第九章 ミンズメアをつくる 2 ミンズメアの初期 3 着手
2 ミンズメアの初期
チェシャ―にある五ヘクタールのイーストウッド保護区でRSPBの見張り人になっているディック・ウルフェンデイルは、ミンズメアの私の前任者だった。ディックは一九四八年以来、毎年のように失望を味わっていた。その前年にミンズメアでソリハシセイタカシギが繁殖するという大事件があり、また戻ってきてほしいと願っていたからだ。ノーフォークで一九四一年に一つがいが巣を作り、繁殖に失敗してからというもの、ミンズメアでの四つがいと、ハバゲイト島の四つがいが、一〇〇年来イギリスで繁殖が知られたすべてであった。
ソリハシセイタカシギはミンズメアには戻ってきていなかった。生息地における泥地、水深、植生の分布など、この種にとって好適な条件は、そのまま放置しておいて持続するようなものではなかった。しかし、この種が繁殖したことによって、ミンズメアの土地をRSPBが賃借するきっかけになったのだから、消えてしまってはいても、じゅうぶんに補償されたとも言えるだろう。絶滅に瀕しているイギリスの他の種類、サンカノゴイ、ヨーロッパチュウヒ、ヒゲガラ等のためのアシ原の保護区が確保されたわけである。沼沢地の他の鳥や、森林やヒース地帯の鳥を含めると、八七種類もの鳥がこの保護区で繁殖する可能性があった。それでも、うるわしのミンズメアにもし再びソリハシセイタカシギが戻ってきて、ひょろ長い足で貴族的に優雅に歩をはこび、つま先立ちでバレエをしているような姿を見せてくれたら、どんなにすばらしいことだろう。
ディックは言うなれば甘やかされていた。しかし、彼に責めを負わせるべきではない。戦後間もない時期と言えば、高尚なバードウォッチングは専門家や恵まれた階級の本分で、監視人としてのディックの任務は、この地域や特別の種類の鳥を高名な鳥学者、RSPBの委員、二、三の地元の名士などに見せるということだった。その時期に行われた管理作業と言えば、せいぜい沼沢地の通路の掃除といった程度である。
繁殖期を中心とした当時の業務日誌を見ると、沼沢地はインドで見られるようないわゆるジール(広い沼や湖のこと)のようなものになるようにと考えられていたことがわかる。この生息環境をスタートさせた地元在住のスタンフォード准将兼陸軍大佐、そしてスコッツ・ホールのリン=アレン陸軍少佐は、どちらもインド軍の退役軍人で、戦友どうしであった。我らが地主さんもまた陸軍大尉である。こうした地元の有力者は、もちろんハンターだったが、よき自然保護家でもあった。一九四七年にここでソリハシセイタカシギが繁殖した時、長い時間を費やして鳥たちを守るとともに、歴史に残るできごとの秘密をも守った。
当時のひとにぎりほどのイギリスの鳥の保護区域の中では、この場所は間違いなく最もすぐれたところだったが、訪れる一般のバードウォッチャーはごく少数だった。配布されたパンフレットによれば、利用は四月末から九月末の期間、案内者がついて四人まで、週四日に限定されており、残る日は「監視人の休養のため」閉鎖されていた。案内者なしの利用は週二日、六名までであった。
RSPBの地方幹事であるイプスウィッチのハーバート・ドレイク伯は、巡回ウォッチャーをつとめていた。はかりしれないほど貴重な頼もしい援助者である。ミンズメアは年間に二〇〇~四〇〇名の利用者を迎えており、その多くはイギリスの著名な鳥学者であった。ディックはこうした人々の案内役として、愛すべき職業を誇りとしており、彼の逸話はよく知られていた。
利用者ははば六〇センチの小道を歩いて沼沢地を横断した。溝にはあぶなっかしい板が渡されており、ウェリントン・ブーツは必需品であった。誰にせよ、冒険的な気分を味わったに違いない。なんと言っても、この人たちはパイオニアであったのだから。古きよき静穏な時代であり、こうした日々が失われたことをいまだに憤慨している昔気質の人々もいる。
しかし、鳥の保護区というものは、ごく少数の特権階級のために保護されているだけでは済まなくなっていた。人口過密の世界では、鳥たちは鳥そのものと生息地とを守ってくれる人間を必要とするようになっている。一方、ストレス過多の社会では、バードウォッチングをリラックスのために必要とする人々が増えている。
記録によれば、会はディックに対して、毎日の「パトロール」をする時に見られた鳥を記録し、特に「血統書付き」の由緒ある利用者が喜ぶような特別の種類を書き留めること、そして可能な限り多くの巣を見つけることを求めていた。私は、繁殖を証明するために巣を探すという古い習慣がまだここに残っているのを見て驚いた。再訪が簡単なイシチドリ、ハジロコチドリ、コアジサシなどの巣は、ほとんど毎日のように調べられている。
