第九章 ミンズメアをつくる 1 コンスタブルの風景の中で
原子力発電所の建設のため、愛するダンジネス保護区を離れることになった私。しかし、半生をかけることになるミンズメア保護区との出会いが待っていました。
1 コンスタブルの風景の中で
もし(キップリングよ許したまえ)、満ち足りて夜の眠りにつき、六〇の秒を含む仮借なきひとつの分とて、遠く去りゆくに値するなら、ああ、わが息子よ、大地と満てるすべては汝のものぞ。汝の得たるは幸運のさらに上なり。
仕事から満足感を得ていた日々は、私にとっては既に過去のものである。ピューリタン的に堅苦しく聞こえるかもしれないが、ミンズメアにおけるわが十七年の歳月は、成就感とともに終わりを告げた。ミンズメアには取り組むべきおびただしいものごと、成し遂げるべきおびただしい機会があった。
ミンズメアを、RSPBの王冠に飾られた宝玉と人は呼んだ。鳥にも人にも楽しみを与えてくれる愛すべき場所である。ミンズメアをよりよい状態に作り上げて行く上で、初期の日々は言うなれば特権とも言うべきものであった。この日々をわかちあった人々は数多くいた。ミンズメアの発展に私が果たしてきた役割は、これらの友人たちに莫大な助力を受けている。一九七五年に保護区を去ってRSPBの土地利用アドバイザーになった時、著書「戻ってきた水鳥の楽園―イギリスの鳥類保護区ミンズメア物語(平凡社刊)」の中にも述べているが、まだまだ友人たちからの借りを返すどころではない。
一九五九年一月末のことだった。ジョーン、ロデリック、そして私は、ピーター・コンダ―といっしょにミンズメアに出かけた。将来の家がどのようなものなのか、偵察に行ったのだ。私たちはウェスルトンのマージョリー・ヴァン・ウーストヴィーンのところに泊まった。彼女は地元でよく知られた鳥学愛好者で、バードウォッチャーのための民宿、ヒル・コテージをきりもりしていた。当時としては、こうしたサービスはたいへん珍しいことだった。彼女ー「ヴァン」ーは親しみやすい人柄で、私たちは生涯を通じての友人になった。
ミンズメアの内陸部の境界は、ウェスルトンのまさに玄関口に接していた。この保護区から受けた第一印象は、平坦で樹木のないダンジネスと比較すると、たいへん好ましいものであった。六〇〇ヘクタールの面積の四分の一は、うねるヒースの原野の中にひろがるさまざまな樹林帯でおおわれていた。一マイルにわたる静かな浜辺はなだらかなスロープになっていた。もっとも重要なのは一六〇ヘクタールにのぼるアシが生えた淡水の湿地で、広大なミンズメア・レベルの牧草地の谷あいにあった。フラットフォード・ミルはさして離れてはいなかったが、むくむくと雲を浮かべた空や、ウィリー・ロッツ・コテージといい、ひろびろとした展望の全体がまさにコンスタブル描くところの田園地帯である。
この保護区は、ステュアート・オギルビー陸軍大尉から賃借しているものだった。RSPBにとっても、鳥たちにとっても、このような好人物が地主だったことは、ほんとうに幸運なことだった。とりわけたいへん少なくなっているイギリスの沼沢地の鳥たちにとってはなおさらのこと。
変化に富んだすばらしい生息環境を借りるためにRSPBが支払っている地代は、いわば、おしるしも同然であった。オギルビー大尉はRSPBの目的を支持していて、冬にわずかなキジやカモを撃つだけだった。当然のことながら、大尉は猟場番人をおいていた。血塗られた職業だが、今世紀の初めに比べると、猟場番人が害鳥・害獣として駆除している野生動物の数は五分の一に減っている。いずれにしても、キツネをコントロールしてくれるのはよいことだ。
ミンズメアは、私が得意とする領域から見ると、天国のようなテリトリーに思われた。しかし、そこには思わぬ暗礁になりかねない障壁があった。管理人の住まいとなる宿泊施設である。
住居施設はスコッツ・ホール・ウッドのへりに位置していた。海を見晴らすことができて、牧歌的なまわりの環境もよかった。ただし、すさまじいしろものであった。この「イースト・ウォーク・バンガロー」は、屋根も壁もすべてが赤さびた波型鉄板で作られており、電気もガスも水道もなかったのだ。
