↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
手術室の前で「泣き声がうるさい」と言われたので、泣くのをやめた  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/6

終話 口を塞ぐ手

廊下の壁、手術室の扉の横に、消火器ボックスが埋め込まれている。


肘で、正面のガラスを割った。破片が床に散って、細かい音を立てる。


中の消火器を引き抜くと、両腕にずしりと重さがかかった。


それを提げて、隣の病室の前まで歩く。扉のガラスの向こうで、顔がいくつも後ろへ下がった。


消火器の底を、ガラスに叩きつけた。ガラスが割れて、中の照明の熱い空気が廊下に流れ出てくる。


十何人もいた。ベッドのセットを囲んで、照明スタンドの陰に、レフ板の後ろに、みんなが身を寄せ合っている。


「何、何なのあの人」


「照明さんは? 照明さん、さっき隣行ったよね」


レフ板を抱えた若い男が、口を開きかけて閉じた。何人かが、俺の手元の赤い筒を見ていた。


監督と、さっきの二人は、部屋の一番奥の角にいた。


「監督と、その二人。出せ」


割れたガラスの穴から言った。大きな声は出していない。


「出すな」


監督が、角から叫んだ。


「開けるな。絶対に開けるなよ。中にいれば、手出しできないんだから」


「監督、どういうことですか。照明さんは? 隣で何があったんですか」


「黙ってろ。今はいいから」


    *


扉の近くにいたカメラの男が、一歩下がった。監督のほうは見ていない。


「乗るなよ。こっちは人数がいるんだ。あいつ一人だぞ。全員でかかれば」


「人数、数えてみろよ」


監督が口をつぐんだ。


部屋の中の顔が、互いを見回す。誰も一歩も前に出ない。


「おい。何やってんだよ、お前ら」


監督が、一番近くにいた若い男の背中を押した。


「お前だよ。お前、行けって」


「なんで、俺なんですか」


押された男は、レフ板を抱えたまま壁際まで下がった。


「なんでって、お前、ここで給料もらってんだろうが」


押された男は、監督のほうを見なかった。監督の声が裏返る。


「誰か……誰か行けよ!」


誰も行かない。


俺は消火器の安全ピンを抜き、ホースの先をガラスの穴に差し込んで、レバーを握った。


白いものが、噴き出した。


部屋が一気に白くなる。照明の光が粉の中でぼやけ、悲鳴と咳が重なっていく。


「やめて、やめてください」


「見えない、何も見えない」


「息が、息が」


「開けろよ。開けろって、誰か」


「監督、開けていいですか。開けますよ」


「開けるな、開けたら」


監督の声は、咳に呑まれて最後まで聞こえなかった。


レバーを握ったまま、俺は待つ。白い中から、誰かの声が上がった。


「開けます。開けるから、止めて」


内側で鍵が外れる音がして、扉が開いた。白い粉が、廊下にあふれ出てくる。


    *


最初に出てきたのは、さっきの二人だった。


二人で監督の両腕を抱えて、引きずるようにして廊下へ出てくる。全身が粉で真っ白だった。


二人は監督を俺の前に放り出すと、そのまま床に膝をつき、額を床に押しつけた。


「すみませんでした。すみませんでした」


「俺ら、ついてっただけなんです。すみませんでした」


「この人が言い出したんです。金も、土下座も、全部この人が」


「お前ら」


監督が二人を睨んだが、二人とも顔を上げなかった。


監督は咳き込みながら、床に手をついていた。キャップはどこかへ落ちて、髪まで白くなっている。


監督は、二人が頭を下げているのを横目で見た。それから、自分も両手をついて額を下げた。


「言ったの、俺だ、土下座しろって……」


粉にまみれた額が、床に擦れる。


「あなたに、させたのは、俺だ。分かってる。何でもする。警察にも、自分で行く」


粉を吸い込んだのか、監督は背中を丸めて咳き込んだ。


「金は返す、全部返す、だから」