ジョン・エドワーズは巣を探すことに熟達しており、発見がきわめてむずかしいサンカノゴイやヒゲガラといった種類の巣もミンズメアで見つけ出している。これは写真家のエリック・ホスキングにとっておおいに助けになったことで、エドワーズ自身も野生生物の写真家として広く知られるに至った。彼らやジョン・マーカム、スタンレイ・ポーター、アーサー・ギルピンなどがミンズメアやハバゲイトで撮影した目をみはるような見事な写真を、会は上手に宣伝に利用している。しかし、ディックがこうしたことを喜ばなかったことは明らかだった。私がものごとを引き継ぐなら、ここでは巣の写真はとらない方がよい。
古いしきたりに固執していたが、RSPBは利用者が鳥を観察する施設を作るという技術の上では大躍進をとげていた。ミンズメアでは沼沢地を見晴らせるように、四ヶ所の恒久的な木造のハイドを設置した。どれも、およそ七名が座れるようにできていた。ステュアート・オギルビーのところの大工さんが、最初から実に具合よく作ってくれたものだ。たとえ短時間であっても、座って鳥を見る場合には、座席、ひじかけ、眺望用の細長いのぞき窓などの位置、寸法、高さなどが基本的に重要になる。この施設のおかげで、鳥を至近距離で、たいへん快適に眺めることができるようになった。多くの場所でこれをコピーしたハイドが作られ、「改良」を加えられたものもあるが、概して改良はうまく行かなかった。新しい保護区づくりにかかわった場合には、私はいつもRSPBのもともとの寸法にきっちり合わせるようにと要請した。たとえ、主な利用者が平均身長一五〇センチの東洋人の場合であっても、である。
海岸に近い公共通路から下った岸には、小さなこわれそうな小屋があって、座席のかわりに竿がわたしてあった。ここから沼沢地を眺めることができた。ここは、一九四八年にヴァンや他の地元の婦人たちが、モンクス・ハウス鳥類観察ステーションのエリック・エニオン博士といっしょに作ったものである。軍が残した赤錆びたトタン板や、古きよき時代の海浜利用者が残していったがらくたが材料に用いられた。わずか四年のうちに、見渡すことができる開水面や泥地がアシ原に占拠されてしまったため、この小屋の利用価値は減ってしまった。しかし、この掘っ立て小屋は、世界初の「公式の」公共用のハイド(パブリック・ハイド)というアイデアや、その位置を決めるもとになった。
3 着手
ミンズメアへの最初の訪問からケントへと帰る列車の中では、考えることがたくさんあった。私は今、RSPB本部の中で、いわば旗艦としての位置を占める保護区において、より広大な展望を持つ職務上の地位に達したということになる。これこそまさに、我々の仕事の発展の出発点であった。それがよくわかった。ミンズメアは魔法のようにすばらしい土地だったが、鳥にとっての潜在的な価値や、会にとっての収益を生み出す能力は、十分に開発されてはいなかった。この保護区の発展計画に対して、私はダンジネスの時と同じように、よしんば得られたとしても最低限の経費しか出ないという条件に従いつつ、思った通りに仕事を進めてよいことになる。これがどれほどありがたい幸運であるか、私は知っていた。この好機に満ちた土地で、挫折が続いた年月は終わりとなるに違いない。
二月、ジーン・タニーが右腕のウェイシー・アレンといっしょに自家用のドーモービル・バンでやってきて、私の生活必需品を何度かにわけてミンズメアに運んでくれた。一九五九年当時には、引っ越しの費用を会から出してもらうことなど、考えにも上らなかった。
仕事の優先順位について相談するため、ピーター・コンダ―がやってきて、新しい機械「アレン」のモーター・カッターで私が仕事をはじめられるようにしてくれた。カッターの購入は、当時の会にとって、決して小さな出費ではなかったはずだ。この機械はすばらしかった。ハイドの前のアシ原を刈り払い、ヒースを刈り取って、イシチドリの繁殖用地を開墾することができた。最初の年は、すべての週が刈り払い、レーキがけ、焼き払いに費やされたようなものだが、これは正しいやり方だったと言えるだろう。結局のところ、我々はもっとひと気がなくて静かなヒース地帯にブルドーザーをかけて、ヨタカの数をふやし、二つがいのイシチドリを呼び戻すことに成功した。
