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【物語紀行】――主役も悪役も、役割を辞めたがっている。  作者: Taku
第1章 Season3【人魚姫編】「声は沈んだ。想いは浮かんだ。」

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第1話(前編)「会議室、海の底に沈む」

―――時空の狭間・御前会議室―――


赤ずきんセクターから戻ってきた会議室の空気は、不思議なほど静かだった。


先ほどまで、あの森の霧と、二重報告書の緊張と、たんぽぽの綿毛の舞う光景がそこにあった。今はもう、窓の外には中継セクターのいつもの風景が広がっている。


「……戻った、んだな」


雇い主が、自分の手を見つめて呟く。彼の手はまだ、カメラのシャッターを押した感触を覚えていた。


「報告書は『未完』としてアーカイブに保存されましたね」


カレシが端末を確認しながら言う。その声には、かつてのような冷徹さはなく、どこか温かみがあった。


「……みなさん、お疲れさまでしたね」


女将がコーヒーを淹れ始める。香ばしい香りが会議室に広がる。


その時だった。


ドン、と、低い、しかし確かな振動が会議室を揺らした。


「……今のは?」


隊長が即座に立ち上がる。


ドン。ドドン。


振動は規則的になり、次第に激しさを増していく。


「これは……!」


青年が端末を確認する。その画面には、警告マークが赤く点滅していた。


『警告:次なる物語セクターへの強制転送を開始します』


「ちょ、ちょっと待ってくれ! まだ次の世界の準備が――!」


雇い主の抗議も虚しく、会議室は再び時空の狭間へと飲み込まれた。


今回は違った。桃太郎の時の「落下」でも、赤ずきんの時の「転送」でもない。


――沈む。静かに、確実に、深く。


「……水? いや、海か!」


隊長が窓の外を見て叫ぶ。会議室の外は、青く、暗く、どこまでも続く水の世界だった。


「わあ、きれ――」


カノジョが窓に張り付こうとした瞬間、彼女の口が閉じた。


会議室の照明が、一瞬で落ちた。


非常用電源が切り替わる間の、数秒の闇。その間、窓の外の漆黒が会議室の中まで飲み込もうとするように迫ってきた。


バチン。


琥珀色の淡い光が、会議室を照らし出した。非常用の明かりだ。それは、周囲の闇にぽつんと浮かぶ唯一の灯火だった。


会議室は、海底に着地していた。


「……ツナさんと昆布さんに会えるかなー♪」


カノジョが、窓の外の暗闇を見ながら呟いた。


博士が、端末を確認しながら淡々と答える。


「カノジョ君。説明しよう。ツナは回遊魚だ。そして昆布は光の届く浅瀬に生息する。つまり、この深度では──」


「えー、じゃあ、連れてきて!」


「………」


博士が言葉を失う。


雇い主が、咳払いを一つして前に出た。


「博士、ここは私が。……よし、ツナ昆布おにぎりを食べよう。博士が調達してきてくれるぞ。よいかな?」


「ふーん。まあ、いいけど。2個ね」


ちゃっかり得るものは得てしまうカノジョ。

理不尽な無茶振りに顔を青くする博士。


その横で、隊長が真剣な顔で窓の外を睨んでいる。


「……静かだな」


スターが呟く。彼の声は、会議室の中にだけ響く。


窓の外は、水圧に耐える会議室の外壁を通して、異様な静寂を伝えてきた。


泡が浮かぶ音はない。海水の流れも感じられない。生物の気配はないのに――「見られている」という感覚だけが、肌を這うようにまとわりついてくる。


「何か……いるのか?」


博士が端末で解析しようとする。しかし、データは記録できない。何もない。ただ、泡だけが、ゆっくりと底から浮かび上がっていく。


「音声データ、ゼロ……この世界には、声がないのか?」


カレシが呟く。その言葉に、全員が息を呑んだ。


「……声がない?」


雇い主が、博士の方を見る。博士は端末を見つめながら、静かに言った。


「このセクターのデータベースに登録されている『人魚』の項目が、すべて空欄だ。……この世界の住人は、声を失っているようだ」


その時、窓の外で、泡が一つ、揺れた。


それまで規則正しく浮かび上がっていた泡が、一瞬だけ、何かに押し戻されるように動いた。


