3 予兆
二階堂左近が咲坂伶那のクリニックを訪れたのは、翌々日の夜のことだった。
「……あれ、今日って何かあったっけ?」
まだクリニックに残って電子カルテに向かっていた伶那は、二階堂に気付くと首を傾げた。
伶那のクリニックは特捜の外部機関としての顔も持っている。その関係で二階堂が出入りすることもあったし、
「螺旋の強制休養は、今のところ室長さんの手を借りなくても大丈夫だし」
生活すらも魔力で回す螺旋の魔力回路に、伶那が姉弟子である深森夕鷹として魔力的な楔を打ち、 秘密裏に――本人にも気付かれないように――休養させる、というそこそこグレーな案件でも、二階堂は共犯者としてここに出入りしていた。
「……いやぁ? 別に何もなかった、かなぁ」
「……何しに来たのよ室長さん」
「……判んない」
「はあ?」
「……あれー、何しに来たんだろう?」
「…………」
伶那は半眼で腕を組み、二階堂を観察する。
「……コーヒー飲む?」
「……あー、うん」
返事を聞いてからため息を吐いて立ち上がると、
「……その辺に座れば」
素っ気なく言って窓際の棚のコーヒーメーカーに向かう。
使い捨てのカップを二つ取ってコーヒーを注いでいると、
「……センセ、僕、失恋したかも~」
二階堂の気の抜けたような声が聞こえた。
「……あっそ」
「……センセ相変わらず酷くない!?」
「知らないわよ、それでどうしてうちに来るのよ」
「……うーん、どうしてだろう」
「はぁ……コーヒー飲んだら帰ってよね、あたしも忙しいんだから」
盛大なため息を吐きながら、まず自分のデスクにカップを一つ置いて、それから二階堂にもう片方を雑に差し出す。
「……はーい、サンキュ」
二階堂は大人しく返事をして、カップを受け取った。
「……ま、高瀬くんだから仕方ないよね」
「ああ、そっか、やっぱり高瀬くんなのか」
電子カルテに向き直った伶那は、言葉だけ二階堂の方に投げる。
「うん」
「まあ高瀬くんなら、室長さんより誠実だし、真面目だし、何より胡散臭くないし」
「……センセ、傷口に塩を塗らないでくれるかなあ!」
「事実でしょ」
「それはそうだけどさあ! もっとこう……いいや、ま、螺旋ちゃんが幸せなら、それで充分か」
「…………」
伶那はちらりと二階堂を窺った。カップを口に運びながら、どこか気の抜けた表情を浮かべている。それはどことなく――荷を下ろしたようにも見えた。
「……相変わらず重いわね」
「? センセ何か言った?」
「何も言ってないわ。飲んだらさっさと帰ってよね」
「はあい」
二階堂は時間をかけてコーヒーを飲むと、静かに去っていった。
* * *
螺旋が魔捜に復帰し、それほど時間を置かずに、高瀬と彼女の関係性が変化していることがバレた。二人とも何となく隠していたはずなのに、即バレだった。
「ふふふー」
結崎つづりがにやにやと二人を見比べる。
「お似合いだねぇ」
黒峰準までそれに乗っかり、
「ですよねー!」
つづりが応じて、黒峰とともに盛り上がり始める。
「…………」
螺旋は少しだけ困ったような顔をしてから、どうすれば良いのか判らない、といった様子で静かにデスクトップ端末に目線を戻す。室長代行の任から解放されたはずの春日井伽羅は、螺旋に論文をいくつか書かせるためにまだこちらに残っていた。螺旋のデスクの隣でにこやかに論文の進捗を見守っている。
「…………」
高瀬もどうして良いのか判らず、書類の整理をしているふりをした。
――何故。
表面上のやり取りは何も変わっていないはずだった。少なくとも業務上においては、呼び方も変わらないし接し方も変わっていない――はずだった。
それは螺旋にとっても同様だったようで、何度かやり取りを重ねたメッセージアプリにはその話題がぽつぽつと連なっていた。
「…………」
螺旋は無言で――ただほんの僅かに頬が赤い気がする。しかしそれは、その髪が漆黒から白銀へと変化したことで、元々の血色が目立って見えるだけかもしれない。あまり顔色が良くないことは変わらないが、黒髪に縁取られているか銀髪に縁取られているかで印象は変わるものである――端末に論文を打ち込み続けている。その速度は目を見張るものがあった。既に二本の論文は完成しているらしい。
