第一話 泣き声
手術室の扉の上で、赤いランプが点いている。
義母は長椅子の端に座って、ハンカチを口に押し当てたまま肩を揺らしていた。声は抑えているつもりなのだろう。
それでも廊下が静かすぎて、嗚咽の切れ端が壁に跳ね返ってくる。
俺は壁にもたれて立っていた。座ったら、もう腰が上がらない気がした。
左の肘に、消火器ボックスの角が当たっている。体を少しずらして、向かいの壁の時計を見た。
21時40分。
妻がこの扉の向こうへ運ばれてから、まだ1時間も経っていない。
隣の病室の扉が開いたのは、そのときだった。
白い光が廊下に漏れる。照明スタンドが何本も立っていて、ベッド脇の台に、両手に乗るくらいのヘリの模型が置いてあるのが見えた。
出てきたのは、首からストラップを下げた若い男だった。片手にトランシーバー、もう片手に丸めた台本。
ストラップの先のカードには、「制作主任」と印字されている。
「すみません、隣で撮影やってる者なんですけど」
義母が顔を上げた。
男は義母ではなく、俺のほうを見て軽く頭を下げる。
「泣き声、もう少し抑えてもらえます? こっちも仕事なんで」
意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
「……撮影?」
「ドラマです。許可は取ってるんで。事務長さんにちゃんと話を通して、この部屋と、その隣を使わせてもらってるんですよ」
「中で、妻が手術を受けてるんですが」
「ええ、それは大変だと思います。ただ、音が入っちゃうんですよね。マイク、けっこう拾うんで」
義母は口を半分開けたまま、男の顔を見ていた。
男はもう一度会釈して、病室に戻っていく。扉が閉まる直前、中から「本番いきまーす」という間延びした声がした。
義母の膝の上で、ハンカチが握り潰されている。
「……あの子が、中にいるのに」
「病院で、撮影なんかするの」
「……するみたいです」
「するみたいって、あなた」
義母はそれ以上続けずに、また顔を伏せた。今度は声を殺そうとしたのか、喉の奥で何かがつかえる音がした。
「水、買ってきましょうか」
「いい。ここにいて」
5分と経たないうちに、隣の扉の向こうで怒鳴り声が上がる。
「おい、まだ聞こえてんぞ。何やってんだ」
扉が開き、さっきの男が小走りに出てくる。
「お宅ら、まだやります? 一回言いましたよね」
義母の肩が跳ねた。
気がつくと、俺は男の胸ぐらを掴んでいた。ストラップの留め具が、指の関節に食い込んでいる。
「責任者を呼んでください」
「は?」
「あなたに言っても仕方がない。責任者か、その人の連絡先を」
男は俺の手首を見下ろして、鼻から短く息を漏らした。
「監督の番号なんて、出せるわけないでしょ。こっちにもルールがあるんで。とにかく静かにしてもらえれば、それで済む話なんですよ」
男は俺の指を一本ずつ剥がすようにして手を払い、襟を直しながら病室へ戻っていった。
*
この長椅子に、今夜は妻も座っていた。
陣痛の間隔が、まだ長かった頃だ。腹を両手で抱えて、壁の時計と俺の顔を交互に見ていた。
「なあ、俺のほうが先に担架で運ばれたらどうする。緊張しすぎて、ぶっ倒れて」
笑わせるつもりだった。
「縁起でもない」
言い終わる前に、妻の手が俺の口を塞いでいた。手のひらから、廊下の消毒液の匂いがした。
「私より先に運ばれてどうするの。もう。その話、おしまい」
「……はい、真帆」
塞がれたまま返事をすると、妻は手を離さないで、少しだけ笑った。
いま俺は、壁に掌を押し付けている。
*
時計の長針が何周したのか、途中から数えなくなった。
義母はハンカチを畳んでは広げ、俺は壁から背を離しては戻した。隣の病室からは、ときどき笑い声と、カチンコの乾いた音が聞こえてくる。