ジョーンとロデリックはほとんど週末ごとに来た。そして六月なかばにこちらに引っ越してきた。二月に着任して以来、古なじみのダンジネスの友人たちは、この四部屋しか寝室がないバンガローに引き続いて泊まりにきており、それが習慣になっていた。ここのお粗末な状態など誰も気にしなかった。戦時中、長いこと電気のない生活をした人々にとっては、パラフィン・ランプを使うことなど少しも苦にならなかったし、浴室を使った後、手こぎポンプで水を汲んでおくお決まりの仕事を忘れる人もいなかった。
東風が吹いた後で波打ちぎわを歩いて、打ち寄せられたがらくたの中から豊富に見つかる役に立つものをひっぱり出すのは、とても面白いことである。友人たちは、こうした材料を使って、アシのついたて(オランダで庭の垣根に使われている)や、立て札や、門、橋、沼沢地の通路の木道などを作るのを、おおいに楽しんで手伝ってくれた。無料で手に入れたこうした木材を使って、RSPBの本部で売るための最初の一〇〇個の巣箱を作ることもできた。
ディックと手伝ってくれる人たちのためには、小さな黒い小屋が二つ用意されていた。手伝いの人たちの何人かは毎年の常連で、何があるかよくわかっていたが、私のほうでは、この人たちにどんなことを期待したらよいのか、よくわからなかった。ある婦人からは、デッキチェアを出してくれたかどうか知りたいと要求された。小屋の外でこれに座って、彼女は終日保護区を監視することにしていたのだ。新しく来たある男性は、わずかひと晩泊まっただけで帰ってしまった。ヤチセンニュウが夜通し鳴いていて眠れなかったそうである。
まったく対照的だったのは、二人の若いボランティア、デヴィッドとピーターのメイクピース兄弟であった。ピーターはフルタイムで働いてくれる私の助手になり、まもなくレイストンのデヴィッド・モアが加わった。私はこの二人に負うところがたいへん大きい。ミンズメアで、肩を並べて長年こつこつと働いてきたというばかりでなく、信頼できる仲間としての関係によるものだ。
生まれ故郷の沼沢地やネスの岬を離れたことは残念だった。しかし、この代償となって余りある、奮い立つようなできごとが毎日のように起きた。
ミンズメアでの最初の年である一九五九年三月二三日の私の気象記録を見ると、イギリス上空の高気圧はポルトガル上空の気圧の谷によってゆっくりと北東方向へ押されていた。このため南東の風が吹き、イギリス東部の海岸では全天が雲におおわれ、霧雨が降っていた。こういう時、ダンジネスでは春の渡りのために夜間に移動している鳥たちが降下してくるに決まっている。星が見えないため、方角を見失った鳥たちが風下側に流されて来るからだ。ベッドに入る時、ここでも同じことが起こるはずだ、と私はひとりごとを言った。
まさにそのとおりだった。明けがた、薄明るくなったころ、ミンズメアの砂丘にあるわずかなしげみには、ウタツグミ二〇羽、クロウタドリ一五羽、クロジョウビタキ一〇羽、ロビン二羽、マミジロキクイタダキ六羽(一本のタマリスクに止まっていたものだ)、キクイタダキ二羽、そしてズアオアトリ一羽がいた。またウサギがかじりとった草むらには、ハクセキレイ二羽とハシグロビタキ三羽がいた。ハレルヤ!灯台があるわけでもないのに、こんなにも鳥が降りていたのだ。
渡りの動きを見るのは、私にとっては特別に胸がときめくことである。ミンズメアでの見通しはたいへんよさそうに思われた。まさしくそのとおりであった。一九六五年九月三日という歴史に残すべき日、ヨーロッパで記録されたものとしては史上最大の数にのぼる渡り鳥の上陸例が見られたのは、まさにここである。これまでに経験したことがないほど激しい風雨が吹き荒れた日、イースト・マーシュの海岸沿いの地域は、方角を見失って上陸してきた渡り鳥でいっぱいになっていた。この四〇ヘクタールほどの場所で、最大数としてはシロビタイジョウビタキ七〇〇〇羽、ハシグロビタキ四〇〇〇羽、ニワムシクイ二〇〇〇羽、セグロビタキ一五〇〇羽、マミジロノビタキ七五〇羽、ヤナギムシクイ五〇〇羽、ロビン四〇〇羽、その他にもおびただしい鳥たちが記録された。合計では五二種にものぼる鳥がこの保護区に上陸してきたことになる。
もっとありがたいニュースもあった。ダンジネスからの立ち退きを余儀なくされた私たちへの代償として、中央電力供給省(CEGB)がディーゼルの自家発電装置の資金を提供してくれたのだ。これはロデリックにとってはとりわけありがたいことだった。レイストンの中学の宿題で、夜も勉強していたからだ。ロデリックによれば、若いビートルズの金属的な音色の音楽をBGMに聞くことができたおかげで、成績にAを多くとることができたり、CEGBの奨学生として大学にも入れたというのだけれど。




