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第十三章 はるかな東 遠い西   10 フィリピン  11 タイ

  10 フィリピン


 フィリピンの鳥の生息地は、もちろんもっと多かった。東南アジアの鳥のエキスパートであり、東アングリアで知り合ったエドワード・ディキンソンが、マニラでの私の講演をアレンジしてくれた。

 バッグを四つも持って到着した私は、空港の雑踏を抜けて荷物を運んだり、ガードしたりするために、文字通り格闘する羽目になった。ホストのジョンとグウェンダのモリス夫妻は、車でマニラ市内の観光に連れて行ってくれた。世界で最も急激な発展をとげている都市である。

 私がこれまで見た中では、もっとも混雑した交通事情の中を、大胆に通り抜けてゆく彼らの運転には舌を巻いてしまった。イギリスを出てからまだ一〇ヵ月しか経っていないというのに、モリス夫妻は運転者が各自でかってにきめる自主的な交通ルールを抜け目なくしっかりと適用していたが、これにはグウェンダのすてきな微笑とていねいな物腰も預かって、おおいに力があった。自主的な交通ルールとは、奇妙なバラエティに富んだあらゆる交通機関の運転手が応用しているものである。交通機関とは、バス、タクシー、手押し車、馬がひくカレサ、そして米軍が残していったおびただしいジープから作られ、はなやかに飾り立てられたジープニーなどといったものだ。どれにもペンキでお祈りの言葉が書かれていたが、まさに必要不可欠というべきだった。

 モリス夫妻は、座席が四〇〇もあるファストフードのレストランに連れて行ってくれた。ここにはなんと四〇ものカウンターがあって、それぞれ違った国の料理を用意している。新しいものを試してみるには常にやぶさかでないので、私はどんぶりに入った皮をむいた丸のままのカエル料理を楽しんだ。

 クリスマスも近い時期だったが、アヤラ博物館での私の講演には出席者が多かった。エネルギッシュなアメリカ人のアリシア・バッサーがハリボン協会の推進力になっていた。小さいが生長しつつある団体で、八五名の会員の六〇パーセントがフィリピン人であることからも、彼女のすぐれた仕事ぶりがうかがわれた。ご主人のビルは、自分でプロジェクターを持ってきて操作してくれたが、多くのよき自然保護家の伝統に従って、失われてゆく野生に対して、声高に抗議をしている人である。出席者は、高名な美しいフィリピン婦人の到着でおおいに印象づけられた。彼女は上院議員であった当時、軍がひきつぐ前にミンダナオのフィリピンワシの保護を実施したことでよく知られている人である。私は翌日の夜、夕食会で議会の他のメンバーに自然保護の話をしてほしいという彼女の招待を既に受けていた。

 戦後、過密な都市や、七一〇〇にのぼる島々における増加する人口を養ってゆくために、フィリピンの農村は急激に開発されているが、これは野生生物に深刻な問題をひきおこしている。

「生息環境の保護は、他の多くの発展途上国と比べても、この国ではいっそう深刻です。他の国では、自然保護の自覚が育ってゆくのを待つのに、もう少し時間があります」

 講演の後、アリシア・バッサーは自宅でのディナーの席で言った。このことばの実例を見せるため、アリシアはモリス夫妻といっしょに、彼らの車で私を丘陵地帯へと連れ出した。

 季節はずれのモンスーン気候で、雨の一日ではあったが、心を奪われる日だった。アリシアやモリス夫妻は、私がまだ見ていない種類の鳥を探して見せてくれることだけを目的としているわけではないので、そのこともとてもよかった。生息環境の多様さを見るために、私たちは無秩序にひろがっている工業地帯を通って、かつてはマングローブの沼沢地だった養魚池に行った。アオサギやカラフルなシロガシラトビが自分のわけまえをねらっていた。次には渉禽類やアジサシ類でにぎわっている広大な水田を通ったが、水田と境界を接しているパパイヤやサトウキビ、ココナツの大農園では鳥がほとんど見られなかった。車は大いなるラグナ・デ・ベイの浜辺に沿って走り、さいごには霧がうずまいている高山の雨林にまで登った。ここでは、もっとも目につく脊椎動物はサルの類だった。

 地図もなしに急いでいたため、私たちのとった道は、やがて密生した竹林の中で、水浸しになった踏み跡といった程度の情けない状態になってしまった。完全に迷子になったのだ。あたりに薄闇がすみやかに迫ってきたころ、目の下に見える景色といったら、太平洋だけだった。それも、実際には南シナ海であったのかもしれない。いっこうに止む気配もない雨の中、三百キロも走って、やっとのことで帰り着いたのは真夜中すぎだった。上院議員さんの夕食会に出られなかったことをおわびする電話を入れるには、もう遅すぎた。

