↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/7

第五話 曖昧という名の刃

 グラント商会の本店は、商業区の一等地に、これ見よがしに構えられていた。


 磨き上げられた大理石の床、天井から吊るされた魔道具の照明。扱っている商品の質よりも、「我々は成功している」という事実を見せつけるための内装だ。


(成金の典型だな)


 俺は前世で、この手の建物を数えきれないほど見てきた。そして、こういう場所に本社を構える企業ほど、財務の中身が脆いことも知っていた。


「おい、乞食。どこから入った」


 入口の警備員が、俺の襟首を掴もうと手を伸ばす。俺はそれを半歩下がってかわし、懐から借用書を取り出した。


「ヴァレンティア家の代理人だ。この借用書について、グラント殿と話がある」


「代理人だと? その格好で?」


「代理人の資格に、服装の規定があるとは聞いていないが。それとも、グラント商会では契約の中身より着ているものを重視するのか? 商業ギルドに報告しておこう」


 警備員の動きが、ぴたりと止まった。


 商業ギルド。この世界の商取引を管轄する組織の名前は、昨夜のうちにエルドンから聞き出してあった。この手の権威は、使い方さえ間違えなければ、身一つの人間にとって最高の武器になる。


 しばらくして、奥から現れたグラントは、俺の顔を見るなり鼻を鳴らした。


「ああ、昨日の使用人か。イザベラ嬢も落ちぶれたものだ。乞食を使いに寄越すとはな」


「落ちぶれているからこそ、俺のような人間を雇える。コストが安い」


 俺が真顔で返すと、グラントは一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから、腹を揺すって笑った。


「面白い男だ。いいだろう、話だけは聞いてやる」


 応接室に通された俺は、勧められた椅子に座らず、立ったまま借用書をテーブルに広げた。


「この契約書、第七条について確認したい」


「ほう」


「『支払期日は、融資実行の日より起算して三十月とする』——この"起算して"という文言だ。融資実行日を含むのか、翌日からか。この契約書には、どこにも書かれていない」


