイポ保護区


 WWF香港支部のために働いているアメリカ婦人、ナンシー・ナッシュにとってのアイドルとはブーンソン博士であった。彼女のもう一人のアイドルは、サー・ピーター・スコットとのことである。彼女は自分の時間のほとんどを費やして、わずか一〇〇〇頭になってしまった中国のパンダを救うために、必死になって努力していた。

 一九八三年当時、WWF香港支部が所有しているものは、デスヴォ―通り(徳輔道)にあるウィング・オン・ビルディングのオフィスだけであった。オフィスはせまくてこみあっていたが、車の轟音がとどろく中央地区に建つビルの高みの一角である。この時は蒸し暑い七月のモンスーンの時期で、香港植民地への三回にわたる旅行の二回目だった。こうした仕事の一環としてよく催される有名人の講演のために、なんと講演者として招待されたのだ。私の宿舎は尖沙咀(商業・観光地区)を見下ろすハーバー・ビュー・ホテルで、エアコンのきいたぜいたくな一続きの部屋だった。WWFへの寄付としてホリディ・インが提供してくれたものである。

 WWF香港支部は、会長のフィリップ・クウォク博士を通じて、有名なマイポの沼沢地の保護区と教育センターの計画を策定してほしいと私に依頼した。マイポ保護区は二一一ヘクタールのエビの養殖池(ゲイ・ワイ)と養魚池、そして中国との国境にある八六ヘクタールのマングローブからなっている。この湿地帯が野生生物にとって国際的に重要な場所であることは、一九六四年にサー・ピーター・スコットによって世界に紹介され、注目を集めた。水禽協会の同僚であるスティーヴン・グッドオール准将は、一九八二年に実行可能な計画の報告を用意し、同じ年、WWF総裁のエディンバラ公はこの土地を視察された。

 私が初めて香港を訪れたのは一九八〇年の春で、この時はジョーンも一緒だった。香港野鳥の会の招待によるものだったが、この時のマイポの印象は、鳥にあふれた広大なこの湿地を確実に存続するとWWFが決定したことともあいまって、たいへん強烈なものだった。

 この時の六週間の滞在期間の半分は、香港島のマウント・ニコルソンにあるクリーヴとバーバラ・ヴァイニー夫妻のお宅に泊めていただいた。バーダーにとってこの人以上にありがたいホストは考えようがない。クリーヴは香港のフィールドガイドを執筆し、さらに新しい版の契約をしている。香港にはおびただしい鳥がいるので、種類の識別はたいへんである。クリーヴはこの土地の鳥を知りつくしていて、訪れるトウィッチャーをおおいに助けてくれるのだった。

 ある日、クリーヴが壮大なタイポ・カウ森林保護区でバードリスターを案内していた時のこと。ヒイロサンショウクイの「スウィート、スウィート」という声を聞きつけて、彼はこの小さな鳥が高い樹冠の上ですばやく動いているところをちらりと目にした。連れはあいにく見損ねてしまったので、破れかぶれになって彼に頼み込んだものだ。「ねえ、私がリストに入れてもいいくらい、あなたはたっぷりと見たでしょう?」

 バーバラは愛らしい美人であるばかりか、いっしょにいるのがとても楽しい人柄だった。彼女は買い物客の天国ともいうべきこの都市のどこで、どんなバーゲンをやっているかを知りつくしていた。ジョーンと私のように、切り詰めた生活を送っている人間とっては、これはたいへんスリリングな経験だった。

 

 テレビ局のおえら方は、どうして香港全体がコンクリートジャングルであるかのような画面しか放送しないのだろうか。テレビの小さな魔法のスクリーンに映るものといったら、浜辺や湾にぎゅうづめになった、まるで安っぽいがらくたといったありさまのものばかりだ。私はずっと前から英国空軍の旧友であるフランク・ウォーカーに聞いていたので、はるかにましな状態であることをよく知っていた。彼はたいへんよく各地を旅行しているバーダーで、アーサー・セント・ジョン・ウォールトンといっしょに、一九五七年に香港野鳥の会を創立した。フランクは、一九六七年には英国空軍鳥学会も設立している。

