第5話(前編)「カノジョ、泡の中に飛び込む」
―――海の底・人魚集落・リラのそば―――
黒い泡の事件から、二日が経った。
リラは再び青い泡をなぞっていた。あの日、彼女が黒い泡を出したのは、もう夢のように遠い出来事だった。でも、その記憶は確かに彼女の中に残っている。彼女の泡をなぞる指は、以前よりも少しだけ丁寧になっていた。
「……リラちゃん」
カノジョが、彼女の隣に座った。
リラが、顔を上げる。
「私、あなたの泡の中に入ってみたい」
リラは、驚いたように目を見開く。彼女の泡が、かすかに震えた。
『……中に?』
「うん。そこに、リラちゃんの本当の声がある気がするんだ」
リラは、しばらくカノジョの顔を見つめていた。そして、ゆっくりと泡をなぞった。青い泡が、カノジョの前に浮かぶ。
『……分からない。でも──』
その泡が、かすかに揺れる。
『──もし、あなたが行きたいなら』
カノジョは、微笑んだ。
「ありがとう」
彼女は、その泡に手を伸ばした。
―――泡の中・第一層―――
光が、一瞬で変わった。
そこは、海の底ではなかった。水の感触もない。ただ、どこまでも広がる青い世界だけがあった。
「……ここ、どこ?」
カノジョが、周囲を見渡す。
誰もいない。何もない。ただ、無数の泡が静かに漂っているだけ。それぞれの泡の中には、かすかな光が揺れている。
「……記憶、なんだ」
カノジョは、一つの泡に近づいた。その中には、小さなリラがいた。彼女は、誰かに何かを伝えようとしている。口を開ける。でも──声が出ない。
泡は、静かに消えた。
カノジョは、その泡を見つめながら、歩き出した。
青い世界が、徐々に形を変えていく。泡のようにゆらゆらと揺れる壁。その奥に、次々とリラの記憶が浮かび上がる。
幼いリラが、泡をなぞっている。初めての泡は、桃色だった。彼女は嬉しそうに泡を揺らす。周囲の人魚たちが、微笑んでいる。
次の記憶。リラが、誰かに手を引かれている。その誰かの顔は、ぼやけて見えない。でも、リラの表情は、少しだけ不安そうだ。
「……これは」
カノジョが、その記憶を見つめる。
その時──
「あ、見つけた」
声がした。
振り返ると、そこに一人の少年が立っていた。彼は、他の人魚よりも小さく、無邪気な目をしている。その手には、いくつかの泡が握られていた。
「君、誰?」
「カノジョだよ」
「カノジョ……変わった名前だね」
少年は、笑った。
「僕は、泡拾いの少年。海底を漂う泡を集めてるんだ」
「泡を集めて、何をするの?」
「見るんだよ。人の記憶って、すごく綺麗だから」
少年は、手にした泡の一つをカノジョに差し出した。
「これ、リラの昔の泡だよ。見てみる?」
カノジョは、その泡を受け取った。
泡の中には、リラがいた。彼女は、他の子どもたちと一緒に泡をなぞっている。楽しそうに笑っている。声はないけど、その笑顔は確かに、伝わってくる。
「……リラちゃん、笑ってたんだ」
「そうだよ。リラはね、昔はもっと明るい色の泡をなぞってたんだ」
少年が、優しい声で言う。
「でもね、ある日から、急に青くなったんだ」
「……なぜ?」
「それが、分からないんだ」
少年は、首をかしげる。
「誰も教えてくれない。リラも、話さないし」
カノジョは、その言葉を胸に刻んだ。
彼女は、さらに奥へ進んだ。




