第二話 先に払え
制作主任は俺の手を振りほどき、監督の横へ回り込んだ。
「今から言うとこでした」
監督が答える前に、ポケットの中で電話が震えた。監督は画面を見て舌打ちし、俺たちに背を向けて耳に当てる。
「はい。……ええ、まだです。こっちが押してて。……延長で。だから延長でいいって言ってるでしょう」
声が廊下の天井に当たって、こちらに落ちてくる。
「払いますよ。払うけど、こっちは全部自腹なんでね。スポンサーなんか付いてないんだから。……はい。はい、折り返します」
電話を切った監督は、画面を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
その間に、制作主任が俺の前に立つ。スニーカーの靴ひもが左右で長さが違っていて、右だけが床に垂れていた。
「うち、今撮ってるの『御曹司はヘリで迎えに来る』っていう縦型のドラマなんですけど」
「それが、何か」
「ヒロインが倒れて、御曹司がヘリで病院に駆けつけるシーンがあるんですよ。ヘリの画は別の場所で飛ばして撮ってて、こっちの芝居と合わせて編集するんで。こっちが押すと、向こうもずっと待ってなきゃいけないんです」
その説明が誰に向けられているのか、俺には分からなかった。
監督がスマホをポケットに戻して、こちらを向く。
「あんたらの声で、何回もNG出てる。ヘリの延長、1時間20万円。今回の分、そっちで持ってもらう」
義母が俺の袖を掴んだ。
「何を言ってるの、この人たち」
「払う理由がありません」
「理由ならある。あんたらの声が入った。それだけだ」
「聞いたとおりですよ」
制作主任が、監督の後ろから半歩だけ前に出る。
「だいたい、まだ誰も死んでないでしょ。葬式みたいに泣くなって、僕は最初から言いたかったんですよ」
右の拳が、制作主任の頬に当たっていた。
男は廊下の床に尻もちをつき、頬を押さえて俺を見上げる。指の間から、赤いものが一筋だけ垂れた。
撮影隊の何人かが、一歩前に出た。
監督は動かない。床の部下と俺の拳を、見積書でも眺める目つきで見比べていた。
*
手術室の扉が開いた。
看護師が、透明な箱を載せた台車を押して出てくる。搬送用の保育器だった。
中に、小さな体が見える。
顔の色を確かめる前に、看護師が廊下を見回した。
「さっき、扉を蹴ったのは誰ですか」
誰も答えなかった。制作主任が床から立ち上がって、目を逸らす。
看護師はそれ以上追及せずに、俺のほうを向いた。
「ご主人。赤ちゃんは今、自分の力だけでは呼吸が足りていません。ここではこれ以上の治療ができないので、NICUのあるこども病院に搬送します」
「妻は」
「奥さまは、まだ中で処置を続けています。先生たちが診ています」
「……子どもは、助かるんですか」
「受け入れ先にはもう連絡が済んでいて、ベッドも空けてもらっています。救急車も下に着いています。ご家族、お一人ついてきてください」
義母が立ち上がった。
「私が行きます。あなたは、あの子のそばにいて」
看護師が頷いて、台車の向きを変える。
その台車の縁を、横から伸びてきた手が掴んだ。
監督だった。
「先に払え」
看護師が監督の手を見て、それから顔を見た。
「搬送先は決まっています。通してください」
「通すよ。払ったらな」
監督は台車から手を離さず、俺だけを見ている。
「延長分。払わないで消えられたら、こっちは誰に請求すりゃいいんだ。お前ら、この子連れていなくなるんだろ」
「子どもの命がかかってるんです」
「死ぬのはそっちの子だ。俺の子じゃない」
義母の喉から、短く空気の抜ける音がした。
俺が一歩踏み出すと、撮影隊の男たちが台車の周りに寄ってきた。
4人、5人。廊下の幅が狭くなる。
監督は男たちを見回して、鼻を鳴らした。
「こっちは撮影隊だぞ、何人いると思ってる」
看護師の声が、初めて大きくなった。
「あなたたち、病気なんですか」
監督は答えない。台車を掴んだ指の関節が白くなっている。
「お願いします。お金なら、後で必ず。だから今は」
「後で、ってのが一番信用できないんだよ」
保育器の中で、小さな胸が上下していた。その動きが、さっきより速い気がする。
殴れば、この手は外れるかもしれない。外れなければ、もっと時間がかかる。