「羽佐間さん、こんなに短時間で素晴らしい論文が書けるのに、これまで最低限にも足りない程度しか発表されてないの、どうしてです?」
あくまで純粋な好奇心と言った調子で、春日井が茶化した。
「……必要性を感じませんでした」
タイピングする指先を止めないまま、感情の乗らない声で螺旋は答えた。
「……なるほど」
春日井はあくまでにこやかだ。
「……春日井さん、そろそろ羽佐間さんに休憩を……」
高瀬がおずおずと切り出す。
「ああ、もうお昼ですね。羽佐間さん、高瀬さんもああ仰ってるので、一休みします?」
高瀬さんも、という部分に、何らかの意図を感じた。
螺旋はぴたりと指を止める。それからゆっくりと、視線を高瀬に向けた。目が合った。
「…………」
「…………」
「いやもう、何なんですかー、その視線だけで何か会話してる感じはっ!」
つづりが嬉しそうに言って、
「……いえ、特に会話はしていません」
螺旋は律儀に訂正する。高瀬は思わず机に突っ伏したい気分だった。
彼女にとっては――意図的にそういう感情を避けてきた、という螺旋にとってはどうなのか判然としないが、高瀬は別にこれが初めての恋愛ではない。ただ、だからこそと言うべきなのか、螺旋が相手となるとこれまでの常識や一般論は当てはまらないことを実感していた。どう振る舞って良いものか判らない。
――七年。
彼女の命にその制約があることもまた、大きいのだろう。だからこそ一日も無駄にしたくないところだが、そのプレッシャーを感じてもいるのかもしれない。
それほど――彼女を大切に思っている、ということか。
あれから毎日のように紗雪に呆れられ、からかわれ、何となく哀れまれている理由を高瀬はおぼろげに理解した。なるほど、ある意味では紗雪の言う通り――ポンコツだ。ただそれは仕方ない、と心の中で弁明もする。何しろ相手は――羽佐間螺旋である。
ただの上司のはずだった。しかも警視でありながら最強魔術師という変わり者の中の変わり者だ。なのに――気付けばかけがえのない存在になっていた。螺旋が目を覚まさなかったあの十日間、高瀬は生きた心地がしなかった。
そして、七年。残された時間は、最長で七年である。
――ポンコツを発揮している場合ではないのだろう。高瀬は改めて覚悟を決めた。
「羽佐間さん、昼飯行きましょう。咲坂さんからも言いつかってるんで、って視線だったつもりです、自分は」
「…………?」
螺旋はワンテンポ遅れた。それから、それがつづりが入れた茶々に対しての高瀬の返答だと思い至ったらしく、
「……高瀬さん」
少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「おおっ、高瀬さんが攻めた!」
つづりが目を輝かせる。黒峰と春日井も明らかに面白がっていた。
「……で、頼みますから皆さんもからかわないで下さい」
「……はぁい」
「はぁい」
つづりたちは楽しそうに返事をする。
「……昼食、は」
螺旋が困ったのは、食事を摂らねばならないらしい、という点だったようだ。
「食べます。でないと俺が咲坂さんにシメられます」
「……高瀬さんが、伶那さんに……」
「はい」
「……それは……」
螺旋は少しの間迷っていた。
「……ならば、行きます」
「おおおっ」
外野から歓声が上がる。高瀬はさっと外野を睨んでから立ち上がった。
「行きますよ、羽佐間さん」
「……はい」
螺旋も静かに立ち上がった。
「つづりちゃん、春日井くん、僕らもどっかに出ようか?」
「いいですね!」
「行きましょう!」
黒峰たちも立ち上がる。その場で盛り上がるであろう話題には、もう心当たりしかない。まあそれは仕方ないな、と苦笑して、高瀬は螺旋と、そして外野の三人は三人でそれぞれ連れ立って、昼食を摂るために二・五階を出た。