 一九八〇年当時にWWF香港支部を運営していた婦人がたは、管理者のクリスティン・ファン・キング、コーディネーターのメアリー・ホータン・ケトゥラー、そしてナンシー・ナッシュといったメンバーである。彼女たちのおかげで、私は最新の情報を仕込むことができた。クリーヴと友人たちのささやかな仲間は、およそ望みうる最良の状態で、香港野鳥の会の中核をなしていた。マイク・チャルマース、ゲヴィン・クーパー、ジョン・エッジ、ボブ・ファーガスン、デヴィッド・メルヴィル、動植物園を運営しているケン・サール博士、ブライアン・モートン教授、マイク・ウェブスターといった面々が香港駐在のイギリス人メンバーだった。

 小旅行に次ぐ小旅行で、香港が二〇〇以上もの島からできており、総面積は一〇四七平方キロにも及ぶこと、そして、面積の大半は合計二一か所もの自然公園として確保されていることなどを私たちは見せてもらった。香港在住の六〇〇万人にのぼる勤勉な中国人たちは、少なくとも平日には、工場や密集した建物を離れ、新鮮な空気を求めて野外に出るというわけには行かなかった。そのため、平日には樹木が密生した丘陵地を何キロも歩いて鳥を見ていても、人っ子一人見かけない。誰の足跡もない閑静な砂浜で泳ぐこともできるのだ。

 一八四一年、パーマーストン卿は香港のことを不毛な岩山だと述べている。樹木や灌木は薪として、またトラの隠れ場をなくすために、すべて刈り取られていた。貴重な雨水が裸の山の斜面をまっすぐに流れ下り、南シナ海に流亡してしまうのを防ぐため、イギリス人の入植者たちは多くの山々に植物を植えた。そして今では、広大な森林とはなやかなジャングルの地域ができており、多岐にわたる野生生物を養い、隠れ場を提供している。とりわけ鳥たちは多種多様だが、木立に隠れて姿が見えない。聞こえてくるわけのわからないさえずりは、ベテランの連れに教えてもらわないことには、とうてい聞きわけられそうもなかった。山の頂上は岩がむきだしになっていて、越冬するカタジロワシが多く見られる。渡りの時期には、通過して行く他の猛禽類もよく止まり場にしている。


 香港は、季節的な大規模な渡りルートの中央部だった。なかでもシベリアの極北部からオーストラリアの南海岸を目指す渉禽類は、この地を通過している。

 香港の鳥のリストは、香港野鳥の会の人々の熱心な観察眼によって既に四三四種に達し、さらに増え続けている。繁殖している種類も一〇八種類に上る。年一回催されるスポンサー付きのバード・レース(日本では「バードソン」)は、たいへん面白いエキサイティングな行事になっている。これは、四月のある一日に、どのチームがどれほど多くの種類を観察することができるかという競技である。クリーヴと友人たちは、メアリー・ケトゥラー(彼女はまもなくダイナミックなエネルギーを費やしてWWF香港支部の運営にあたることになる)といっしょに手広く網をうち、たくさんのスポンサーを獲得していた。それに、網を入れる海の獲物の豊かなことといったらー香港にはどこよりもロールス・ロイスやメルセデス・ベンツのお抱え運転手が多いのであるーそして、寄付金も豪華であった。

 このスポンサーつきの鳥見レースで、WWFは毎年一〇〇万香港ドルを上回る額を獲得しており、一九九一年にはこれでマイポの最上のエビ養殖池(ゲイ・ワイ)を九枚も買い上げることができた。これらはどれも長さ約九〇〇メートル、幅九〇メートルほどの広さがあり、およそ八人ほどの中国人家族を養っていたものだ。この人たちは、現在もずっと幸せに暮らしている。

 バード・レースの優勝チームは(他の人が信ずると信じないとにかかわらず)、なんと一日に一六〇種ないしもっと多くの種類を記録し、けばけばしく飾り立てられた栄誉のしるしを獲得している。私はもちろんこの記録種数を信じる。各チームの記録種の総計は、一日でなんと一八六種にも達しているのだ。

