第六話 対価の協議
屋敷に戻った俺を、イザベラは玄関先で待ち構えていた。
平静を装おうとしているのが、かえって落ち着かない様子を際立たせている。昨日まで見せていた、隙のない管理職然とした佇まいは、どこかに置いてきたようだった。
「……どうだったの」
「終わった」
「終わった、って、何が」
俺は答える代わりに、懐から新しい契約書を取り出して差し出した。
イザベラは、ひったくるようにそれを受け取り、読み始めた。
最初の数行で、彼女の目が見開かれた。次の数行で、持つ手が震え始めた。そして最後まで読み終えたとき、彼女は言葉を失ったまま、紙面から顔を上げられなくなっていた。
「……嘘でしょう」
「嘘じゃない。グラント本人の署名がある」
「債務が、半分……期限が五年……利率が、一割……」
イザベラは、譫言のように数字を繰り返した。それから、下の条項に目を落とす。
「西街道の、使用料……? これは……」
「年間の輸送回数を百回と見積もれば、銀貨二百枚。屋敷の維持費と、使用人を数人雇い直すには十分だろう」
「待って。待ってちょうだい」
イザベラは、額を押さえた。
「どうやって。あの男は、三月もの間、一度たりとも譲歩しなかったのよ。それを、たった半日で——」
「譲歩させたんじゃない」
俺は首を振った。
「譲歩したように見えて、あの男も得をしている。だから成立した。一方が負ける取引は、どんなに巧妙でも長続きしない」
イザベラは、顔を上げて俺を見た。その目には、驚きと、戸惑いと、そして——怯えにも似た何かが混じっていた。
「あなた、本当に乞食なの?」
「今朝まではな。今は、あんたの代理人だ」
「……」
「それと、昨日の契約を覚えているか。成功した場合の対価は、別途協議する、と」
イザベラの表情が、わずかに引き締まった。感情の波を押し込め、交渉者の顔に戻る。その切り替えの速さは、やはり只者ではない。
「ええ。いくら欲しいの」
「金はいらない」
「え?」
「代わりに、三つ要求する」
俺は指を立てた。
「一つ。ヴァレンティア家の正式な代理人として、俺を雇ってほしい。身分証を発行してもらう」
「それは……構わないけれど」
「二つ。西街道の使用料収入のうち、一割を俺の取り分とする」
「一割?」イザベラの眉が跳ねた。「銀貨二十枚よ。年間の」
「交渉を成立させたのは俺だ。成果に応じた報酬を求めるのは、不当か?」
「……いいえ」
彼女は少し考え、それから首を振った。
「不当ではないわ。むしろ、安すぎるくらい。あなたがいなければ、収入そのものが存在しなかったのだから」
この辺りの判断の速さが、イザベラという女の優れた部分だった。感情で値切らず、生み出された価値で測る。前世でも、こういう相手とは仕事がやりやすかった。
「それで、三つ目は」
「屋敷に部屋をもらう。それと、まともな食事を」
短い沈黙。
それから、イザベラは——初めて、声を上げて笑った。
「……そんなこと? 金貨百枚を要求されるかと思ったわ」
「俺にとっては、同じくらい重要だ」
冗談ではなかった。
この体には、まだ栄養が足りていない。思考力は食事と睡眠の質に直結する。頭脳が唯一の武器である以上、生活基盤の確保は投資そのものだ。
もっとも、それをわざわざ説明する気はなかった。相手に自分の内側を全部見せる交渉者は、三流だ。
「いいわ。全部、呑みましょう」
イザベラは、手を差し出した。
「でも、一つだけ条件を付けさせて」
「言ってみろ」
「あなたは、もうこの家の人間よ。だから——出ていくときは、必ず私に言いなさい」
予想外の言葉だった。
条件というより、それは。
「……それは、契約として成立しないぞ。履行を測定できない」
「黙って握りなさい、理屈屋」
イザベラは、少しだけ頬を赤くして、怒ったような顔でそう言った。
俺は、その手を握った。
【契約】が成立しました
契約内容:ヴァレンティア家代理人としての雇用
西街道使用料収入の一割を報酬とする
居室および食事の提供
(補足条項:離別時の事前通告)
契約者:九条蓮司/イザベラ・フォン・ヴァレンティア
【契約】第二段階が解禁されました
《条件付き契約》
契約期間中、相手方の能力・資産・権限の一部を借り受けることが可能になります
(……来たか)
視界に浮かんだ新しい文字を、俺は静かに見つめた。
積み上げた信用が、できることの幅を広げていく。グラントとの大型契約と、イザベラとの継続的な雇用契約。その二つが、確かに俺の"格"を一段押し上げたのだ。
剣も魔法も持たない。レベルもステータスも上がらない。
だが、俺の武器は、間違いなく育っている。
「レンジ」
イザベラが、少し改まった口調で呼んだ。
「明日から、やってもらいたいことがあるの」
「仕事か」
「ええ。ただ……少し、気が重い話なのだけれど」
彼女は、どこか言いにくそうに視線を逸らした。
「西街道の整備には、人手がいるわ。でも、この街の労働者はどこも手一杯で、まともな人員はもう雇えない」
「それで?」
「——奴隷市場に、行ってもらうことになるわ」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
この世界に奴隷制度が存在することは、知識としては理解していた。だが、実際に自分がその場に足を踏み入れることになるとは、考えていなかった。
「気が進まないのは分かるわ。私だって、好きでやっているわけではない。でも、この国では合法で、そして——」
「行こう」
俺は、イザベラの言葉を遮った。
「ただし、俺のやり方でやる」
「やり方?」
「見ていればいい」
窓の外に目をやると、傾き始めた陽が、街の屋根を赤く染めていた。
人を"買う"という行為。
だが、俺のスキルは、支配ではなく——対等な契約を結ぶための力だ。
ならば、使い道は一つしかない。
(第七話につづく)




