第2話(前編)「声を失った者たち」
―――海の底・浅層―――
泡が、三人を導いていた。
カノジョ、カレシ、スター。三人は、先ほどカノジョの足元で桃色に光った泡を追って、暗い海の底を進んでいた。
会議室の琥珀色の光はもう後ろ遠く、周囲は青く、冷たく、静寂に満ちている。
「……どれくらい歩いたかな」
カレシが端末を確認する。画面には「移動距離:計測不能」の文字が並んでいた。
「この世界では距離もデータにならないのか」
「気にしない気にしない! あ、あっちになんかあるよ!」
カノジョが指さした先に、ぽつりと浮かぶ光の塊が見えた。
泡の集まりだった。無数の泡が、まるで灯りのようにゆらゆらと揺れている。その光は青く、優しく、まるで誰かの吐息のように規則正しく明滅していた。
「……集落だ」
スターが呟く。
泡の光に照らされたその場所には、海の底に築かれた小さな集落があった。サンゴや岩を削って作られた住居が点在し、その周囲を無数の泡が漂っている。
そして、その泡の一つ一つが、異なる色を放っていた。
青。桃。白。淡い緑。銀。
「泡の色で、会話しているということか……!」
カレシが息を呑む。
「……ソーダさんに、ピーチさんに、カルピスさんかな。『君、旨そうだな』、とかなんとか言ってたりして。ねえ、カレシ?」
スターも加わる。
「僕が歌を奏でたら、感動のスポットライトを泡で照らしてくれるんじゃないかな? ねえ、カレシ君」
「………」
カレシは耳と心を遮断して、ゆっくりと集落の中へ歩み寄る。
人魚たちは、三人の姿を見ても驚かなかった。むしろ、彼女たちは微笑みを浮かべ、そっと泡をなぞった。
桃色の泡が、カノジョの前に浮かぶ。
人魚が微笑み、カノジョも笑う。
そして、もう一度泡をなぞる。
今度は淡い緑色の泡が、三人の周りをゆっくりと回った。
「待ってー」
カノジョはその後ろを子供のように着いてついて歩く。
人魚たちの口先が少し緩んだ。
桃色は「歓迎」、緑色は「案内」の意味だと、カレシは直感的に理解した。
そして、人魚がうなずく。
彼は端末にメモを取ろうとするが、指が止まる。
(泡の色と動きで意味が変わる。それを記録するには、まず「意味」を理解しなければならない。でも……)
「……意味を理解する前に、記録できない」
彼は独り言のように呟いた。
「思ったままでいいの。キャッキャ。ぷいっ。ぐぅーっ。むぅぅ。うゎわ。って」
カレシはカノジョの言葉を脳内変換した。
「それもありか……」
その時、集落の中心にいた一匹の人魚が、ゆっくりと三人の前に出てきた。
彼女は他の人魚よりも一回り小さく、目が異様に澄んでいた。
他の人魚たちが放つ泡は、穏やかな色をしている。桃色や淡い緑、時には銀色の優しい光。
しかし、彼女の周囲の泡だけは──青かった。
深く、濃い、どこまでも沈むような青。
「……あなた」
カノジョが、彼女に近づく。
若い人魚──リラは、カノジョを見上げた。そして、ゆっくりと手を伸ばし、一つの泡をなぞった。
泡が光る。青。青。青。
カノジョは、その青い泡をじっと見つめた。
そして──ぽつりと言った。
「……この子の青、泣いてる青じゃない」
カレシが、その言葉に顔を上げる。
「……え?」
「だって、泣いてる青はもっと濁ってるよ。でも、この青は──」
カノジョは、リラの目を真っ直ぐ見つめた。
「──何かを待ってる青」
リラの泡が、かすかに震えた。
その時、リラの周りにいた別の人魚が、そっと近づいてきた。
彼女は、リラの肩に手を置き、優しく泡をなぞった。桃色の光が、リラの青い泡を包み込むように広がる。
『大丈夫。あなたは一人じゃない』
その泡の色は、そう伝えていた。
しかしリラは、首を振った。彼女は、その手を振り払うようにして、後ずさる。
その時──周囲の人魚たちの泡が、一斉に白く揺れた。
それは「成熟」の色であり、「泡になること」への静かな促しだった。
「あなたも早く泡になりなさい」という無言の圧力が、優しく、しかし確かにそこにあった。
リラは、その白い泡の波を前に、自分の手をぎゅっと握りしめた。
彼女の周りの青い泡が、震え始める。
そして──
バチン。
リラが、自分の周りの泡を勢いよく弾いた。
青い泡が、周囲に飛び散る。他の人魚たちの白い泡が、その衝撃で一瞬、揺らぎ、割れる。
集落が、一瞬の静寂に包まれた。
誰もが驚いて、泡を止めた。
そして、その静寂の中で──リラは、ゆっくりと、もう一度泡をなぞった。
その泡は、青く、青く、深く沈むように光っていた。
『私は──』
沈黙。
彼女の泡が、震える。
『──終わりたくない』
その泡は、世界の構造に耐えられないほど強く、青く輝いていた。