ジョーンはこれまでセント・メアリ湾へくだったところの大きくて近代的な家で幸せに暮らしており、十四歳になったロデリックは、フォークストン中学でよい成績を上げていた。こんな掘っ立て小屋で暮らすことについて、ジョーンはすぐにでも、親指を下に向ける拒絶のサインをして然るべきである。
ダンジネスにおける七年間の生活で、本土の保護区の保護監視人たるものは、背後にあって夫の仕事に身をささげ、なおかつその生活を幸福に思ってくれる妻がいることで、どれほど多くのことが成し遂げられるか、じゅうぶんすぎるほどよくわかっていた。ジョーンは大きな犠牲を強いられることになる・・・・この土地に来て暮らすというような、そんな大きな犠牲を払ってくれとは、私はとても頼めなかった。ジョーンは唇をかみしめたが、考えははっきりしていた。「決まっているじゃないの。もし、ここに来なければならないのなら、引っ越してくるまでのことです」
「イースト・ウォーク・バンガロー」には、会が費用を都合できるようになりさえすれば、電気をひいてくれるはずだ、とピーターは言った。私の新しい給与は年棒四六八ポンド、そして家賃ただのバンガローであった。さて、これでやって行けるものだろうか・・・・どうだろう。
ダンジネスの寒々とした荒野の後では、ミンズメアの変化に富んだ環境と鳥たちには、輝かしい展望が期待された。私が食いついてゆけるようなこともたくさんあるに違いない。
これは確かに、それどころかおそろしいまでに真実であった。スコッツ・ホールの地所は大半がミンズメア保護区になっているが、はるか以前に狩猟区域として開発されたところで、勢子に追われて飛び立つ獲物は、この当時もキジ、シャコ、カモをはじめ、疑う余地もなく多々種類がいた。森林には広い乗馬道があり、驚くほど変化に富んだ混交林で、狩猟対象でない鳥にとっても実にすぐれた環境だった。湿潤な草原の周囲にはしげみが育っていた。
「害獣」のたぐい、キツネ、テン、ネズミ、ハシボソガラス、コクマルガラス、カササギ等は長いことコントロールの対象になっていた。あらゆる猛禽類についても駆除が行われていたことは疑いないが、猟場番人によってさらしものにされているところは全くみかけていない。陳列された「害鳥」の死体が長い列をなして揺れているという昔風の習慣は、私が見つけて言及した後にはすたれている。
ミンズメアを賃借するようになってから、既に十一年が経過していた。土地の生息環境を改良したり守ったりするためにできることはほとんどないと考えていたRSPBは、土地をいくらか身ぎれいに整えただけだった。沼沢地の開けた水面と泥地の四分の一は、アシの侵入で既に失われていた。ここは、そのまま放っておいても安定した状態を保っている東アングリア地方のほんものの沼沢ではなく、戦時下に侵略防備のために人為的に水をあふれさせた場所であった。それぞれの沼は冠水した牧野にすぎず、古くからの境界をなしている溝からアシが侵入してきて、競合するものもないままにはびこっていた。
アシは水があふれた草地や牧場の表土の下の肥えた下層部に、暖かいひと夏には九メートルもの長さに地下茎を伸ばしてゆく。ほんの二、三〇年を出ないうちに、低地の沼沢地全体がアシにおおわれて消えてゆくのだ。浅い水深に育ったアシ原は自己破壊的なしろものである。アシは水をおそろしく多量に必要としており、毎年大量の水を消費する。シルトが堆積し、池の底が上昇してきて、やがて乾燥し、やぶの侵入を抑えられなくなる。そして、湿地は必然的に森林という極相に向かって遷移して行く。
野生生物のための生息環境管理というのは、最大限の収容能力をひきだすためのものである。植物や動物といった資源は、いわば「農業」と同じように、自然に手を加えることで常に更新され、のびひろがるようにしむけなくてはならない。
RSPB本部は、受け身の土地管理は既に過去のものとなったことに気づいていた。ハバゲイトではソリハシセイタカシギがほとんど繁殖に成功しなくなっており、ミンズメアでも同様に状態の悪化に対して警告が発せられていた。土木作業の重機を賃借するために、一万ポンドを集める募金が既に始められていた。
