終話 口を塞ぐ手
廊下の壁、手術室の扉の横に、消火器ボックスが埋め込まれている。
肘で、正面のガラスを割った。破片が床に散って、細かい音を立てる。
中の消火器を引き抜くと、両腕にずしりと重さがかかった。
それを提げて、隣の病室の前まで歩く。扉のガラスの向こうで、顔がいくつも後ろへ下がった。
消火器の底を、ガラスに叩きつけた。ガラスが割れて、中の照明の熱い空気が廊下に流れ出てくる。
十何人もいた。ベッドのセットを囲んで、照明スタンドの陰に、レフ板の後ろに、みんなが身を寄せ合っている。
「何、何なのあの人」
「照明さんは? 照明さん、さっき隣行ったよね」
レフ板を抱えた若い男が、口を開きかけて閉じた。何人かが、俺の手元の赤い筒を見ていた。
監督と、さっきの二人は、部屋の一番奥の角にいた。
「監督と、その二人。出せ」
割れたガラスの穴から言った。大きな声は出していない。
「出すな」
監督が、角から叫んだ。
「開けるな。絶対に開けるなよ。中にいれば、手出しできないんだから」
「監督、どういうことですか。照明さんは? 隣で何があったんですか」
「黙ってろ。今はいいから」
*
扉の近くにいたカメラの男が、一歩下がった。監督のほうは見ていない。
「乗るなよ。こっちは人数がいるんだ。あいつ一人だぞ。全員でかかれば」
「人数、数えてみろよ」
監督が口をつぐんだ。
部屋の中の顔が、互いを見回す。誰も一歩も前に出ない。
「おい。何やってんだよ、お前ら」
監督が、一番近くにいた若い男の背中を押した。
「お前だよ。お前、行けって」
「なんで、俺なんですか」
押された男は、レフ板を抱えたまま壁際まで下がった。
「なんでって、お前、ここで給料もらってんだろうが」
押された男は、監督のほうを見なかった。監督の声が裏返る。
「誰か……誰か行けよ!」
誰も行かない。
俺は消火器の安全ピンを抜き、ホースの先をガラスの穴に差し込んで、レバーを握った。
白いものが、噴き出した。
部屋が一気に白くなる。照明の光が粉の中でぼやけ、悲鳴と咳が重なっていく。
「やめて、やめてください」
「見えない、何も見えない」
「息が、息が」
「開けろよ。開けろって、誰か」
「監督、開けていいですか。開けますよ」
「開けるな、開けたら」
監督の声は、咳に呑まれて最後まで聞こえなかった。
レバーを握ったまま、俺は待つ。白い中から、誰かの声が上がった。
「開けます。開けるから、止めて」
内側で鍵が外れる音がして、扉が開いた。白い粉が、廊下にあふれ出てくる。
*
最初に出てきたのは、さっきの二人だった。
二人で監督の両腕を抱えて、引きずるようにして廊下へ出てくる。全身が粉で真っ白だった。
二人は監督を俺の前に放り出すと、そのまま床に膝をつき、額を床に押しつけた。
「すみませんでした。すみませんでした」
「俺ら、ついてっただけなんです。すみませんでした」
「この人が言い出したんです。金も、土下座も、全部この人が」
「お前ら」
監督が二人を睨んだが、二人とも顔を上げなかった。
監督は咳き込みながら、床に手をついていた。キャップはどこかへ落ちて、髪まで白くなっている。
監督は、二人が頭を下げているのを横目で見た。それから、自分も両手をついて額を下げた。
「言ったの、俺だ、土下座しろって……」
粉にまみれた額が、床に擦れる。
「あなたに、させたのは、俺だ。分かってる。何でもする。警察にも、自分で行く」
粉を吸い込んだのか、監督は背中を丸めて咳き込んだ。
「金は返す、全部返す、だから」
「いらない」
監督が顔を上げた。
「ある、あるよ、泣く権利くらい!」