そして――現れた。


一匹の小さな人魚が、泡の群れの中に立っていた。彼女は、会議室を見上げている。


その口は、開いていない。声も、出していない。


彼女の髪は、水中で一切揺れていなかった。まるで、時間が止まったかのように。ただ、その目だけが異様に澄んで、会議室の灯りを映していた。


彼女は、自分の指で周囲の泡をなぞった。その指先は、かすかに震えている。泡が光る。青く、悲しみの色だった。


「……何か、伝えようとしているのか?」


隊長が警戒しながらも、近づこうとする。


「待ってください」


カレシが止める。


「彼女は声を出せない。でも――泡で、話しているんです」


カレシが自分の端末を窓に向ける。泡の動きは、データとして記録できる。しかし、その意味は――。


「……解読できない」


カレシの声が、悔しさに震えた。


その時、カノジョが一歩、窓に近づいた。


「……ねえ」


彼女は、人魚を見つめている。


「あなた、話せるの?」


人魚は答えない。ただ、泡をなぞる。


カノジョは、窓を開けた。水が入ってこない。この会議室は、そんな仕組みになっている。


しかし――海の「密度」だけは、肌を刺すように伝わってきた。冷たい。重い。言葉にならない圧力が、彼女の全身を包む。


彼女は、外に出た。


「カノジョ! 危ない!」


雇い主が叫ぶが、彼女は止まらない。


会議室の琥珀色の光が、カノジョの後ろ姿を照らす。その光は、漆黒の海の中に、一本の「光の道」を作り出していた。


カノジョは、人魚の前に立った。そして――その手を、泡に触れさせた。


その瞬間。


カノジョの指先が、泡に触れた。泡は、一瞬だけ光った――しかし、すぐに消えた。


返事が、なかった。


カノジョは、もう一度、泡に触れた。


光らない。


「……ねえ」


カノジョの声が、初めて震えた。


「返事してよ」


泡は、沈黙したままだった。


いつもなら、すぐに誰かが返事をしてくれる。鬼も、赤ずきんも、たんぽぽも。


でも今はただ、泡が静かに浮かんでいるだけ。


カノジョの胸が、初めて「ぎゅっ」と締め付けられた。


「……怖い」


彼女は、その場に立ち尽くした。彼女は今まで、ピュアな感情のエネルギーで世界を動かしてきた。お菓子で鬼と友達になり、たんぽぽの綿毛でシステムを超えた。


しかし、ここには「好き」を受け止める声がなかった。


「……カノジョ?」


スターが、会議室の中から声をかける。彼もまた、初めて見るカノジョの表情に、何かを感じ取っていた。


その時、スターはギターを手に取った。何も言わずに。


――ジャラン。


その低く太い音が、海水を震わせた。


人魚の周りの泡が、初めて「呼吸するように」膨らみ、縮む。


人魚が、顔を上げた。


スターは、歌わなかった。歌詞はなかった。ただ、ギターの音だけが、海の底に響いている。


――ジャラン。


――ジャラン。


その音が、泡を震わせた。人魚の周りの泡が、かすかに揺れる。


人魚の髪が、音に反応してわずかに揺れた。海の底の暗闇が、音に合わせて「薄くなる」ように感じられた。


人魚は、ゆっくりと、自分の手を伸ばした。そして――泡をなぞった。今度は、光った。淡い桃色の光だった。


「……あ」


カノジョが、息を呑んだ。


人魚は、もう一度泡をなぞる。今度は、光が続いた。彼女は、泡で「ありがとう」と伝えていた。


カノジョは、泣きそうな顔で笑った。


「……うん。届いたよ」


その時、彼女の視線の端で、何かが動いた。


泡が揺れていた。


その泡は揺れていなかった。


「虹色」の泡が、一つだけ、下へ向かって落ちていった。


カノジョの心臓が、トクンと一度だけ強く脈打った。


でも、彼女は何も言わなかった。ただ、その泡を見送った。

―――中継セクター速報―――

観測資料 No.01「沈黙の海底」

(※人魚姫編メインビジュアルはこちら)

https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/3034788/blogkey/3682590/

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