第四話 内側の鍵
手術室の扉を、内側から押し開けた。廊下の蛍光灯が、さっきより白く見える。
出がけに、ワゴンのトレイからメスを取った。思っていたより軽い。
隣の病室の前に、制作主任と監督が立っていた。
開いた扉から照明の白い光が漏れ、撮影隊の何人かがケーブルを巻き直している。中から「次、病室のカット戻りまーす」という声がした。
制作主任が俺に気づいて、頬を押さえていた手を下ろした。
「なんすか。子ども、ちゃんと通したでしょ」
監督は俺の顔を見て、鼻を鳴らした。
「気をつけろよ。脚、折る人だからな」
「そうそう。それに、奥さん亡くしたばっかりなんですから。優しくしてあげないと」
二人が同時に吹き出す。制作主任は腹を抱えて、壁に片手をついた。
「やば、笑いすぎて、口裂けそう」
俺は歩いていった。
制作主任が顔を上げたときには、もう手を振り抜いていた。
口の端が、耳まで裂けた。
制作主任は自分の頬に手をやって、その指先を眺めている。何が起きたのか、まだ分かっていない顔だった。
俺はメスを、病室の前の床に放った。刃が乾いた音を立てて、廊下を少しだけ滑っていく。
制作主任の髪を掴んだ。
悲鳴が上がりきる前に、その隣の空き病室の扉を肩で押し開け、中へ引きずり込む。
部屋の中は、廊下の明かりしか入っていなかった。ベッドが一台、丸椅子がいくつか壁際に寄せてあり、床には撮影隊のものらしいリュックや弁当の空き箱が置いてある。
制作主任は床を這って、ベッドの脚にしがみついた。
*
「おい、何やってる」
廊下で監督の声がした。
「止めろ。誰か行け、早く」
大きな影が、入口の光を塞いだ。
黒いTシャツの、腕の太い男だった。腰のベルトに革の手袋を挟んでいる。
さっきまで廊下で照明スタンドを担いでいた男だ。男は何も言わずに部屋へ入ってくると、片手で俺の首を掴んだ。
そのまま押される。背中が壁にぶつかり、頭の後ろが壁を打った。
踵が床から浮きかける。
息が、喉のところで止まった。
「監督が止めろって言ってんだよ」
入口に、監督と男が二人立っていた。さっき台車を囲んでいた顔だ。
「押さえとけ。そいつが先に手ぇ出したんだからな。こっちは正当防衛だ」
二人のうちの一人が、そう言った。
「そのまま押さえてろ。今、警察呼ぶから」
もう一人が、俺の手元を指さした。
「監督、こいつ、まだ動いてます」
「離すなよ。絶対離すな。手首でもなんでも折っちまえ、どうせ向こうが先なんだ」
監督がスマホを取り出す。3人とも、部屋の中に入ってきていた。
俺は自分の腰に手を回した。バックルを外し、ベルトを引き抜く。
照明部の男は、俺がそれで首を絞めにくると思ったのか、空いているほうの腕を顔の前に上げた。
ベルトの先の、バックルのピンを、男の首に二度。
首を掴んでいた手から、力が抜けた。
男は俺の目の前で、膝から床に落ちる。それきり、動かなかった。
「おい、何してる。離すなって」
監督の声が、途中で切れた。男が倒れたままなのを、ようやく見たらしい。
「え、なに。おい、起きろって。なあ」
二人のうちの一人が、倒れた男の肩を靴の先でつついた。返事はない。
部屋の中で、誰も動かなくなった。
*
俺は壁から背を離して、喉に手を当てた。息を吸うと、少し咳が出る。
窓のカーテンの裾が、一か所だけ外側に折り返っていた。
「お、お前」
監督の声が上ずっている。入口にいた二人は、俺から目を離さないまま、じりじりと窓のほうへ下がっていた。
「分かってんのか。子どもがいるんだろ。人なんか殺したら、一生出てこられないぞ」
制作主任はベッドの脚にしがみついたまま、口を押さえて肩を震わせている。俺は監督のほうを見た。
監督の声を聞きながら、俺は先週の信号のことを考えていた。
妻の健診の帰り。この病院を出て最初の交差点で、後ろからぶつけられた。
降りてきた男は謝りもしないで、また運転席に戻ろうとする。窓の隙間から、酒の臭い。
止めたら、男は助手席の窓を叩いて、妻のほうへ手を振り上げた。妻は腹を抱えて、シートの上で丸くなっている。
だから、脚を折った。片方だけ。
妻が「もうやめて」と言ったから、片方でやめた。
「……何だよ。黙ってないで、何とか言えよ」
監督の喉が、何度か上下した。
向こうは、その場では警察を呼ばなかった。飲んでいたからだ。次の日になって、飲んでいないと言い出した。
脚の分、示談金400万円。払わないなら告訴する。
妻は、ぶつけられたことは知っていた。金の話がそこまで膨らんだことは、知らないまま死んだ。お義母さんは、もっと少ない額で片がつくと思っている。
金のことは、ずっと考えていた。今夜も、長椅子で待っている間、ずっと。
「3人殺せば、死刑になる。そう聞いた」
「……は?」
俺がいなくなれば、あの金を払う人間もいなくなる。親は相続放棄すればいい。実家は親の名義だ。
「金は、消える」
言い終えると、部屋の中がひどく静かになった。廊下の向こうで、誰かが走っていく足音がする。
「……本気で言ってんのか」
「冗談に聞こえるか」
監督は答えなかった。キャップのつばの下で、目だけが忙しく動いている。
窓、扉、床の男、俺の手。監督が両手を胸の前に上げた。
「待て。落ち着け、な。座って話そう。お前、まだ若いだろ。奥さんは、その、残念だったけど、また」
「また、はない」
監督は口を閉じた。
*
俺は入口のほうへ歩いた。
監督が、扉の前から横へずれる。自分で道を空けたことに、本人は気づいていないようだった。
窓際の二人が、さらに奥へ下がる。
「待ってくれ。奥さんのことは悪かった。本当に、言い方が悪かった。俺たちが何かしたわけじゃないけど、それでも」
床の上で、制作主任が何か言おうとした。口を押さえた指の間から、空気の漏れる音しか出てこない。
「た……すけ」
誰も、そっちを見なかった。
扉の縁に手をかけた。
「撮影も、もうやめる。今夜は撤収する。機材も全部置いていく。それでいいだろ」
俺は答えなかった。
「監督、なんとかしてくださいよ。監督」
窓際の一人が、泣きそうな声を出した。監督はそっちを見もしない。
「お、おい。開けといてくれ。な。話はいくらでも聞くから。俺がちゃんと聞く」
俺は振り返って、部屋の中の顔を一つずつ見た。
監督。窓際の二人。
ベッドの脚にしがみついている制作主任。
「俺は喧嘩しに来たんじゃない。殴り殺しに来た」
扉を閉めた。
内側のつまみを回すと、かちりと鍵がかかった。




