第7話(前編)「忘れられた泡の記憶」
―――海の底・人魚集落・三日後の朝―――
リラの泡が桃色に変わってから、集落は静かに、しかし確実に変わり続けていた。
最初はリラの隣にいた幼い人魚の泡だけだった。でも今では、集落の三分の一ほどの泡が、青以外の色に変わっている。
桃色。銀色。淡い緑。金色。
それぞれの色が、それぞれの想いを表すように、静かに輝いていた。
「……広がったな」
スターが、その光景を見つめながら言う。
「はい」
カレシが、うなずく。
「リラの変化が、少しずつ他の人魚たちにも伝わっています」
「でも、まだ半分は青いまま」
カノジョが、リラのそばに座りながら言った。
「変わることを怖がってるんだね。きっと」
リラは、自分の泡を見つめている。桃色の光が、彼女の指先で優しく揺れている。
彼女はもう、昔のようには泡をなぞらなかった。時々、手を止めて、自分の周りの変化を確かめるように、静かに見つめている。
その時だった。
泡守が、リラの前に現れた。
彼は、いつものように白い泡を揺らしている。でも、その光は以前より少しだけ柔らかくなっていた。
『……リラ』
彼の泡が、静かに揺れる。
『あなたの変化は、もう止められないようだ』
リラは、その白い泡を見つめた。
『私は……間違っていたのだろうか』
その泡は、以前の冷たさはなく、むしろ、困惑と懐かしさが混ざったような色をしていた。
「……間違ってなかったよ」
カノジョが、立ち上がった。
「だって、泡守さんも、その泡の色を変えようとしてる」
泡守が、驚いたように自分の泡を見る。白い光が、かすかに揺れている。
『……私は』
「変わりたいんだよ。でも、怖いだけ」
カノジョは、泡守の目を真っ直ぐ見つめた。
「私も、知ってる。怖いよね」
泡守は、何も言わなかった。でも、その白い泡が、ほんの少しだけ、桃色に変わった。
「……行こう」
カレシが、立ち上がった。
「この先に、何かがある。この世界の始まりを知っている泡が」
リラが、彼を見上げる。
「君も来るか」
リラは、うなずいた。
一行は、海の底の最深部へ向かって進んでいた。
泡守も、一緒に来ていた。彼は何も言わないが、後ろから静かに付いてきている。彼の白い泡は、時々、かすかに揺れていた。
「……ここから先は、入ったことがない」
泡守が、口を開いた。
『この先には、誰も触れてはいけない泡があると、伝えられている』
「誰も触れてはいけない泡」
カレシが、その言葉を繰り返す。
「それが、この世界の始まりかもしれない」
深く、深く進むにつれて、周囲の光が徐々に変わっていく。泡の色が、青から、銀色へ。銀色から、やがて深い藍色へ変わっていく。
その時──
「……何か、いる」
隊長が、前方を警戒するように呟いた。
暗がりの中に、かすかな光が揺れている。それは、泡の光ではなかった。もっと、生き物のように、ゆらゆらと。
「……魚だ」
博士が、端末を向ける。
「いや、違う。これは──」
その魚は、他のどの魚とも違っていた。体全体が半透明で、内部には無数の泡が渦巻いている。その目は、濁っていて、何も映していないようだった。
「……忘却魚」
泡守が、低い声で言った。
『この先に住む魚です。記憶を食べる』
「記憶を……?」
カレシが、警戒しながら一歩下がる。
『ええ。この魚に触れた者は、何かを忘れます。大切なものを』
その時──
忘却魚が、一気に近づいてきた。
「……!」
カレシが、リラを守るように前に出る。
忘却魚が、彼の腕に触れた。
その瞬間──
カレシの頭の中から、何かが消えた。
「……え?」
彼は、自分の手を見つめる。何かを覚えているはずなのに、それが何か思い出せない。
「……リラ」
彼は、その名前を呼んだ。でも──その名前が、誰の名前なのか、急に分からなくなった。
「……カレシ?」
カノジョが、彼の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「……いや」
カレシが、首を振る。
「何か、忘れた気がする。でも──何を忘れたのか、思い出せない」
彼の目が、不安そうに揺れる。
「リラ……?」
カレシが、もう一度、その名前を口にする。でも──その名前が、誰を指しているのか、彼の頭から消えかけていた。
忘却魚が、再び近づく。
「……させない」
カノジョが、前に出た。
彼女は、忘却魚の前に立つ。
「あなたは、記憶を食べるの?」
忘却魚は、答えない。ただ、その濁った目でカノジョを見つめている。
「……でもね」
カノジョは、自分の手のひらを見つめた。
「食べてもいいよ。でも──」
彼女は、微笑んだ。
「──私は、忘れないから」
忘却魚が、一瞬だけ止まった。
そして──その場から、ゆっくりと去っていった。
「……!」
泡守が、驚いたようにカノジョを見る。
『あなたは……なぜ』
「だって」
カノジョは、リラの手を握った。
「忘れたくないものは、忘れないんだよ」
リラは、何も言わなかった。でも、彼女の泡が、一層強く輝いた。
カレシは、その光景を見つめながら、何かを思い出そうとしている。
「……リラ」
彼は、もう一度、その名前を口にした。
「……君は、リラなんだな」
それは、確認のような言葉だった。




