第五話 曖昧という名の刃
グラント商会の本店は、商業区の一等地に、これ見よがしに構えられていた。
磨き上げられた大理石の床、天井から吊るされた魔道具の照明。扱っている商品の質よりも、「我々は成功している」という事実を見せつけるための内装だ。
(成金の典型だな)
俺は前世で、この手の建物を数えきれないほど見てきた。そして、こういう場所に本社を構える企業ほど、財務の中身が脆いことも知っていた。
「おい、乞食。どこから入った」
入口の警備員が、俺の襟首を掴もうと手を伸ばす。俺はそれを半歩下がってかわし、懐から借用書を取り出した。
「ヴァレンティア家の代理人だ。この借用書について、グラント殿と話がある」
「代理人だと? その格好で?」
「代理人の資格に、服装の規定があるとは聞いていないが。それとも、グラント商会では契約の中身より着ているものを重視するのか? 商業ギルドに報告しておこう」
警備員の動きが、ぴたりと止まった。
商業ギルド。この世界の商取引を管轄する組織の名前は、昨夜のうちにエルドンから聞き出してあった。この手の権威は、使い方さえ間違えなければ、身一つの人間にとって最高の武器になる。
しばらくして、奥から現れたグラントは、俺の顔を見るなり鼻を鳴らした。
「ああ、昨日の使用人か。イザベラ嬢も落ちぶれたものだ。乞食を使いに寄越すとはな」
「落ちぶれているからこそ、俺のような人間を雇える。コストが安い」
俺が真顔で返すと、グラントは一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから、腹を揺すって笑った。
「面白い男だ。いいだろう、話だけは聞いてやる」
応接室に通された俺は、勧められた椅子に座らず、立ったまま借用書をテーブルに広げた。
「この契約書、第七条について確認したい」
「ほう」
「『支払期日は、融資実行の日より起算して三十月とする』——この"起算して"という文言だ。融資実行日を含むのか、翌日からか。この契約書には、どこにも書かれていない」
グラントの表情から、笑みがわずかに引いた。
「……それがどうした。商慣習では、当日を含めるのが常識だ」
「どの商慣習だ? 王都商人組合の規約では当日不算入。南方交易組合では当日算入。この二つは併存していて、どちらが優先するかは明記されていない。違うか?」
これも、昨夜のうちに仕入れた情報だった。エルドンは、かつてヴァレンティア家が商取引に関わっていた頃の記録を、まだ屋敷の書庫に保管していた。
グラントは答えなかった。だが、こめかみに汗が浮かんでいる。
「つまり、この契約書の期日は——定まっていない」
「屁理屈だ」
「屁理屈で結構。だが、商業ギルドの仲裁廷に持ち込めば、こうなる。契約文言に複数の解釈が成り立つ場合、その不利益は、契約書を作成した側が負う」
俺はそこで、初めて椅子に腰を下ろした。相手より低い位置に座ることで、わざと威圧感を削ぐ。こちらに余裕があると見せるには、態度を大きくするより、むしろ逆が効く。
「この借用書を作ったのは、あなただ。グラント殿」
長い沈黙が落ちた。
グラントは、テーブルに広げられた借用書を睨みつけ、それから、ゆっくりと俺に視線を移した。先ほどまでの、乞食を見下す目ではない。警戒する、商人の目だった。
「……お前、何者だ」
「ヴァレンティア家の代理人だと言ったはずだ」
「ふざけるな。そんな理屈を並べる乞食が、どこの世界にいる」
「ここにいる」
俺は短く答えた。素性を説明する義理はないし、説明したところで信じられるはずもない。
「それで」グラントは、声を低くした。「ギルドに訴え出るつもりか」
「いや」
俺は首を振った。ここからが本題だ。
「訴え出れば、あなたは契約書の不備を指摘され、ヴァレンティア家への請求は大幅に減額される。だが、俺にとってそれは最善じゃない」
「……なんだと?」