 グラントの表情から、笑みがわずかに引いた。


「……それがどうした。商慣習では、当日を含めるのが常識だ」


「どの商慣習だ? 王都商人組合の規約では当日不算入。南方交易組合では当日算入。この二つは併存していて、どちらが優先するかは明記されていない。違うか?」


 これも、昨夜のうちに仕入れた情報だった。エルドンは、かつてヴァレンティア家が商取引に関わっていた頃の記録を、まだ屋敷の書庫に保管していた。


 グラントは答えなかった。だが、こめかみに汗が浮かんでいる。


「つまり、この契約書の期日は——定まっていない」


「屁理屈だ」


「屁理屈で結構。だが、商業ギルドの仲裁廷に持ち込めば、こうなる。契約文言に複数の解釈が成り立つ場合、その不利益は、契約書を作成した側が負う」


 俺はそこで、初めて椅子に腰を下ろした。相手より低い位置に座ることで、わざと威圧感を削ぐ。こちらに余裕があると見せるには、態度を大きくするより、むしろ逆が効く。


「この借用書を作ったのは、あなただ。グラント殿」


 長い沈黙が落ちた。


 グラントは、テーブルに広げられた借用書を睨みつけ、それから、ゆっくりと俺に視線を移した。先ほどまでの、乞食を見下す目ではない。警戒する、商人の目だった。


「……お前、何者だ」


「ヴァレンティア家の代理人だと言ったはずだ」


「ふざけるな。そんな理屈を並べる乞食が、どこの世界にいる」


「ここにいる」


 俺は短く答えた。素性を説明する義理はないし、説明したところで信じられるはずもない。


「それで」グラントは、声を低くした。「ギルドに訴え出るつもりか」


「いや」


 俺は首を振った。ここからが本題だ。


「訴え出れば、あなたは契約書の不備を指摘され、ヴァレンティア家への請求は大幅に減額される。だが、俺にとってそれは最善じゃない」


「……なんだと?」


「裁定には時間がかかる。半年、下手をすれば一年。その間、ヴァレンティア家は何も動けない。それでは困る」


 グラントの眉が、訝しげに寄せられた。


「ならば、何が望みだ」


「あなたが本当に欲しいものを、正式な契約で手に入れればいい」


 俺は、懐からもう一枚の書類を取り出した。昨夜、エルドンに探させた、ヴァレンティア家の所領に関する古い権利証だ。


「西街道の通行権。ヴァレンティア家の領地を通る、南方との交易路。あなたが屋敷ごと差し押さえようとしていたのは、金のためじゃない。これが目的だ」


 グラントの顔から、完全に表情が消えた。


 図星だ、と俺は確信した。


「あの街道を使えば、南方交易の輸送期間を三割短縮できる。そこに自分の商会の荷を優先的に通せるようになれば、他の商会に対する決定的な優位になる。違うか」


「……どこまで調べた」


「必要な分だけだ」


 実のところ、ここまでは半分が推測だった。だが、相手の反応がすべてを教えてくれた。交渉において、相手の沈黙は、どんな書類よりも雄弁な情報源になる。


 視界の端に、文字が浮かんだ。


【契約】新たな提案条件を構築できます

対象:グラント

検出:相手の真の目的を特定しました

   互恵的条件の提示により、契約締結の可能性が大幅に上昇しています


(ここだ)


「提案がある」


 俺は身を乗り出した。


「債務は、現行の半額に減額。返済期限は五年に延長。利率は年一割まで引き下げる」


「馬鹿を言うな。何の見返りもなく、そんな——」


「西街道の通行権を、グラント商会に十年間、優先使用させる」


 グラントの言葉が、途中で止まった。


「ただし、所有権は譲渡しない。あくまで使用権の貸与だ。そして——通行量に応じた使用料を、ヴァレンティア家に支払ってもらう」


「……使用料、だと」


「輸送一回あたり銀貨二枚。年間の輸送回数を考えれば、あなたにとっては端金だ。だが、ヴァレンティア家にとっては、安定した収入になる」


 俺は、グラントの目をまっすぐに見据えた。


「あなたは、欲しかったものを合法的に手に入れる。しかも、屋敷を差し押さえて恨みを買うこともなく、ギルドに不正を疑われることもない。ヴァレンティア家は、債務を減らし、収入を得る」


「……」


「対等な取引だ。どちらも、何かを失わない」


 グラントは、長い間、何も言わなかった。


 やがて、彼は深く椅子に身を沈め、天井を仰いだ。


「……三十年、商売をやってきた」


 その声には、先ほどまでの傲慢さはなかった。


「その間、交渉のテーブルで、こんな気分にさせられたのは初めてだ。追い詰めたはずの相手に、気がついたらこちらが選ばされている」


「選択肢を示しただけだ。選ぶのは、あなただ」


「ふん。……それが一番たちが悪いと、分かっていて言っているだろう」


 グラントは、苦々しく笑った。そして、手を差し出した。


「乗ろう。その条件で」


 握り返した瞬間、視界が白く輝いた。


【契約】が成立しました

契約内容:債務半減・期限五年延長・利率年一割

     西街道通行権の十年優先使用(使用料:輸送一回につき銀貨二枚)

契約者:九条蓮司(レンジ)/グラント

規模判定:大型契約(商会間取引相当)

【契約】信用度が大幅に上昇しました

    新たな契約形態が解禁されつつあります


 全身を駆け巡る熱は、イザベラとの契約の比ではなかった。


 まるで、使われていなかった器官が、初めて動き出したような感覚。


(成長している……契約そのものが)


 力ではない。腕力でも、魔力でもない。


 交わした契約の規模と質が、そのまま俺自身の"格"を押し上げていく。


 それが、この世界で俺に与えられた、たった一つの道だった。


「おい、乞食」


 帰り際、グラントが背中に声をかけてきた。


「名前は」


「レンジだ」


「レンジ、か。覚えておこう」


 グラントは、不本意そうに、しかしどこか面白がるように鼻を鳴らした。


「次に会うときは、敵でないことを祈るよ」

(第六話につづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。