第7話 「忘れられた村人A」
翌朝、鬼ヶ島の広場に向かった会議室のメンバーを待っていたのは、かつてないほどに冷え切った「静寂」だった。
「あ、創作者の皆さん。おはようございます」
切り株に腰掛け、トマトではなく、ただの大きな棍棒を事務的に磨いていた青鬼が、妙に丁寧な、しかし完全に他人の声音で顔を上げた。
「……青鬼さん? あの、トマトの苗は……」
カレシが恐る恐る尋ねるが、青鬼は怪訝そうに眉をひそめるだけだった。
「トマト? 何のことです? 我々はプロット通り、桃太郎に退治された鬼ですから。役割は終わりました。皆さんも、次のセクターへ移動されるのでしょう?」
その瞳には、あの瑞々しい桃を食べて顔を赤らめていた「生身の優しさ」は微塵も残っていなかった。
少し離れた場所では、桃太郎が一人、無表情に刀を布で拭っている。
「あ、どうも」
雇い主と目が合うと、桃太郎は口元だけを器用に吊り上げ、営業スマイルのような笑顔を作ってみせた。それは、数日前にカノジョのレジャーシートで見せた「むき出しの少年」の顔とは程遠い、お面のように貼り付いた“主役の表情”だった。
「……消されてる。本当に、全部なかったことにされてるんだ」
カレシが唇を噛み締める。
犬も、猿も、雉も、昨日までの愚痴をすべて忘れ、ただプロット通りに配置された「めでたしめでたし」の記号としてそこに佇んでいた。
心を通わせ、確かに創り上げたはずの真実が、世界というシステムによって無慈悲にリセットされた現実。
雇い主は、広場の端にぽつんと置かれた段ボールカメラを見つめたまま、動けずにいた。
そんな絶望が広場を支配する中、大盾を背負った隊長だけは、一人で鬼たちの畑へと足を運んでいた。
「ぬ、ぬうううう……ッ!」
隊長は顔を真っ赤にし、血管を浮き上がらせながら、地面に転がる巨大な堆肥の袋を抱え上げようとしていた。しかし、袋はピクリとも動かない。
「おいおい、おっさん。力ねえなあ」
隣から呆れたような声がした。赤鬼が歩み寄ってくると、隊長が命がけで挑んでいたその巨体袋を、片手でひょいと軽々持ち上げてみせた。
「ふぅ……やはり、鬼の怪力には敵わんな」
隊長は膝に手を置き、悔しそうに、しかしどこか晴れやかな汗を拭った。
赤鬼は持ち上げた袋を荷台に放り込むと、ふう、と息をついて隊長を見た。
「つーか、なんでお前が畑仕事手伝ってんだ。ドキュメンタリーは終わったんだから、もう用はねえだろ」
「用があるからいるのではない」
隊長は、その分厚い胸板を叩いた。
「私は現場の人間だ。他のメンバーのような頭や才能はない。私にできるのは、こうして身体を張ることだけだからな。……こんな状況に、身体が黙ってられないんだよ」
赤鬼は一瞬、きょとんとした顔をした。
記憶はシステムに書き換えられ、昨日の出来事など何一つ覚えていないはずなのに、隊長のその不器用な真っ直ぐさに、胸の奥の『何か』が小さく触れたようだった。
「……ふん。変な奴だな」
赤鬼は照れくさそうに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「まあ……ここまできて、俺たちの泥仕事に付き合ってくれた創作者はお前だけだよ。ほら、次あっちの荷物運ぶぞ、腰痛めるなよ」
「よっしゃぁぁあ!」
隊長は力強く頷き、再び大きな荷物へと手をかけた。
言葉や記憶は奪われても、泥にまみれた身体の記憶だけは、世界のシステムでも完全には消し去れない。隊長の無骨な背中は、そう物語っているようだった。
そして、ただ一人、カノジョだけが、静かに広場の中心へ歩み寄っていた。彼女がこっそり水をやっていた「桃の種」の土壌。その表面で、赤黒い不気味な明滅が、昨日よりも激しく波打っていた。
カノジョは桃の種を見つめながら、小さく呟いた。
「……ねえ、これ、まだ生きてるよね」
会議室の奥。青年が端末を睨みつける。
「……そっちのログ、どうなってる」
スピーカーから返ってきた学生のツンとした声は、いつもと違って微かに震えていた。
