第七話 売れ残りの剣
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奴隷市場は、思っていたよりも静かだった。
怒号や悲鳴が飛び交う地獄のような光景を、俺はどこかで想像していた。だが実際にそこにあったのは、整然と並んだ檻と、値札と、台帳をめくる商人の事務的な声だった。
人が、商品として適切に管理されている。
その静けさこそが、何よりも気分の悪いものだった。
(……合法、か)
イザベラは「この国では合法だ」と言った。確かにそうなのだろう。前世の世界にも、法の内側で人を使い潰す仕組みは、いくらでもあった。俺はその仕組みの中で、むしろ有利な側に立って生きてきた人間だ。
だから、憤る資格はない。
ただ——使い方を選ぶ資格はある。
「お客様、どのような人員をお探しですかな」
揉み手をしながら近づいてきたのは、小太りの奴隷商だった。ヴァレンティア家の紋章入りの身分証を見せた途端、態度が変わったのが分かる。昨日イザベラに発行させた、あの代理人証だ。
(やはり、紙一枚で世界の見え方が変わる)
「街道整備の労働力だ。十五人ほど」
「それはそれは。ちょうど良い出物がございます。体力自慢の男衆が——」
商人の説明を聞き流しながら、俺は市場の奥へと目を向けていた。
そこで、妙なものを見た。
檻の一つが、内側から激しく揺れている。
「おい、暴れるな! 大人しくしろ!」
鞭を持った男が三人がかりで押さえ込もうとしているのは、一人の少女だった。
年の頃は十八ほど。短く切った赤茶の髪が汗で額に張り付き、両腕を縛られているにもかかわらず、彼女は全身を使って抵抗していた。片足で男の脛を蹴り上げ、頭突きで別の一人を怯ませ、それでも膝をつかない。
「離せ! あたしは奴隷じゃない! 借金は返す、必ず返すって言ってるだろ!」
「返せなかったから、ここにいるんだよ!」
鞭が、彼女の肩口を打った。
少女は小さく息を呑んだが、悲鳴は上げなかった。代わりに、睨みつけた。
その目を見て、俺は足を止めた。
(折れていない)
屈服した者の目ではない。打たれ慣れて鈍くなった目でもない。まだ、自分の立場を受け入れていない人間の目だった。
「あれは?」
「ああ、お恥ずかしいところを。あれはお勧めできません」
奴隷商は、苦い顔で手を振った。
「リーシャという娘でして、腕は立つのですよ。元は傭兵崩れで、剣の心得もある。ですが、この通り気性が荒い。三度売って、三度返品されました。買い手に食ってかかるのです」
「食ってかかる?」
「『契約と違う』と。労働条件が約束と違うだの、報酬の計算がおかしいだの、いちいち言い立てるのですよ。奴隷の分際で、ですぞ?」
(……ほう)
俺の中で、何かが小さく音を立てた。
「値は」
「は?」
「あの娘の値だ」
商人は目を丸くし、それから慌てて台帳をめくった。
「え、ええ……銀貨八十枚ほどで引き取りましたが、三度の返品で管理費もかさんでおりまして、正直なところ、もう——」
「銀貨二十枚でどうだ」
「に、二十!? 冗談でしょう。仕入れ値の四分の一ですぞ!」
「では聞くが」
俺は、台帳を指で軽く叩いた。
「三度返品された商品を、四度目に正価で買う客が、この市場に来ると思うか?」
「……」
「あれは、既にあなたの帳簿上で不良在庫だ。置いておくだけで餌代と管理費がかかり、他の商品の前で暴れれば、市場全体の印象を悪くする。むしろ、金を払って引き取ってもらいたい側だろう」
商人の額に、汗が浮いた。
「し、しかし……」
「それと、労働力十五人の方は、こちらの提示額で買う。合わせて一括の取引だ。悪くない話のはずだが」
俺は、懐から代理人証をもう一度取り出して、見せるでもなく指先で弄んだ。ヴァレンティア家という名前が、今どれほどの力を持っているかは怪しいものだが——相手がそれを知らなければ、十分に機能する。
商人は、しばらく台帳と俺の顔を見比べていた。
「……銀貨二十五枚で、いかがです」
「二十二だ」
「……ええ、分かりました。分かりましたとも」
【契約】が成立しました
契約内容:労働力十五名の売買、ならびに個体「リーシャ」の売買(銀貨二十二枚)
契約者:九条蓮司/奴隷商ゴドー
安く買い叩いた。
人を、商品として、値切って手に入れた。
その後味の悪さを、俺は自覚していた。前世なら「良い買い物をした」で済んだ話だ。だが今、同じ感覚で処理しようとしている自分に、微かな嫌悪があった。
(まあ、いい)
気分の問題は、後で片付ければいい。今は、やるべきことがある。
縄を解かれたリーシャは、俺の前に座らされても、睨みつけるのをやめなかった。
「……あんたが、あたしの新しい主人か」
「違う」
「は?」
「俺はレンジだ。ヴァレンティア家の代理人をしている」
俺は、彼女の正面に腰を下ろした。立ったまま見下ろすのをやめたのは、計算でもあり、そうしたかったからでもある。
「リーシャ、確認したいことがある。あんたは三度、買い手に食ってかかったそうだな」
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
「……それがどうした。文句があるなら殴れよ。慣れてる」
「殴らない。理由を聞きたいだけだ」
「……」
「『契約と違う』と言ったそうだな。何が、どう違った」
リーシャは、訝しげに眉を寄せた。殴られる覚悟をしていた人間が、代わりに質問を向けられて戸惑っている顔だった。
