表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/88

発見文書 No.045

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


発見文書 No.045

種別:フィールドノート・MD書き起こし

記録者:阿部(記者)

日付:2000年8月5日〜8月7日


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


【阿部記者フィールドノート 第二冊より】


2000年8月5日


取材5日目。Kとの面会2日目。


昨日の面会は表面をなぞっただけで終わった。「そういうことにしておきましょう」という定型句で逃げられた。今日はもう少し踏み込む。


朝、ホテルで昨日のMDを聞き返した。Kの声を何度も巻き戻した。あの声の質。老人の声なのに、ときどき若い声に聞こえる箇所がある。MDの音質の問題かもしれない。安いマイクだから。


朝飯はホテルの無料パン。コーヒーがぬるい。


施設に向かう。バスを降りてから歩く。蝉がうるさい。商店街を通るとき、空き店舗が三軒並んでいた。地方都市の夏。


施設に入った。受付で名前を書いた。「K」と書こうとして、ペンが止まった。


——Kの本名を、まだ聞いていなかった。


受付の職員に聞いた。「Kさんのフルネームを教えていただけますか」


職員が台帳を確認した。少し間があった。「登録されているお名前は——」


台帳を覗き込もうとしたら、職員が台帳を閉じた。「すみません、個人情報ですので」


「取材許可は施設長からいただいています」


「はい、面会は許可されています。ただ、お名前については——」


要領を得ない。結局名前は聞けなかった。


Kの部屋に向かう。廊下を歩いた。今日、ふと歩数を数えた。三十四歩。


なぜ数えたのか分からない。癖でもないのに。


MD書き起こし 2000.08.05【録音開始。蝉の声。窓が少し開いている】


阿部: 昨日の続きをお聞きしたいのですが。


K: どうぞ。お茶は冷たいのでいいですか。


阿部: ありがとうございます。——北村先生との関係について、もう少し具体的に。


K: (お茶を注ぐ音) 先生のことを聞きたいのね。


阿部: はい。北村先生はどんな人でしたか。


K: (間) よく笑う人でした。子供が何か言うと、まず笑った。笑ってから、ちゃんと答えた。


阿部: 教え子から見た印象として。


K: 教え子から見た、ね。(お茶をすする音) やさしい先生でした。赤ペンのコメントがていねいでした。どの子の作文にも、ちゃんとその子に向けた言葉を書いてくれた。


阿部: 日記のことですか。


K: 日記を見たのですか。


阿部: 教育委員会で閲覧しました。四十人分。


K: ……四十人。


阿部: 四十人の夏休みの日記です。北村先生が赤ペンでコメントを書いている。


K: (長い間) 読みましたか。全部。


阿部: 全部読みました。


K: (さらに長い間) ……どうでしたか。


阿部: 率直に言います。異常な内容でした。


K: (静かに) そうですか。


阿部: 赤い風鈴。セミの声。プールの拡張。砂嵐の顔。子供たちの日記に共通するモチーフがあり、8月13日を境に文体が均質化している。そして最後の三篇は——


K: 知っています。


阿部: 知っている、というのは——


K: 全部覚えています。翔太くんの最初の日記から、ひろみちゃんの最後の一文まで。


阿部: 記憶している。


K: 記憶、ではなく。——また同じことを言いますが。昨日のことのように。


阿部: (ペンを走らせる音) Kさん。率直にお聞きします。あなたは北村ひろみ先生ご本人ですか。


K: (お茶を置く音) 昨日も聞きましたね。


阿部: 昨日は答えていただけませんでした。


K: 「そういうことにしておきましょう」と言いました。


阿部: 今日は、はっきりと答えていただきたい。


K: (間) はっきり答えることが正確だとは限りませんよ、阿部さん。


【間。約十秒。お互いに何も言わない】


阿部: ……。


K: お茶、おかわりはいかがですか。


【録音終了】


フィールドノート 2000年8月5日 帰宅後


はぐらかされた。また。


だが「全部覚えています」という発言は記録に値する。Kは四十人分の日記の内容を、少なくとも部分的に知っている。教え子なら覚えていてもおかしくないが、四十人分の全内容となると——。