「いらない」


監督が顔を上げた。


「ある、あるよ、泣く権利くらい!」


監督は、そのまま俺の顔を見上げていた。


    *


「奥さんは」


監督の唇が、粉で白く乾いている。


「奥さんは、うちが殺したんじゃない。それは、あなたも分かってるだろ。病気だったんだ」


「だから、こんな、ここまでのことは。なあ、そうだろ。そっちの二人も、何とか言えよ」


隣の二人は、額を床につけたまま黙っていた。俺は答えなかった。


消火器を床に下ろして、監督の前にしゃがんだ。目の高さが合う。


監督のまつ毛から、白い粉がひとつまみ落ちた。


「ご家族は、泣いていいんですか?」


監督の口が開いて、閉じた。廊下の奥で、誰かがまだ咳き込んでいる。


「……はい」


俺は、しゃがんだまま監督を見ていた。監督の目が、俺の顔と、床と、手術室の扉のあいだを行き来する。


「子どもを運ぶのを、止める権利は?」


監督の喉が上下した。両手が、床の上で握られて、ほどかれる。


「……ありません」


隣で額をつけていた二人が、どちらも顔を上げなかった。


「ありません。ありませんでした。だから」


監督が、粉だらけの手を合わせた。


「お子さんの、無事を祈ってます。本当に。元気に大きくなって、長生きして」


「あんたに、うちの子を祝う資格はない」


監督は手を合わせたまま、動かなくなった。


    *


俺は消火器を持ち上げて、立ち上がろうとした。


監督の手が、床の上を走る。


病室の前の床に落ちていたメスを、監督が掴んでいた。


体ごとぶつかってくる。腹に、何かが入ってきた。


「正当防衛だ」


監督の顔が、すぐ目の前にあった。


「これは、正当防衛だ。そっちが先に」


腹のあたりが、熱く濡れていく。


俺は消火器を握り直した。


「俺は喧嘩しに来たんじゃない。殴り殺しに来た」


監督の手から、メスが落ちる。


消火器を、監督が動かなくなるまで振り下ろした。


廊下の端に警備員が二人現れ、立ち止まったまま、無線で応援を呼んでいる。


    *


腹を押さえて、手術室のほうへ歩いた。


床が、ときどき斜めになる。壁に肩をつけて、一歩ずつ進んだ。


手術室の扉を押す。


さっきと同じ白い布の下に、妻がいた。枕カバーの端に、洗濯表示のタグが小さく覗いている。


布を、胸のところまで下ろした。妻の目は、まだ少しだけ開いていた。


「寝るときくらい、閉じろよ」


指で、まぶたを下ろした。一度では戻ってきて、もう一度下ろすと、今度はちゃんと閉じる。


かがんで、妻の唇に口をつけた。冷たい。


台の端に手をかけて、体を持ち上げる。腹が引きつれて、しばらく息が止まった。


それでも、妻の横に体を入れる。台は狭くて、肩と肩がぴったりくっついた。


「お揃いだな、腹を開けられたの」


妻は笑わない。俺の冗談は、いつも面白くないと言われていた。


妻の手を探して、握る。俺の手のほうが、ずっと冷たくなっている気がした。


「お義母さん、すごかったぞ。自分の手首、噛んでさ。あの人たちに、通してくれって」


妻の指は、握り返してこない。


「なあ」


声が、思ったより小さい。


「兄夫婦が、ずっと子どもを欲しがってただろ。あの子が向こうで頑張ってくれたら、兄貴たちが、ちゃんと見てくれる」


妻の髪に、顔を寄せた。何の匂いもしなかった。


「頑張れなかったら、そのときは、3人で……」


そこまで言って、口が止まった。


「縁起でもない、って、いつもなら塞ぐだろ。ここ」


妻の手を持ち上げて、自分の口の上に置いた。


手は、そのまま滑り落ちた。


「口、塞がないんだ」


遠くで、サイレンが鳴っている。


手術室の扉の外で、どこかの扉が閉まる音がした。


それきり、何も聞こえなくなった。


目の前が、端のほうから暗くなっていく。


腕の中に、妻がいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。