「……一人目は、『三年働いたら解放する』って言った。でも三年目に、『勤務態度が悪かったから五年に延ばす』って言い出した。そんな条項、最初の話には無かった」
「二人目は」
「食事と寝床は出すって話だった。けど出されたのは残飯と、馬小屋の隅。……まあ、それは我慢した。けど、同じ条件で働いてる男の奴隷には、ちゃんと飯が出てたんだ。同じ約束で、同じ仕事で、扱いが違うのはおかしいだろ」
「三人目は」
「報酬の計算だよ。日当から『道具の損料』って名目で、毎日少しずつ引かれてた。道具は向こうが用意するって約束だったのに」
彼女は一気に喋り、それから、ばつが悪そうに口を噤んだ。
「……うるさい奴隷だって、分かってる。黙ってればいいんだよな。借金を作ったあたしが悪いんだ。親父が死んで、治療費と葬式代が払えなくて、それで——」
「リーシャ」
俺は、彼女の言葉を遮った。
「あんたは、三回とも正しい」
リーシャの目が、見開かれた。
「……は?」
「一人目は契約条項の事後変更。二人目は約束された待遇の不履行、および不当な差別的取扱い。三人目は約定外の控除。どれも、まともな契約の世界では、文句を言われる側に非がある」
「……なに、言ってんだ、あんた」
「あんたに足りなかったのは、主張の正しさじゃない。主張を通すための立場だ」
俺は立ち上がり、手を差し出した。
「だから、立場を作る。——契約を結ぼう、リーシャ」
「契約って……何言ってんだよ。あたしは買われた奴隷だぞ。契約なんて——」
「できる。ここに、あんたの奴隷証がある」
俺は、奴隷商から受け取った羊皮紙を取り出した。
「これを、今この場で破棄する。あんたは自由民に戻る。その上で、改めて雇用契約を結ぶ」
リーシャの顔から、血の気が引いた。
「……待て。待てよ。銀貨二十二枚だろ。あんた、それをドブに捨てるってのか?」
「捨てない。回収する」
俺は、きっぱりと言った。
「雇用契約の条件はこうだ。西街道整備の現場監督を務めてもらう。日当は銀貨一枚。そこから毎日、銅貨五十枚を、俺への返済に充ててもらう。……ああ、言っておくが、これは利息なしだ」
「げ、現場監督? あたしが?」
「あんたは三度、不当な労働条件を見抜いた。しかも、金勘定の誤差にも気づいている。報酬の控除に気づける人間は、思っているより少ないぞ」
俺は、檻の方を振り返った。先ほど買い付けた十五人が、不安げに身を寄せ合っている。
「あの十五人を、まともな条件で働かせる責任者が必要だ。どんな待遇が不当なのか、身に染みて分かっている人間がいい。——適任だと思うが」
リーシャは、口を半分開けたまま、固まっていた。
それから、震える声で言った。
「……なんで」
「言ったはずだ。回収すると」
「違う。なんで、そんな……あたしを、奴隷のままにしておけば、タダで働かせられるじゃないか。縛っておけば、逃げないし、文句も言わせなくて済む」
「それでは、使えない」
俺は首を振った。
「縛られた人間は、言われたことしかやらない。間違いを見つけても黙っている。報告してこない。……俺が欲しいのは、おかしいと思ったら俺にまで食ってかかってくる現場監督だ」
沈黙が落ちた。
リーシャは、俯いた。肩が震えていた。
やがて、彼女は乱暴に袖で顔を拭い、顔を上げた。目は赤かったが、そこにはもう、怯えも諦めもなかった。
「……条件、一つ追加してもいいか」
「言ってみろ」
「あたしが間違ってたときは、ちゃんと言ってくれ。奴隷扱いされるのは慣れてるけど、お飾りにされるのは、嫌だ」
(……ああ)
俺は、思わず笑ってしまった。
この娘は、自分が今もらったものの価値を、正確に理解している。自由ではなく、対等。それが本当に欲しかったものだと、分かっている。
「いいだろう。契約に含める」
俺は、奴隷証を両手で裂いた。乾いた音が、市場の静けさに短く響いた。
そして、改めて手を差し出す。
リーシャは、まだ縄の跡が赤く残る手で、それを強く握り返した。
【契約】が成立しました
契約内容:西街道整備現場監督としての雇用
日当銀貨一枚、うち銅貨五十枚を債務返済に充当(無利息)
付帯条項:被雇用者の異議申立権、ならびに雇用者の誠実回答義務
契約者:九条蓮司/リーシャ
【契約】第二段階《条件付き契約》が初めて適用可能になりました
契約期間中、相手方の能力の一部を借り受けることが可能です
貸与可能:剣技
(……これが、第二段階か)
握り合った手から、熱が流れ込んでくる感覚があった。
同時に、俺の身体の中に、今まで無かった"筋"が通ったのが分かる。剣を握ったことのない手が、握り方を知っている。踏み込む足が、間合いを覚えている。
リーシャの剣技。それが、契約を通じて、確かに俺の中に流れ込んでいた。
(力を奪うのではなく、借りる。契約が続く限り、対等に)
俺は、自分の右手を見下ろした。
剣も魔法も与えられなかった男が、今、他人の力を借りて立っている。
それは、乞食として目覚めたあの日から、何一つ変わっていない方法論だった。
一人では、何も持たない。
だが、対等な相手がいれば——いくらでも強くなれる。
「レンジ」
リーシャが、握ったままの手を振って言った。
「よろしく頼む。……あと、腹減った」
「……まず、飯だな」
俺たちは、市場を後にした。
西に傾いた陽が、二人の影を、長く石畳に伸ばしていた。
(第八話につづく)