「裁定には時間がかかる。半年、下手をすれば一年。その間、ヴァレンティア家は何も動けない。それでは困る」
グラントの眉が、訝しげに寄せられた。
「ならば、何が望みだ」
「あなたが本当に欲しいものを、正式な契約で手に入れればいい」
俺は、懐からもう一枚の書類を取り出した。昨夜、エルドンに探させた、ヴァレンティア家の所領に関する古い権利証だ。
「西街道の通行権。ヴァレンティア家の領地を通る、南方との交易路。あなたが屋敷ごと差し押さえようとしていたのは、金のためじゃない。これが目的だ」
グラントの顔から、完全に表情が消えた。
図星だ、と俺は確信した。
「あの街道を使えば、南方交易の輸送期間を三割短縮できる。そこに自分の商会の荷を優先的に通せるようになれば、他の商会に対する決定的な優位になる。違うか」
「……どこまで調べた」
「必要な分だけだ」
実のところ、ここまでは半分が推測だった。だが、相手の反応がすべてを教えてくれた。交渉において、相手の沈黙は、どんな書類よりも雄弁な情報源になる。
視界の端に、文字が浮かんだ。
【契約】新たな提案条件を構築できます
対象:グラント
検出:相手の真の目的を特定しました
互恵的条件の提示により、契約締結の可能性が大幅に上昇しています
(ここだ)
「提案がある」
俺は身を乗り出した。
「債務は、現行の半額に減額。返済期限は五年に延長。利率は年一割まで引き下げる」
「馬鹿を言うな。何の見返りもなく、そんな——」
「西街道の通行権を、グラント商会に十年間、優先使用させる」
グラントの言葉が、途中で止まった。
「ただし、所有権は譲渡しない。あくまで使用権の貸与だ。そして——通行量に応じた使用料を、ヴァレンティア家に支払ってもらう」
「……使用料、だと」
「輸送一回あたり銀貨二枚。年間の輸送回数を考えれば、あなたにとっては端金だ。だが、ヴァレンティア家にとっては、安定した収入になる」
俺は、グラントの目をまっすぐに見据えた。
「あなたは、欲しかったものを合法的に手に入れる。しかも、屋敷を差し押さえて恨みを買うこともなく、ギルドに不正を疑われることもない。ヴァレンティア家は、債務を減らし、収入を得る」
「……」
「対等な取引だ。どちらも、何かを失わない」
グラントは、長い間、何も言わなかった。
やがて、彼は深く椅子に身を沈め、天井を仰いだ。
「……三十年、商売をやってきた」
その声には、先ほどまでの傲慢さはなかった。
「その間、交渉のテーブルで、こんな気分にさせられたのは初めてだ。追い詰めたはずの相手に、気がついたらこちらが選ばされている」
「選択肢を示しただけだ。選ぶのは、あなただ」
「ふん。……それが一番たちが悪いと、分かっていて言っているだろう」
グラントは、苦々しく笑った。そして、手を差し出した。
「乗ろう。その条件で」
握り返した瞬間、視界が白く輝いた。
【契約】が成立しました
契約内容:債務半減・期限五年延長・利率年一割
西街道通行権の十年優先使用(使用料:輸送一回につき銀貨二枚)
契約者:九条蓮司/グラント
規模判定:大型契約(商会間取引相当)
【契約】信用度が大幅に上昇しました
新たな契約形態が解禁されつつあります
全身を駆け巡る熱は、イザベラとの契約の比ではなかった。
まるで、使われていなかった器官が、初めて動き出したような感覚。
(成長している……契約そのものが)
力ではない。腕力でも、魔力でもない。
交わした契約の規模と質が、そのまま俺自身の"格"を押し上げていく。
それが、この世界で俺に与えられた、たった一つの道だった。
「おい、乞食」
帰り際、グラントが背中に声をかけてきた。
「名前は」
「レンジだ」
「レンジ、か。覚えておこう」
グラントは、不本意そうに、しかしどこか面白がるように鼻を鳴らした。
「次に会うときは、敵でないことを祈るよ」
(第六話につづく)