 この人たちは、どこに鳥を見にゆけばよいかを実によく知っている。五月のある日、ジョン・エッジと私は排水されたエビ養殖池の一ヶ所で、五〇〇〇羽ばかりの小型シギの群れを双眼鏡で眺めていた。そのうちの一羽がヘラシギであることを確認するまでに、一時間以上もかかった。ニューヨークのアメリカ自然史博物館で標本を見せてもらって以来、どうしても生きている姿を見てみたいものだと思っていた種類である。鳥の嘴は万能の道具として使われており、多様な形には興味がつきない。なかでも、こんな小さな鳥の嘴の先がスプーンのようなヘラの形をしているとなれば、なおさらのことだ。とうとうこの鳥に会えたのは、二〇種類ほどもいた小型シギの中で、大きなヘラサギと同じやり方で、わずか二・五センチの長さしかない嘴を横に振り動かして餌をとっているものがいるのに気づいたからだった。ヘラシギであることに文句のつけようもなくなったのは、この鳥が採餌をやめて頭を上げたため、白い胸にスプーンの形をした嘴の輪郭がくっきりと見えたからである。

 マイポについての私の発展計画は、可能なかぎり多くのエビ養殖池を徐々に購入して行くというWWFの方針に基づくものだった。みるからに、実に豊かな湿地を維持し、なおかつその中にもっと多く、もっと多種の鳥が繁殖しうる環境を用意するためのものである。このためには、いくつかの養殖池をまとめて一つの大きな湖をつくり、間の土手は大切な繁殖のための島にし、島の岸はできるだけ複雑な汀線になったゆるやかなスロープにする、島のまわりの水面はもっと広くして、鳥が巣を作るのに都合よくする、といったものだった。こうした造作は植生分布のコントロールと連携して行われなくてはならない。

 香港は一九九七年に中国に返還されることになっている。急いで保護区の重要性がはっきりと目に見えるようにし、世界の意向によって存続が確実になるようにしなくてはならない。教育センターとしての保護区の機能は、この目標に向かうためのいわば生命線のひとつであった。そこで、トレイル、ハイド、ビジターセンターの建物、駐車場など、利用者のための様々な施設を用意することが必要になった。私の報告は熱心に受け入れられたが、計画が実行に移されてゆくのは決してすみやかなものではなかった。こうした状態は、一九八五年に訪問した時に既に見て取れたことだ。この時点でのもっとも重要な進歩といえば、クリーヴと毎年の彼のスポンサーつき探鳥レースの多くの参加者、そしてWWFの協賛者によって、大きな池がようやく二つ買い上げられたということだった。

 後に、クリーヴにこの章の草稿を読んでもらった時、彼は脚注をつけた。「あなたが来られた時に比べると、鳥は明らかに多くなっています。時間はかかりますが、アクセル・プランは今やじっさいに機能しているのですよ!」

 一九八八年十月、WWFのマイポ保護区の新しいマネジャーとなったマイケル・ラウが会いに来てくれた。そして、新たに六ヶ所の池が購入され、生息環境の改良事業は計画に従って進められていると話してくれた。ものごとは、よい方に向かっている。三年後には、さらに九か所が購入された。すばらしいWWFの仕事である。


 深圳川を渡ったマイポの対岸には、深圳市の工業地帯が無秩序な広がりを見せている。これは、中国側にあるフ―・ティエン保護区の脅威になっている。主なダメージは、化学物質と汚水が川と湾(后海湾)に流入してくることである。マイポのエビ養殖池は、ここから水を引いているのだ。汚染された海水はエビの収穫量を大幅に減少させてしまうため、塩水の養殖池の多くでは潮をしめきり、池を深くして淡水を導入し、もっと儲けになる魚を生産するようになった。このために、野生生物にとっての環境は貧弱になってきている。

 WWFの仕事で私は二度にわたって国境を越え、フー・ティエン保護区の視察に行った。国境のこちら側(中国側)では、鳥は明らかに少なかった。鉄砲は個人所有ができないため、銃猟のせいではないが、かすみ網による密漁が横行しているとのことである。生息環境の多くは岸が切り立った養魚池であり、マイポとまったく同様の改良計画が考えられた。どんなことが可能か、私は改良計画の長いレポートを送った。しかし、アドバイスを求めはしたものの、メアリー・ケトゥラーはこの保護区について彼らができることは、もうほとんどないと考えていた。

 


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