 アリシア・バッサーは、続く二日間にわたって、さらにエキサイティングなドライブに私を連れ出した。国立自然博物館の動物学主任、ペドロ・ゴンザレスのような少数の意識の高い自然保護家たちとの会合のためである。「マルコス大統領の軍隊が一般の散弾銃を押収してから、鳥はずっと多くなりました。食べるのではなく、見ることで鳥を楽しむようになれば、そしてパチンコでうったり、光で罠にかけたりしなくなれば、ものごとはずっとよくなるのですけれど」ペドロは自分の森林事務所で語った。

 バンコクへ向かって出発する朝になって、ルソン大学からの講演依頼の電話がかかってきた。ああ、残念!そうできればほんとうによかったのだが。



   11 タイ


 ブーンソン・レカガル博士はタイの野生生物保護協会(Association for the Conservation of Wildlife)の創設者であり、先駆的な「タイの鳥類ガイド」の著者でもある。博士は、東南アジア全域でもっとも名誉ある尊敬すべきナチュラリストである。

 私たちは、細長いモーターつきのカヌーで、暗色に濁ったうねうねと蛇行している川を、北へ向かってさかのぼって行った。汚れた水が顔にはねかかり、ハンカチで口をおおったら、ホストの気分を害することになりはしないか、と、私は考えあぐねていた。

 ココヤシやバナナの木立の間には、水上につきだした小屋に住んでいる人々がいるが、この人たちにとっては、川が驚くほど茶色に濁っていることなど当たり前で、少しも気にならないようだった。この時は、イギリスからきた教師で、香港に行く途中でタイに立ち寄ったアントニー・ホルコムといっしょだった。

 私は、食料生産の必要から、湿地林がどれほど蚕食されるに至ったかということを見たいと思っていた。ブーンサン博士が若いころには、国土の八〇パーセントが森林だった。現在では、それがわずか三五パーセントにまで減少している。

 ある場所で私が見た鳥がハシブトオオヨシキリであることを、博士は確認してくれた。この種を目にするのは、一九五五年にフェア島でヨーロッパ初の捕獲例を挙げた時以来のことで、本来の生息地で見ることができてほんとうによかった。

 博士のおかげで、この場所で四〇種類もの鳥を目にすることができた、と喜んで話すと、このよき博士は言われた。

「ぼうや(私はこの時六〇歳であった)」博士のなめらかな肌は、七〇歳というお年にはとても見えなかった。「もしあんたが、わずか十年前に来ていたらね、ここでは一〇〇種類の鳥が見られたはずだ。この国の鳥は八五〇種類にもなるが、多くはいなくなってしまった。私たちは何でもかんでも殺したり、食べたりしてしまうのだよ」

ふつうに使われているのはパチンコだったが、今ではおとなりのベトナムで戦争が終結したため、銃は大量に、安価で入手できるのだった。

 野外で開かれた宴会のごちそうは、たしかにたいへんバラエティに富むものだった。バンコクから四〇キロ北にあるワット・ファイ・ロムの新しい寺院の落成を祝って開かれたものである。サフラン色の長い衣をまとった僧侶たちの輪の中で、私はブーンソン博士の隣で地面にあぐらをかいて座った。めいめいの前には、木でできたおわんが六個ずつ置かれていた。それにしても、どうしてみんなは私にまず食べるようにとすすめ、食事をはじめるのを待っているのだろう。

 指を使って、私はいちばんカラフルな、何だかよくわからないものがいりまじったスープに手をつけた。

 うわーっ!辛さのあまり声を上げて、火がついたような口の中をあおいでいる私を見て、みんなはころげまわって笑った。みんなが待っていたのは、この面白いみものだったのかしらん。

 町で私が食べたコショウのきいたごちそうの中には、大きなスクミリンゴガイ(いわゆるジャンボタニシ)があった。土地にたくさんいる腹足類で、名物の食べ物である。この寺院の敷地内ではスキハシコウが樹上に巣をかけているが、五千つがいものみごとなコロニーが成立している理由のひとつはこの貝のおかげだった。もちろん、大きな理由はここが宗教上の聖域であり、誰も野生動物の殺生をしないことである。じっさいに、と私のホストは言った。この鳥たちや、白鷺類、アオサギ類のコロニーは、こうした聖なる場所でのみ、繁栄できるのだそうだ。