『今、そっちのセクターの最果て、空間の境界線上に、奇妙なバグを検知しました。上書きプロトコルの網の目をすり抜けて、大量の“ゴミデータ”が急速に圧縮されていってます。……これ、人間の形をしてます。何ですかこれ、気味が悪い……』
「ゴミデータだと?」
青年が眉をひそめた、その時だった。
ザザ……ザザザッ……。
不気味なデジタルノイズ音と共に、会議室の自動ドアが勝手に開閉を繰り返した。
部屋の入り口に、それは立っていた。
衣装のテクスチャはところどころ剥がれ落ち、顔のパーツはモザイクのように激しくぼやけている。輪郭が常にバグのようにブレ続けている、名前を持たない男――。
「……あ、あ……」
男の口から、電子的に歪んだ声が漏れる。
「君は……誰だ?」青年が静かに問いかける。
『システムログを表示します』
端末を叩いたカレシの手が止まる。画面に表示されたのは、あまりにも簡素な文字列だった。
――【未識別オブジェクト:村人A】
「村人A……?」
集まってきたメンバーの前に、男は崩れ落ちるように膝をついた。顔のモザイクの隙間から、デジタルノイズの涙のような光の粒子が零れ落ちる。
「俺は……村人だった。おばあさんが桃を拾ってきた日、広場で一緒に歓声を上げるはずだった。……妻も娘もいる、ただの村人なんだ。でも、お前たちが来て、プロットが変わった。俺の出番が、消えた……」
村人Aの身体が、指先からザラザラと砂のように崩れ、虚空へ消え始めていく。
「プロットが正常終了したから……役割のない俺は、システムに“不要なゴミデータ”として認識された……。もうすぐ、完全に消去される……。俺は、ここに生きていたのに……名前も、顔も、何も残らないまま……っ」
「そんなのって……」カレシが絶望に顔を歪める。
プロット通りに動けば本音を上書きされ、プロットから少しでも外れれば、存在そのものを消去される。
これが、この美しくパッケージ化された物語世界の、あまりにも残酷な「真実」だった。
「……消させない」
その時、ずっと床を見つめていた雇い主が、静かに、しかし地を這うような声で呟いた。
雇い主は、ゆっくりと立ち上がると、広場の隅から拾い上げてきた、あの段ボールカメラを真っ直ぐに構えた。
「私の言葉は、またプロットに負けたかもしれない。
だが……今、目の前で必死に生きようとしている君の声を、ただのゴミデータとして消させはしない。
プロットのせいで、一人の人間がいた証を、なかったことにされてたまるか……!」
段ボールのレンズが、消えゆく村人Aの、ブレ続ける姿を捉える。
「プロットなんてどうでもいい」と言い放ったクリエイターの魂が、その瞳に再び激しく燃え上がっていた。
「……あ、ありがとう……」
村人Aは静かに笑った。
「……これで、誰かが俺を見てくれた。それだけで十分だ」
ザッ。
男の身体が光のノイズとなって霧散する。その瞬間——彼の立っていた床に、一枚の紙切れが落ちた。
誰も触れなかった。誰も拾わなかった。
でも、その紙切れには、確かに『0612』という数字が、かすかに記されていた。
――その時、広場から凄まじい地鳴りが響いた。
全員が外へ飛び出すと、カノジョが植えた桃の種から、禍々しい真っ黒な茎が天に向かって急速に伸び始めていた。
その根元で、地表に刻まれた『0612』の文字列が、真っ赤な血のように激しく弾け、世界全体が悲鳴を上げるように震動を始める。
【システムログ:桃太郎セクター・破滅的エラー】
現実確率:12.8%(崩壊寸前)
歪みレベル:段階5(臨界点)
――警告:コアデータ『0612』の強制開示を検知。
――世界システムによる「初期化プロトコル」が拒絶されました。
――境界線より、世界のコードそのものの崩壊が始まっています。
役割を失った世界で、私たちは何を残せるのか。
──次回予告──
「そして、物語は戻る」
黒く染まり、世界を侵食していく桃の木。
暴かれる『0612』の謎と、世界の正体。
すべてを奪われていく物語の中で、会議室のメンバーが下す「最後の決断」とは。
──第7話の『村人』Aの撮影シーンはこちら──
【物語紀行_07】―忘れられた村人A―
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