23時46分。
手術室の扉が開いた。
出てきたのは若い女の看護師で、クリップボードを胸に抱えている。
名札には「古谷」とあった。ボードの裏に、丸い青いシールが一枚貼ってある。
「ご主人ですか」
「はい」
「奥さまは、羊水塞栓という状態です。羊水が血液の中に入って、今、呼吸と血圧がとても危険な状態になっています」
看護師は一度言葉を切って、俺の目を見た。
「赤ちゃんを助けるために、今すぐ帝王切開を行います。その同意をいただきたいんです」
ボードが差し出される。一番上に「柳橋総合病院」とあり、その下に、菱江市から始まる住所が小さく印刷されていた。
「妻の処置は、今も続いてるんですね」
「続いています。奥さまの処置は止めません。並行して進めます」
「赤ん坊は」
「今出してあげるのが、一番助かる可能性が高いんです。先生がそう判断しました」
ボールペンを受け取った。竹内、の「竹」の縦線が、二本とも途中で曲がった。
最後まで書いて顔を上げると、義母が床に膝をついている。
「お願いします」
義母は看護師の足元に両手をつき、額を床に擦りつけた。
「私にできることなら、何でもします。あの子を助けてください。私のなんか、全部あの子にあげていいから」
「立ってください。中で、先生たちがやってますから」
「あの子は、あの子の意識は」
「今は、先生たちに任せてください。また必ず、お知らせに出てきます」
看護師は義母の腕を取って長椅子に座らせると、ボードを抱え直して手術室に戻っていった。
扉が閉まる。
赤いランプは、点いたままだ。
*
義母がまた泣き出すのを、俺は止めなかった。止める言葉を、一つも持っていなかった。
隣の扉が、さっきより乱暴に開く。
「あの、これ何回目ですか」
制作主任だった。もう会釈はない。
「こっちもね、何十人も待たせてるんですよ。僕だって社会に迷惑をかける人間にはなりたくないんで、ちゃんと許可取って、時間決めてやってるんです。あんたらも、ちょっとはこっちの立場になって考えろって話で」
「中で、妻が手術を受けてる」
「だから、それはさっき聞きました」
「今、帝王切開の同意書にサインしたところなんです」
「だからぁ」
男は大げさに息を吐くと、手術室の前まで歩いていった。
そして、扉を蹴った。
鈍い音が、廊下の端まで転がっていく。義母が腰を浮かせたまま固まった。
「ほら。うるさいでしょ。邪魔されるって、こういうことなんですよ。立場になって考えろって、そういう意味です」
義母が男の腕にしがみついた。
「中で手術してるのよ。あの子のお腹、今、開けてるのよ」
「知りませんよ、そんなの」
俺は男の正面に立った。
「今の音、中に聞こえたと思いますか」
「さあ」
「手を動かしてる人がいるんです。妻の体の中で」
「いや、だからね。あんた、会社で隣の席の人がずっと泣いてたら、仕事になります? ならないでしょ。それと同じなんですよ」
「同じじゃない」
男は肩をすくめて、義母の腕を振りほどいた。
「同情はしますよ。でも、帝王切開でサインって、要はどっちか駄目かもって話でしょ。そもそもさ。こんな家に生まれて来なくてよかったんだ、その子は」
今度は、自分で掴むと分かっていて掴んだ。
襟が男の首に食い込んで、声が裏返る。
「ちょ、手ぇ出すんですか、あんた。今の見てましたよね、誰か」
隣の扉が開いた。
中から、4、5人がぞろぞろと出てくる。照明の熱を浴びていたのか、全員の額が光っていた。
一番後ろに、キャップをかぶった40代くらいの男。
俺の手の中で、制作主任の喉が上下した。
「監督、僕が話します」
声の高さが、さっきと全然違う。
キャップの男は俺を一瞥しただけで、制作主任のほうへ首を傾けた。
「で、言ったのか? あの件」