 バンコクでの連絡は、画家のマーティン・ウッドコックとジェイムズ・ハンコックを通じて行われ、ホテルの予約も彼らがやってくれた。バンコクが罪ふかい都市だということを警告してもらう必要はなかった。迷子の子羊のような様子で立っていようものなら、すぐに誘惑の手がのびる。あらゆるたぐいのサービスが存在しており、少なくとも、そういうものがあること自体は知らされることになった。

 ある日、私はホテルの入口のところで、ブーンソン博士の同僚であるジェフ・マクニーリイを待っていた。この上もなく面白い人物で、かつてネパールで、テントの前を雪男(イエティ)が通り過ぎ、その足跡の型をとったという経歴の持ち主である。

 ドアのところにいた小柄なタイ人の男が、みるからに無邪気そうな様子の私をつかまえた。

「あんた、ここにどのくらいいるね。何が好き?」

「五日。鳥を見ているよ」

「鳥!」彼はさぐりを入れた。「こんな鳥?」疑わしげなようすで彼は手をのばして、はばたいてみせた。「あんた、五日もいて、かわいい女の子の鳥と寝てない?」軽蔑のまなざしに私は縮こまった。

 ブーンソン博士とマクニーリイ博士との夕食の席で、この話にみんなが大笑いした。幸せな大家族で、どの博士がたも子供さん、お孫さんといっしょであった。私たちが食事をした大きな部屋の壁や家具は、この家のあるじがハンターだった日々のトロフィーや標本におおわれていた。彼は村々をおびやかす動物を殺したが、やがて貪欲なコレクターになった。そして、ついに獲物たちと恋に落ちたのである。

「ハンターは、獲物を待ち、観察し、尊敬するようになるのだよ」

まもなくこの人は、この国の最初の保護区の設立と、絶滅に瀕した種類の保護のための法律制定の原動力になったのだ。

 私が講演のためのスライドを持っていると聞いて、ブーンソン博士はクリスマス・イブの夕食会をとりきめた。私が話をした後、博士は森林省で他の人々にこの話をするために、翌日のデリー行きを遅らせるべきだと言った。トレイルやハイドを備えたRSPBタイプの保護区で、生息環境を人為的に管理するという考え方に、博士は興奮していた。ほんもののエキサイティングな野生動物を間近に観察するということの教育的な効果は絶大である。エコロジーは、学校で教えられるようなものではない。

 ブーンソン博士に連れて行ってもらったバン・プーの泥の岸を見渡す小屋は、木々の間を通る高い木道の先端にあった。この小屋からは、キムネメジロ、キマユムシクイ、キバラタイヨウチョウ、オウチュウ、ムナオビオウギヒタキ、その他数多くの鳥が見られた。ここはよいハイドになっていた。しかし、見るものがたくさんあるのに、この場所はほとんど利用されていないように見向けられた。マングローブの泥の中にはシオマネキ、ヘビ、トビハゼそしてサギ類がとても多かった。なかでもリュウキュウヨシゴイ、アカガシラサギ、ジャワアカガシラサギ、各種の白鷺類はごくふつうに見られた。

 この場所のすぐ内陸部は、宅地開発の用地として予定されていた。新しい若い住民は、まさに玄関先で、ほんものの生きた環境教育が受けられるわけである。予定が詰まっていたため、留まって学校で話をすることはできなかった。


 クリスマス当日は、デリーへの飛行と、タージ・マハル、そして有名なバハラトプールの湿地へ向かう旅のために車を手配することに費やされた。

 バハラトプールで見たものは、なんとも心温まる光景だった。広大な沼沢地(ジール)は、かつて銃一丁につき一〇〇羽もの水鳥を獲物袋に入れられるということで有名だった。ここは旧世界の一部であり、ヒンドゥー教徒は長年にわたって野生生物を大切にしてきたため、鳥たちは人間をおそれなくなっていた。

 一九五六年以来、ここは広大なサンクチュアリの一部をなして、現在に至っている。木立の上のウやインドトキコウ、ヘラサギのコロニーの彼方には、ソデグロヅルが何羽か見られた。鶴の中でももっとも絶滅が危惧されている種類の一つである。ソデグロヅルは、おびただしいカモ類や他の水鳥が群れる浅瀬で餌を漁っていた。聞くところによれば、この地域全体は、水量や水質のコントロールができないという危機にさらされているとのことである。




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