第1話(後編)「会議室、海の底に沈む」
―――会議室に戻って―――
カノジョが会議室に戻ると、女将が待っていた。
「おかえりなさい」
女将は、カノジョの肩を優しく抱き寄せながら、温かいスープの入った水筒を手渡した。
「中継セクターから持ってきたものよ。まだ温かいわ」
「わーい♪あっ、博士!ツナ昆布おにぎりは?」
スープの湯気に目を輝かせながらも、ちゃっかり本命の進捗を確認する。
博士は小声で呟く。
「あー、もうちょっとだ」
(セクター間転送で余計なことをすると監査役から指摘入るしな)
カノジョは、水筒を両手で包んだ。
その温もりが、冷えた指先に染み込んでいく。
女将は、カノジョの頭を優しく撫でた。
「声は届かなくても、お腹の底が温かくなれば、人間は怖くなくなるものよ」
カノジョは、小さくうなずいた。
スターも、水筒を受け取って一口すする。
「……沁みるなあ」
「スターさんもお疲れさま」
女将が微笑む。
その時――
「……私の分は?」
雇い主が、控えめに、しかし確かな声で尋ねた。
女将が振り返る。
「ありますよ」
「……よかった」
雇い主が、ほっとしたように肩の力を抜く。その小さな安堵が、会議室の空気を少しだけ和らげた。
その時、会議室のホワイトボードに文字が浮かんだ。
『ミッション:海の底の歌を記録せよ』
「……歌?」
雇い主が、その文字を見つめる。
「声がないのに、歌を記録しろってのか?」
博士が呟く。しかし、彼の目は、もう「分析不能」を恐れていなかった。
「……やるしかないな」
博士は、そう言って端末を開いた。
カレシは、人魚とカノジョを見つめながら、自分の端末を閉じた。
(記録できないものを、どう記録するのか――それは、僕がこの旅でずっと向き合ってきた問いだ)
彼は、端末を置いた。
「……僕も、行く」
「カレシ?」
雇い主が驚く。しかし、カレシはもう窓の外へと歩み出ていた。
その背中を見送りながら、スターはギターを抱えて微笑んだ。
「いいね。その感じ」
彼はギターを肩に掛け、窓の外の漆黒を見渡した。
「……海のライブか。悪くない」
「ところで観客は?」
カノジョが窓の外を指さす。
「そこにウツボさんいるよ」
スターは指さされた方向を見て、一瞬だけ顔を引き攣らせた。
「……なんか怖いな」
でも、彼はもう笑っていた。
海の底に、三人が立っている。
カノジョ、カレシ、スター。
彼らはまだ、何も知らない。この世界がどんな物語を持っているのか。リラという名の若い人魚が、どんな願いを抱えているのか。海が、毎日少しずつ深くなっていることを。
でも――
「……歌、見つけに行こう!」
カノジョが言った。
その声は、水の中では音にならなかった。
けれど。
三人の足元で、小さな泡が一つだけ桃色に光った。
その泡は、進む先を知っているように、ゆっくり前へ浮かんでいった。
世界が小さく息をした。
―――中継セクター・並行観測―――
青年は端末の画面を睨んでいた。
『……青年さん』
学生の声が真剣だった。
『さっきの虹色の泡、下層へ沈んでいってます。このセクターの最深部に向かって。何か分かりますか?』
「……あの泡は、この世界の『始まり』かもしれない」
青年は呟く。
「俺たちが今まで見てきた世界も──あの泡の中に沈んでいる気がする」
学生は何も言わなかった。でも、その沈黙は了解の代わりだった。
【システムログ:人魚セクター・初期観測】
現実確率:計測不能
歪みレベル:小
――未確認オブジェクト(会議室)の海底着地を確認。
――対象セクターの深度:浅層。光量:極小(会議室の非常用照明のみ)。
――住人の音声データ:全員欠落。代わりに泡による意思疎通を確認。
――観測者の触覚による反応を確認。泡が初めて桃色に発光。
――スターのギター音が泡を震わせる現象を確認。
――なお、観測者の端末から離れた場所にて、虹色に光る泡(コード:0612)の浮遊を確認。カノジョのみが視認。
また、泡は逆方向(下層)へ沈降中。泡が「沈む」という異常現象に注意。
観測を継続します。
──次回予告──
「声を失った者たち」
人魚の集落で見たものは――泡の会話、光の色、そして「泡になりたくない」と願う一人の少女。
「私、まだ、終わりたくない」
次回、カレシが初めて「記録」を諦める。