警察が来て俺が連れて行かれたら、手術室の中の妻のそばには、誰もいなくなる。
俺はスマホを出した。
「どこに振り込めばいいんですか」
*
制作主任が口座番号を読み上げ、俺は一桁ずつ打ち込んでいった。
画面に「振込が完了しました」と出る。それを向けると、監督は覗き込んで頷いた。
「延長分は、確かに」
台車から、手は離れなかった。
「まだだ。うちのを殴ったよな」
監督は、頬を押さえている制作主任を親指で指した。
「あれが30万円。治療費と、今夜あいつが使い物にならない分」
「……そんな金、今すぐには」
「ないのか」
監督は呆れたように眉を上げた。
「その金もないのに子ども作ったのか」
義母が台車の前に回り込む。
「お願いです。先に通してください。この人、本当にもうお金がないの。前に人の脚を折って、示談金を……うちも、それで」
言ってから、義母は自分の口を押さえた。
制作主任が、頬を押さえたまま吹き出す。
「脚折ったって。監督、僕ら脅されてますよ。怖いなあ」
「脚なんか折ったら、普通は捕まってるだろ。作り話するなら、もうちょっと勉強してからにしてくれ」
看護師が、台車のハンドルを握ったまま言った。
「本当です。その方がここに救急で運ばれてきたとき、私が対応しました。脚の骨折でした」
監督の目が、看護師に移る。
「さっきから、ずいぶんそっちの肩を持つね。看護師さん、この人たちの身内か何か?」
「違います」
「どうだかな。看護師と患者の家族がグルになって、撮影隊からむしり取る。ネタとしちゃ悪くない」
「ふざけないでください。赤ちゃんの前で」
*
監督が台車から手を離した。
離れたと思った手の代わりに、今度は足が上がった。監督は台車の外枠に靴底を載せる。
保育器の透明な壁が、かたんと揺れた。
「やめてください。不潔です」
看護師が監督の膝を押したが、靴は外れない。
「折ってみろよ」
監督は俺を見ていた。
「脚、折るの得意なんだろ。この脚、折ってみろよ」
俺は動かなかった。台車の上で、保育器がまた小さく揺れる。
「だよな。こんな家に生まれない方が、この子には救いだろ。殴る親父と、金の払えない家だ」
監督は靴を載せたまま、ほんの少し体重を前にかけた。
「土下座。それで許してやる」
義母が俺の腕を掴んだ。何も言わず、首を横に振っている。
何に向かって振っているのか、たぶん義母にも分かっていない。
「土下座したら、通すんですね」
「ああ。殴った分は、それでチャラにしてやる」
俺は膝を折る。
廊下の床は冷たかった。ベルトのバックルが床に当たって、小さな音を立てた。
両手をつき、額を下げた。
「すみません」
頭の上で、誰かが笑った。それを合図に、笑い声が広がっていく。
「さすが監督。一発じゃないですか」
制作主任の声だった。頬を押さえたまま、笑うたびに息が漏れている。
「今の、撮っときゃよかったですね」
「使えるかよ、こんなもん」
「ああいう手合いにはな、理屈は通じないんだよ。最初からこうすりゃよかったんだ」
俺は額を床につけたまま、監督の靴が台車から下りる音を待った。
下りない。
「……もう、いいですか。通してください」
看護師の声が震えている。
「待て」
監督の声は、さっきより落ち着いていた。
「他にも損害がないか、今考えてる」
俺は顔を上げた。
「土下座したら、通すって」
「殴った分は許した。言ったとおりだろ。けど、押した撮影の分とか、待たせてる役者の分とか、損害は損害だ。一つずつ数えないとな」
義母が立ち上がった。
監督の前まで歩いていき、自分の右の手首を口元へ持っていく。
噛んだ。
手首から伝った血が、肘の先から床に落ちる。
撮影隊の男たちが一斉に後ずさった。監督も靴を台車から下ろして、半歩下がる。
「通してください」
義母の唇から、言葉がこぼれた。
「私がここで死んだら、あなたたち、関係ないって言えないでしょう」
一拍置いて、監督が笑い出した。
「なんだ、ゆすりか。血ぃ見せたら払ってもらえると思った?」
制作主任もつられて笑う。後ろの男たちも、遅れて笑った。
義母は手首を押さえたまま、監督を見上げている。
その笑い声の上で、赤いランプが消えた。
手術室の扉が、内側からゆっくり押し開けられていく。




