第8話(前編)「真実は一つじゃない」
―――赤ずきんセクター・会議室(仮設)―――
報告書の提出期限が、迫っていた。
雇い主は、表の報告書を手に、しばらく黙っていた。画面には、整然とした文字が並んでいる。
システムが求める「ハッピーエンド」の顛末。正しく、美しく、そして――嘘のように整っている。
彼は、目を閉じた。
(赤ずきんの冷たい笑み。猟師の妻の静かな諦め。狼の疲れた声。花たちの優しい囁き。おばあさんの、誰にも知られなかった水やり。……彼らは皆、整合性の外側にいた)
(私は、ずっと整合性を守るために書いてきた。システムのルールに従い、プロットを整え、物語を「正しい形」に収めてきた。でも――)
彼は、静かに言った。
「真実は、彼らの数だけある」
―――雇い主の決断―――
雇い主は、カレシの方を見た。
「……君の『裏の報告書』、まだあるか」
カレシは、端末を開いた。
「……あります」
「それも、一緒に送る」
「……いいのですか?」
「ああ。システムが求める『真実』は、一つかもしれない。でも――」
雇い主は、自分の端末を閉じた。
「この世界に生きていた者の『真実』は、一つじゃない。それを、見なかったことにはできない」
―――二重送信、実行―――
カレシが、自分の「裏の報告書」を、表の報告書に添付した。そして、送信ボタンを押した。
その瞬間、システムログが激しく乱れた。
【警告:二重報告書を検知】
【警告:不正な追加データを破棄します】
【エラー:削除プロセスを試行中――】
けたたましい警告音が会議室に響き渡り、カレシの端末が激しく火花を散らす。
鼓膜を刺すような高音のエラー警告音が会議室に鳴り響いた。画面に表示された「裏の報告書」の文字が、端から次々と砂嵐のように消されていく。
「やはり、ダメなのか」
雇い主が落胆の表情を隠せない。
システムの圧倒的な拒絶を前に、誰もが言葉を失った。
消去までのカウントダウンが、無情にゼロを指そうとした、その時――。
ジャラン……!
スターが、突然立ち上がってアコースティックギターを強く掻き鳴らした。低く太い弦の響きが、機械の冷たい警告音を切り裂く。
「♪……レリッ……ビー……、レリッ……ビー……」
スターの声が、掠れながらも力強く響く。祈るような、魂を振り絞るような歌声。
警告音(ピーーーーーーーーーーーーッ!)とスターの歌声が激しくぶつかり合う。
「♪……レリッ……ビー……、レリッ……ビー……」
画面の砂嵐が一瞬強くなり、システムが抵抗するように警告音のボリュームが跳ね上がる。
その時――
カノジョが、両手いっぱいのたんぽぽの綿毛を窓の外へ満面の笑顔でぱっと放り投げる。
「飛んでいけーーー!!」
その純粋で、計算も嘘もない叫びが、スターの歌声に重なる。
ジャラン! ジャラン!
スターのギターの音が、さらに激しくなる。
「♪……レリッ……ビー……、レリッ……ビー……」
「飛んでいけーーー!!」
カノジョの声が、もう一度、大きく響く。
その瞬間――
画面の赤い警告表示が、一瞬、白くフラッシュした。
警告音が、目に見えて音量を落としていく。
砂嵐がゆっくりと晴れ、代わりに柔らかな光の粒子が画面の中を舞い始める。
システムの冷たい機械音が、徐々にスターの歌声に飲み込まれていく。
やがて、警告音は完全に消え、会議室には、スターのギターの残響とカノジョの息づかいだけが残った。
カレシの端末は、ただ穏やかな待機音を静かに鳴らしていた。
「……止まった、のか?」
雇い主が、信じられないといった様子で呟く。
それは奇跡か、あるいはただの偶然か。
スターとカノジョがもたらしたあまりにも激しい魂の残響に、全員が呆然と立ち尽くし、胸の鼓動を昂ぶらせていた。
その興奮の余韻を破るように、青年が、静かに一歩前へ出た。




