第五話 床の汚れ
鍵の音が消えると、窓際の二人が動いた。
一人がクレセント錠を外し、窓を引き開ける。夜の空気がカーテンをふくらませて、部屋に流れ込んできた。
「下、下どうなってる」
「無理だって。ここ4階だぞ」
身を乗り出したほうが、すぐに首を引っこめた。窓の下の壁紙は、継ぎ目のところで二枚が少しだけ重なっていて、そこに細い影ができている。
「誰か。誰かいませんか。助けてください」
声は外の暗がりに吸い込まれて、何も返ってこない。
「飛べるか」
「飛べるわけないだろ。下、アスファルトだぞ」
「植え込みとか、ないのかよ」
「ない。何もない」
「お前も叫べよ」
「叫んでるだろ。……誰か、上です、4階です」
「ナースコールとか、ないのかよ、この部屋」
「空き部屋だぞ。線、抜いてあるに決まってんだろ」
二人は窓枠を掴んだまま、一度もこっちを振り返らなかった。
監督は、扉から一番遠い壁に背中をつけて立っている。キャップを脱いで、両手で握っていた。
「警察、来るからな」
監督が、誰に言うともなく言った。
「もう呼んであるからな。すぐ来る。だから、もう、やめとけ」
誰も返事をしなかった。窓の外は、暗いまま何の音もしない。
*
ベッドの脚から手を離した制作主任が、床を這って、俺の足元まで来た。
両手をつき、額を床に押しつける。
顔の下の床に、赤いものが広がっていった。
「すみ、ません」
言葉が、裂けた口の端から崩れて出てくる。
「すみません。すみません。僕は、言われた、だけで。監督に。全部、監督が」
壁際で、監督の肩がびくりと動いた。何も言わない。
俺はしゃがんで、制作主任の頭の横に目線を下ろした。
「床、汚れてるよ。……迷惑かけない人なんだろ?」
制作主任の背中が止まった。
額をつけたまま、自分の顔の下を見ている。それから慌てて、シャツの袖で床をこすり始めた。
「拭きます。拭きますから。ちゃんと、拭きます」
「何で拭くんだ」
「シャツで、これで。ちゃんと、きれいに」
袖が往復するたびに、汚れは薄く、広くなっていく。
「おい」
壁際から、監督の声がした。
「もういいだろ。そいつ、もう十分だろ。顔、そんなになってんだぞ」
俺は振り返らなかった。監督も、壁から一歩も離れなかった。
「子どもの、こと。生まれて、来なくていいとか、あれ、本気じゃ、なくて。勢いで、言っただけで」
制作主任は袖を床につけたまま、顔を上げた。もう片方の手で、顎を下から支えている。
「俺、帰らせてください」
声が裏返っていた。
「帰りたい、です。帰らせて」
「まだ、28で。この仕事、やっと、もらえて。監督に、使ってもらえて。だから、ちゃんと、やらなきゃって」
顎を支えた指の間で、言葉が何度も途切れる。
「現場、止めたら、怒られるんで。それで、つい」
俺は立ち上がった。
「葬式なら、もうすぐ出す。お前のだ」
袖の動きが止まった。
「やだ」
袖を床につけたまま、制作主任が首を横に振る。
「やだ、やだ。お願いします。お願いします」
額が、また床に落ちた。
*
「……全員で行け」
壁際から、監督が言った。
窓際の二人が振り返る。どちらの顔も、汗と涙で濡れていた。
「一人ずつ行ったら、やられる。全員で行けば、どうにかなる。あいつ一人だぞ。刃物だって、もう廊下に捨ててる」
「でも、照明さんが」
「だから全員で行くんだよ。ここで、あいつにやられるのを待ってたいのか」
窓際の二人は、答えなかった。一人が窓枠から手を離し、もう一人もそれに倣う。
「俺が先に行く。いいな。せーので行くぞ」
監督がキャップをかぶり直した。
「行くぞ」
監督が床を蹴った。窓際の二人も、つられて飛び出してくる。
足元の制作主任が、いきなり俺の両脚に抱きついた。声にならない音を上げて、腕に全身の重さをかけてくる。
俺は脚を取られて、半歩よろめいた。監督は、俺のところまで来なかった。
俺の横をすり抜け、扉に飛びつき、内側のつまみをひねる。扉が開いて、廊下の光が一本、床に倒れ込んだ。
監督の背中が、その光の中へ消えた。
窓際の二人が、走りかけた姿勢のまま止まる。
「え、監督?」
「待てよ、置いてくなって」
二人は顔を見合わせて、監督のあとを追って出ていった。扉が、半開きのまま揺れている。
脚に抱きついていた腕から、力が抜けた。
「監督」
制作主任は、扉のほうを見ていた。
「監督、監督」
腕がほどける。制作主任は四つん這いになって、扉へ向かって床を進み始めた。
俺はその襟首を掴んで、部屋の奥へ引き戻す。
それから足で、扉を閉めた。
*
制作主任の頭を、壁に打ちつけた。
壁を背にずるずると座り込んだ制作主任は、目の焦点が合っていなかった。それでも両手を胸の前に上げて、こちらに手のひらを向けている。
「スマホ、持ってるだろ」
制作主任は、何を聞かれたのか分からない顔をした。
「親に何か送るなら、送れ。1分やる」
ズボンの後ろのポケットを探る手が、何度も滑った。ようやく引き抜いたスマホは、指の間から落ちて、床の上で一度跳ねた。
制作主任は、それを拾おうともしない。
床に手をついて、扉のほうへ這い出す。肘を前に出して、膝を引きずって、少しずつ。
「1分って言った」
「や、め」
「そっちに行っても、開けてくれる人はいない」
制作主任は止まらない。俺は壁にもたれて、その背中を見ていた。
「清掃の人のこと考えた?」
制作主任の肘が止まった。
振り返った顔は、半分が自分の手で隠れていた。隠れていないほうの目が、俺を見ている。
裂けた口が、何かの形を作ろうとしていた。
「……泣いて、いい」
俺は壁際の丸椅子を持ち上げた。
数えるのをやめた。
脚が一本外れて、床を転がっていく。制作主任は、もう動かない。
*
座面の割れた丸椅子を、床に下ろした。
腰に手を当てて、背中を伸ばす。肩甲骨のあたりが、ばきりと鳴った。
部屋の中を一度だけ見回した。床の男が二人、ベッド、開いたままの窓。
外したベルトは、照明部の男の横に落ちている。拾わずに、扉を開けて廊下に出た。
蛍光灯の明かりが、目の奥に刺さる。隣の病室の前の床に、さっき放ったメスが、そのままの角度で落ちていた。
隣の病室の扉の、ガラスの向こうで、いくつもの顔がこっちを見ている。
その扉が、俺の目の前で閉まった。
内側で、鍵の回る音がした。