ダンジネスで湖づくりの計画を実行に移そうとして働きかけていた時、ミンズメアで掘削の計画が試されたが、行き詰まっていることを聞いていた。ウォールトンズ・メア(現在ではスクレイプの一部になっており、ウェスト・ハイドの前にあたる)でドラッグ・ライン(浚渫に使われる重機の一種)が用いられたが、これはへりがまっすぐに切り立った穴を作る結果になり、採餌に利用できるようなふちどりの泥地がまったくできなかった。また、底の泥も不毛に近い粘土であり、利用する鳥は一羽もいなかった。仕事について的確な指示を出す人間がいなかったため、重機を扱う技師は、その時点での最善を尽くしてはくれたものの、自分で安全に行けると考えたところまでしか沼地に入らなかった。ピーターは、その穴を悲しそうに示して見せた。
次に案内してもらったのは、仕事がたいへんうまくいったヒース地帯のところである。草を食べる羊がいなくなり、また一九五三年に到来した粘液腺腫でウサギが一掃されてから何年も経っているために、かつて裸地だった地表は厚い植生におおわれてしまった。以前は古い氷河によって堆積した砂利場だったところだ。ギョリュウモドキのしげみやベルヒースは六〇センチの高さにしげり、ハリエニシダ、カバ、ちいさなヨーロッパアカマツが広く密生した藪地を形作っていた。長い間羊やウサギによって植物の生育が強く抑制されてきた結果、ウェスルトン・シープ・ウォークは鳥にとって独特の生息環境を提供していた。たとえばイシチドリ、ヨーロッパヨタカ、ハシグロビタキ、ノビタキ、マミジロノビタキ、ツメナガセキレイといった種類で、こうした鳥は餌を探すために裸地に近い環境を必要としている。
環境復元の試みとして、会は一ヘクタールにわたるヒースの原野にブルドーザーを走らせて裸地とした。しかし、この場所は地元の人々が散歩道としてよく利用している小道に隣接していた。なかでも年配の名誉市民のみなさんや、ウェスルトンから犬の散歩に来る婦人がたは、慣行となっている小道の使用権を強く主張された。
広いヒースの原野では、どこでも猟場番人が管理のために火をつけて、裸地の回復をはかっている。農業によってまだ深刻な影響を受けていないイギリスのヒース地帯は、こうした環境に特有の鳥にとってはありがたい存在だが、次第に少なくなっている。私はヒース地帯の眺めが好きだった。ハリエニシダのしげみに住むオナガムシクイや、古い生け垣のニレに住むアリスイは、ごく最近まで繁殖していたと言われていた。
森林はみごとな混交林であった。樹木そのものが更新するがままに放置され、キジをふやすことの他には、これといった経済上の管理が行なわれていないため、広葉樹も針葉樹も、いたるところで実生の芽を出していた。ウサギの個体群は復活してきているが、ウサギによってコントロールされるには、若木はもう高く育ちすぎていた。
地域にいた四〇頭ほどのアカシカの群れは、木々にはほとんど影響を与えていない。シカたちは一日の大半をグリムストン・ベルトのヨーロッパアカマツの若木の深いしげみの中でひっそりとすごしていた。夜になると、この大型獣はステュアート・オギルビーの大麦畑を荒らしたが、われらがよき地主さんによれば、これはシカ猟のためのいわば税金なのだそうだ。
森林が再び自己主張をはじめている様子を見るのはすてきだった。サフォークの中世以来のオークやセイヨウヒイラギの森林のほとんどは、今では砂漠のような大麦畑に変わっている。最後の名残のレンドルシャムの森は、ほんの数キロしか離れていない。夏にはナイチンゲールの歌が大気をふるわせ、キツツキのドラミングがひびいている。思わず息をのむほどみごとな森だ。
我が国最大の地主であるイギリス森林委員会も、古くからある森やヒースの消失の元凶となっている。森林委員会による針葉樹の植林地は暗く、利益追求しか考えられていないと非難されることが多いが、ここの森林委員会によるダニッチの森については、私はまるで違う印象を持っている。松林の部分はむしろ狭く、夏の陽光がふりそそぎ、広葉樹や灌木、花々にふちどられた草がしげった広い乗馬道がある。冬になっても、シェークスピア劇の舞台になるような、荒廃したむき出しの裸地になるどころか、春の小鳥の甘い歌声が似合うところである。一年を通じて、ウェスルトン、ダニッチやもっと遠くからも、生活にゆとりがある退職者たちがこの心地よい森にやってきて、孫たちや犬を連れたり、双眼鏡を持ったりして、森林委員会の好意による長い散歩を楽しんでいる。野生的な森林の中で、毎日違ったルートをたどったとしても、ひととおり歩くのにはたっぷり二週間もかかるのだ。