当時の児童なら現在二十五歳前後。Kは明らかに六十代以上の老女。年齢が合わない。


認知症でも記憶の捏造は起きる。ただし捏造にしては整合性が高すぎる。


保留。


夕飯はコンビニの幕の内弁当。ビール。テレビで野球を見た。巨人が負けた。どうでもいい。


2000年8月6日


取材6日目。


今日は施設に行く前に、旧祢古小学校跡地をもう一度見に行った。ビデオカメラを持って。


跡地に着いた。9時頃。夏の日差し。蝉。


コンクリートの基礎を撮影した。時計塔があったとされる場所。何もない——はずだった。


ビデオを回しながら基礎の周辺を歩いていたとき、地面に影が見えた。


自分の影じゃない。


基礎のそばに、もう一つの影があった。人の形。立っている人の影。


周囲を見回した。誰もいない。影だけがある。


——五秒間。ビデオを回したまま、影を見た。


五秒後に消えた。


ビデオを確認した。液晶に再生してみたが、影は映っていなかった。自分の影と、基礎のコンクリートだけ。


見間違いだった——と記録しておく。暑さのせいだ。アスファルトの陽炎で影に見えることはある。基礎はコンクリートだが似たようなものだ。


記録しておく。見間違いだった。


施設でKに会った。今日のKは少し疲れた顔をしていた。


MD書き起こし 2000.08.06【録音開始。蝉の声。今日は窓が閉まっている】


阿部: 今日は日記の内容について具体的に聞かせてください。7月21日、山田翔太の日記。裏山の祠で赤い風鈴を見たという記述。


K: 翔太くん。


阿部: この赤い風鈴は実在するものですか。


K: しましたよ。


阿部: 過去形ですか。


K: あるいは現在形かもしれません。あの風鈴は——触れないんです。手がすり抜ける。


阿部: 翔太の日記にもそう書いてあります。触れない。なのにそこにある。


K: そうです。そこにある。ずっとある。


阿部: Kさん、あなた自身はその風鈴を見たことがありますか。


K: (少し間) 子供のころに。


阿部: 子供のころ、とおっしゃった。


K: (間) ええ。


阿部: それは——何年頃の話ですか。


K: (長い間。お茶をすする音) 暑いですね、今日は。


【録音終了】


フィールドノート 2000年8月6日 帰宅後


「子供のころに」。


Kが自分の過去について語った。初めてだ。しかしすぐに話題を変えた。


時系列を整理する。


北村ひろみ(担任):1987年の夏に赴任4か月。若い教師。年齢不詳(資料による食い違い)。K:年齢不詳。施設の入居記録に年齢の記載なし。


Kが北村ひろみ本人だとすれば、1987年に24歳〜31歳(資料の幅)として、2000年には37歳〜44歳。しかしKは明らかに60代以上に見える。


矛盾。


ただし——跡地で見た影のことが頭から離れない。映っていなかった影。誰のものでもない影。


記者として不適切な思考だ。影の見間違いと取材対象の年齢の矛盾を結びつけるのは論理の飛躍にすぎない。


牛丼を食って寝る。


2000年8月7日


取材7日目。


朝、ホテルの鏡で顔を見た。いつもの顔。無精髭が伸びている。剃ろうかと思ったが面倒でやめた。


施設に向かう途中、祢古沢の旧井戸跡に寄った。千夏の日記にあった井戸。


井戸の蓋は石で塞がれていた。蓋の縁に赤いものがついていた。


——錆、だと思った。


だが近づいて見ると、錆にしては色が鮮やかすぎた。赤い。鮮やかに赤い。


手袋をして触った。粘度がある。


ビデオを回した。映像に記録した。


(映像については別途記載)


施設に着いた。廊下の歩数:三十五歩。昨日は三十四歩だったはず。


一歩増えた。


——廊下の長さが変わるはずがない。歩幅が変わっただけだ。



MD書き起こし 2000.08.07【録音開始。蝉の声。今日は特に大きい】



阿部: 今日は井戸の話をお聞きしたい。山崎千夏の日記にある古井戸です。


K: 井戸に寄ってきたんですね。


阿部: ……なぜわかるんですか。


K: (間) 手袋を替えてきましたね。


阿部: 替えました。


K: そうですか。


【間。約十秒】


阿部: 蓋の縁に赤いものがついていました。


K: (すぐに) 触りましたか。


阿部: 手袋で。


K: (少し長い間) 手袋でよかった。


阿部: 何か問題が——


K: いいえ。ただ、赤い水はね、きれいなんです。千夏ちゃんの日記にも、先生のコメントにも、「きれい」って書いてあったでしょう。


阿部: (ペンが止まる音) 「先生のコメント」と、今おっしゃいましたか。


K: ええ。


阿部: 先生が「きれい」と書いたと。


K: 書きましたよ。


阿部: ……あなたが書いたのですか。


K: (静かに笑って) さあ。


【録音終了】


フィールドノート 2000年8月7日 夜


「手袋でよかった」。


Kは触らない方がいいと示唆した。なぜ。赤い水に何かがあるのか。


それよりも——Kが赤ペンコメントの内容を正確に知っていた。「きれい」と書いたと。日記の原本はここにはない。教育委員会にある。Kが読める状態にはない。


にもかかわらず、コメントの内容を知っている。


説明は三つ。


一、Kが当時の教え子で、提出前にコメントを見た記憶がある。——だが赤ペンコメントは提出後に担任が書くものだ。児童が見ることはない。


二、Kが当時の担任本人で、自分が書いたコメントを覚えている。——年齢が合わない。


三、Kが別の情報源からコメントの内容を知った。——だが日記の原本は教育委員会の資料室にあり、閲覧には手続きが必要。施設入居者が閲覧できる状態にない。


どれも穴がある。


ホテルに戻って、手袋を処分した。処分しようとしたとき、一瞬だけためらった。なぜためらったのか分からない。赤い粘液がついた手袋を、なぜ捨てたくないと——


いや。捨てた。


夕飯は駅前の中華屋。レバニラ定食。味は普通。隣の席の大学生グループがうるさかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