監督は、そのまま俺の顔を見上げていた。
*
「奥さんは」
監督の唇が、粉で白く乾いている。
「奥さんは、うちが殺したんじゃない。それは、あなたも分かってるだろ。病気だったんだ」
「だから、こんな、ここまでのことは。なあ、そうだろ。そっちの二人も、何とか言えよ」
隣の二人は、額を床につけたまま黙っていた。俺は答えなかった。
消火器を床に下ろして、監督の前にしゃがんだ。目の高さが合う。
監督のまつ毛から、白い粉がひとつまみ落ちた。
「ご家族は、泣いていいんですか?」
監督の口が開いて、閉じた。廊下の奥で、誰かがまだ咳き込んでいる。
「……はい」
俺は、しゃがんだまま監督を見ていた。監督の目が、俺の顔と、床と、手術室の扉のあいだを行き来する。
「子どもを運ぶのを、止める権利は?」
監督の喉が上下した。両手が、床の上で握られて、ほどかれる。
「……ありません」
隣で額をつけていた二人が、どちらも顔を上げなかった。
「ありません。ありませんでした。だから」
監督が、粉だらけの手を合わせた。
「お子さんの、無事を祈ってます。本当に。元気に大きくなって、長生きして」
「あんたに、うちの子を祝う資格はない」
監督は手を合わせたまま、動かなくなった。
*
俺は消火器を持ち上げて、立ち上がろうとした。
監督の手が、床の上を走る。
病室の前の床に落ちていたメスを、監督が掴んでいた。
体ごとぶつかってくる。腹に、何かが入ってきた。
「正当防衛だ」
監督の顔が、すぐ目の前にあった。
「これは、正当防衛だ。そっちが先に」
腹のあたりが、熱く濡れていく。
俺は消火器を握り直した。
「俺は喧嘩しに来たんじゃない。殴り殺しに来た」
監督の手から、メスが落ちる。
消火器を、監督が動かなくなるまで振り下ろした。
廊下の端に警備員が二人現れ、立ち止まったまま、無線で応援を呼んでいる。
*
腹を押さえて、手術室のほうへ歩いた。
床が、ときどき斜めになる。壁に肩をつけて、一歩ずつ進んだ。
手術室の扉を押す。
さっきと同じ白い布の下に、妻がいた。枕カバーの端に、洗濯表示のタグが小さく覗いている。
布を、胸のところまで下ろした。妻の目は、まだ少しだけ開いていた。
「寝るときくらい、閉じろよ」
指で、まぶたを下ろした。一度では戻ってきて、もう一度下ろすと、今度はちゃんと閉じる。
かがんで、妻の唇に口をつけた。冷たい。
台の端に手をかけて、体を持ち上げる。腹が引きつれて、しばらく息が止まった。
それでも、妻の横に体を入れる。台は狭くて、肩と肩がぴったりくっついた。
「お揃いだな、腹を開けられたの」
妻は笑わない。俺の冗談は、いつも面白くないと言われていた。
妻の手を探して、握る。俺の手のほうが、ずっと冷たくなっている気がした。
「お義母さん、すごかったぞ。自分の手首、噛んでさ。あの人たちに、通してくれって」
妻の指は、握り返してこない。
「なあ」
声が、思ったより小さい。
「兄夫婦が、ずっと子どもを欲しがってただろ。あの子が向こうで頑張ってくれたら、兄貴たちが、ちゃんと見てくれる」
妻の髪に、顔を寄せた。何の匂いもしなかった。
「頑張れなかったら、そのときは、3人で……」
そこまで言って、口が止まった。
「縁起でもない、って、いつもなら塞ぐだろ。ここ」
妻の手を持ち上げて、自分の口の上に置いた。
手は、そのまま滑り落ちた。
「口、塞がないんだ」
遠くで、サイレンが鳴っている。
手術室の扉の外で、どこかの扉が閉まる音がした。
それきり、何も聞こえなくなった。
目の前が、端のほうから暗くなっていく。
腕の中に、妻がいる。




