第三話 白い布
扉から出てきたのは、手術着の年配の医師だった。マスクを首まで引き下ろし、帽子の縁が汗で濃く濡れている。
医師の肩越しに、壁の時計が見えた。
0時2分。
医師は廊下を一度見渡し、まだそこにある保育器に目を留めた。
「何をしてる。どうして搬送がまだここにいるんだ」
看護師が、台車のハンドルを握り直した。
「野崎先生、この人たちが、通してくれなくて」
「いや先生、こっちにも事情がありましてね」
監督の声が、一段低く、柔らかくなった。
「この人らの泣き声で、撮影がずっと止まってたんですよ。それで話し合いを」
「僕なんか、そこの旦那さんに殴られてるんで。被害者はこっちなんですよ、先生」
制作主任が頬を指さしたが、医師はそちらを見もしなかった。
「泣き声?」
医師の目が、手首を押さえた義母に移り、床に膝をついたままの俺に移った。
「誰が手術室の前で泣くなと決めた」
監督の口が、半分開いたまま止まる。
「……こっちは、ちゃんと許可を取って撮ってまして」
「許可。誰の」
看護師が、小さく息を吸った。
「……事務長が。22時までって、聞いてます」
医師はしばらく黙っていた。腕時計を見ることもしない。
「事務長と喧嘩できないからって、患者の家族をいじめるのか」
誰も答えなかった。医師は台車の前に立っていた男たちのあいだに、手を差し入れて押し分けた。
「そこを空けてください。搬送が先です」
男たちが壁際に下がる。監督も、キャップのつばに手をやりながら一歩引いた。
「分かりました。10分で撤収しますんで」
「あなたたちが何分で片付けるかは、私の知ったことじゃない。今すぐ、そこをどいてください」
医師は義母の手首に目をやり、看護師に向かって短く言った。
「向こうに着いたら、そちらも診てもらって」
「はい」
「先生、ちょっと、こっちの話もまだ」
「後にしなさい。あなたたちの話は、この子が出ていってからだ」
台車が動き出す。俺は立ち上がって、医師の前に出た。
「先生、妻は」
「待って」
義母が、俺の腕を掴んでいた。噛んだほうの手で掴んでいるのに、指に力が入っている。
「まだ、聞かないで。聞いたら、私、立てなくなる」
俺は口を閉じた。義母は台車の横に戻りかけて、一度だけ振り返った。
「竹内さん、先に行きます」
看護師と義母が、保育器を挟んで廊下を遠ざかっていく。車輪の音が角を曲がって、聞こえなくなった。
医師は俺に「少し、ここで待っていてください」と言い残して、手術室に戻った。
*
廊下には、俺だけが残った。
隣の病室の扉の向こうで、誰かが機材を引きずる音がする。笑い声が一つ上がって、すぐに消えた。
長椅子に座ると、ビニールの座面が服越しに冷たい。ポケットの中で、スマホが震えた。
画面の上に、通知が一行だけ出ている。
〈明日中にご連絡がない場合は、予定どおり告訴の手続きに入ります〉
ケースの充電口のまわりが、指の当たる形に白く擦れている。
返信はしない。画面を下にして、長椅子の座面に伏せた。
*
手術室の扉が開いて、さっきの医師が出てきた。俺が立ち上がると、医師は目の前で足を止め、手術帽を外して両手で持った。
「奥さまのことです」
「はい」
「手は尽くしました」
医師はそれ以上、何も足さなかった。
言うべきことが、廊下のどこにも落ちていない。
「……いつ、ですか」
「つい先ほどです。赤ちゃんを出したあとも、ずっと続けていました」
「そうですか」
自分の声が、他人の声みたいに平らだった。
「……中に、入ってもいいですか」
「どうぞ。もう、管は外してあります」
医師は深く頭を下げ、俺の横を通って廊下の奥へ歩きだした。
医師は振り返らなかった。足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
俺は、手術室に入った。
機械の画面が、どれも暗くなっていた。さっきまで鳴っていたはずの電子音が、一つも聞こえない。
壁際に寄せたワゴンのトレイに、使い終わった器具が並んでいる。端に、メスが一本。
台の上に、白い布をかけられた体がある。布の端を持ち上げた。
妻の顔だった。
髪が額に何本か張りついている。唇の色が、いつも塗っていた口紅の色からずいぶん遠い。
目が、少しだけ開いていた。
天井の灯りを映しているのか、何も映していないのか、分からない。
「来たぞ」
返事はない。
「子ども、お義母さんが連れてった。こども病院だって。ちゃんと救急車で」
布の下で、妻の手がどこにあるのか分からなかった。探そうとして、やめた。
「顔、見てないだろ。俺も、ちょっとしか見てない。小さかったよ」
「お前の母さん、ずっと泣いてた。隣の連中に、うるさいって言われながら」
布を持ったまま、俺はしばらく立っていた。手を伸ばせば届く距離にある頬に、指が向かない。
同意書にサインしてから、まだ30分も経っていない。あのとき曲がった縦線のことを、今になって思い出す。
「さっき、ちゃんと書けなかったんだ。名前」
妻の目は、天井のほうを向いたままだ。
*
背中のほうで、足音が止まった。
振り返ると、開いたままの扉の向こうに制作主任が立っていた。片手で頬を押さえ、首を伸ばして中を覗いている。
「うわ」
制作主任は、布から出た妻の顔を見ていた。
「目、開いてるじゃないですか。こわ」
「本当に死んだ、言った通りだ」
その後ろから、監督も顔を出した。キャップのつばを指で上げて、一度だけ中を見る。
「まあ、ご愁傷さまです」
それから、俺に向かって言った。
「泣き声抑えてくださいね、まだ撮るんで」
俺は何も答えなかった。
制作主任は扉から首を引っこめると、廊下の奥、保育器が消えていった角のほうへ体を向けた。両手を口の横に当てる。
「娘さん、死にましたよ!」
声が、廊下の突き当たりで跳ね返った。一拍置いて、監督が吹き出した。
「お前、性格悪いな」
「監督が言ったんじゃないですか。ああいう手合いには、って」
「で、どうします。撤収します?」
「するわけないだろ。10分ってのは、あの医者を黙らせるために言ったんだ。照明戻せ。あと一シーンだけ回す」
「了解です」
二人の笑い声が、扉の前から離れていく。後ろにいた何人かも、つられたように笑っていた。
手術室の扉が、ゆっくりと閉まっていく。
廊下の光が細くなって、消えた。
俺は布を持ったまま、妻の横に立っている。
空調の風で、白い布の裾がわずかに揺れていた。




