第7話 「忘れられた猟師の妻」
―――赤ずきんセクター・霧の森―――
二重報告書を送信してから、森の霧は確かに晴れ始めていた。だが――まだ、何かが足りない。青年が言った「影」が、まだ見つかっていない。
「……この先に、家がある」
雇い主が、端末の地図を確認しながら言った。
「猟師の家だ。物語の最後で、狼の腹を裂いて赤ずきんとおばあさんを助けた、あの猟師の」
「行ってみましょう」
カレシが言った。
一行は、森の奥へと足を踏み入れた。
―――猟師の家―――
そこにあったのは、一軒の古い家だった。煙突からは煙が立ち上っている。誰かが住んでいる証拠だ。
でも――何かがおかしい。庭には薪が積まれているが、斧は錆びつき、刃は欠けている。まるで、長い間使われていないかのように。
「……お邪魔します」
雇い主が、扉をノックした。
中から、女性の声がした。
「どうぞ、お入りください」
部屋の中は、整理整頓されていた。家具は古いが、手入れが行き届いている。暖炉の火が、ゆっくりと燃えている。
そして――そこに、一人の女性が立っていた。彼女はエプロンをつけ、優しい微笑みを浮かべている。
「猟師の家にお越しの方ですね。私は、その妻です」
「ご主人は、いらっしゃいますか?」
雇い主が尋ねると、女性は静かに首を振った。
「いいえ――最初から、ここにはいません」
「……最初から?」
「ええ。この家には、私だけです。最初から、ずっと」
女性は微笑んだ。その微笑みは、あまりにも静かで、あまりにも諦めに満ちていた。
「私は、存在しない夫を待ち続ける役割を与えられた、ただの背景です。物語が終われば、私も消える。それだけのことです」
彼女は、少し間を置いて、続けた。
「毎日、夫が帰ってくる時間を待つ。夕飯を作り、暖炉に火を入れ、窓から外を眺める。でも、夫は来ない。来るはずがない。私は、そのことを知りながら、毎日同じことを繰り返す。それが、私の『物語』なんです」
その言葉に、誰も何も言えなかった。
隊長だけが、無言で庭に下りた。そして、錆びついた斧を手に取り、砥石を探し始める。彼は何も言わず、ただ黙々と、斧を研ぎ始めた。
「……あなたは、何をしているのですか?」
妻が、尋ねた。
「修理だ」
隊長は、顔も上げずに答えた。
「こんなにいい斧が、このままじゃもったいない。薪を割るのに使えるだろ」
「でも――」
「でも、何だ?」
隊長は、初めて顔を上げた。
「昔、現場でな……名前も知らねえが、そいつがいないと現場が止まっちまうって奴がいてな。俺はそいつの現場道具、よく直してやってたんだ。ふと、そのことを思い出したんだ」
「……あなたは、そうやって、誰かのために動くんですね」
「違う」
隊長は、静かに言った。
「お前が困るだろう。それ以外に理由がいるか?」
妻は、しばらく隊長を見つめていた。そして、小さく笑った。その笑顔は、諦めの微笑みとは、少しだけ違っていた。
その時、カノジョが妻の隣に歩み寄り、おにぎりを差し出した。
「はい、ツナ昆布」
「……え?」
妻は、少し驚いたように、おにぎりを受け取った。そして、小さく一口かじった。
「……美味しいわね」
カノジョは、満足そうに妻を見ると、来た!とばかりに話始める。
「でしょ!でしょ!聞いて聞いて。これね、ツナさんと昆布さんが友達になってね、ツナ昆布さんになったのね。でね、ツナ昆布のことをね、雇い主がね、ワカ……」
雇い主が大音量の咳払いを入れる。
「コホンッ! コホコホッ!! あー、カノジョ君、それぐらいにしておこうか! そこから先は我が社の企業秘密だ!!」
―――中継セクター・医療室―――
その時、雇い主の端末に、通信が入った。
『……聞こえるか』
長老の声だった。まだ弱々しいが、どこか力強さを帯びている。会議室メンバーが雇い主の周りに集まる。
「長老、なぜ――」
『わしも、ここから観測しているんだ。お前たちが、何をしているか、知っている。学生からも聞いておる』
長老は、一度言葉を切った。
『名もなき者の声の中にこそ、物語の始まりがある。それを忘れるな』
「……名もなき者」
『ああ。名前すらない。でも――その声を聞くことができた者は、初めて物語の本当の輪郭を見ることができる』
すると、ひょこっとカノジョが横から顔を出した。
「長老、私、赤ずきんちゃんからキャラメルもらったの。帰ったら上げるね!」
「おー、カノジョか。分かった。楽しみにしておるぞ」
画面の向こうで、長老はかつての威厳を取り戻したように優しく微笑んだ。
しかし、カノジョは首を傾げ、隣の雇い主へ声をかける。
「ねえ、雇い主? キャラメルって入れ歯だとよくないかな?」
聞いていた一同。「…………」
――プツン。
と、絶妙なタイミングで通信が切れた。
―――猟師の家・台所―――
女将が、妻にお茶を入れてあげていた。
カノジョは、窓辺に座って、外の景色を見ている。
スターは、部屋の隅でギターのチューニングをしている。
「……あなたは、何をしているのですか?」
妻が、スターに尋ねた。
スターは答えず、ただ
「♪……ふ、ふふ〜ん……」と、言葉にならない微かな鼻歌をギターの音色に重ねた。
その低く甘い声が、ガランとした部屋の空気を優しく満たしていく。
「調律ってのはな、空間の物語を奏でてくれるんだ。最初、この部屋は少し音が寂しそうに聞こえた。でもな――」
スターは、妻を見た。
「あなたが言葉を発した瞬間、ガランとした空間に温かい空気が流れたんだ。それが生きてるってことさ」
妻は、何も言わなかった。でも、その目が、わずかに揺れた。
ジャラン……。
ふたたび重なるハミングは、さっきよりもずっと、どこか柔らかい。その境界線のあやふやなメロディに、世界のシステムさえも、今はただ耳を澄ましているかのようだった。
―――猟師の家・裏手―――
カレシは、一人で家の裏手に回っていた。そこには、小さな花壇があった。花は枯れている。でも――土が、少しだけ湿っている。
(誰かが、水をやっている……?)
カレシは、しゃがみ込んで、土に触れた。冷たい。でも、確かに湿っている。最近、誰かが水をやった跡だ。
「……おばあちゃんが、来てたの?」
声がした。振り返ると、赤ずきんが立っていた。彼女は、フードを被っていない。その顔は、少しだけ、穏やかだった。
「あの人は、いつもこっそり来てたの。私が知らないと思ってたけど――知ってた」
「……何のために?」
「わからない。でも――」
赤ずきんは、枯れた花を指で撫でた。
「多分、自分の役割を、自分の手で終わらせたかったんだと思う。誰かに任せるんじゃなくて」
彼女は、少し間を置いた。
「……私も、そうかもしれない」
カレシは、その言葉を、自分の端末に記録した。
―――猟師の家・リビング―――
カレシが戻ってくると、妻が静かに口を開いた。
「……あの人のことは、知っています」
「あの人?」
「おばあさんです。彼女は、よくここに来て、花に水をやっていました。何も言わずに。ただ、水をやって、帰っていくだけでした」
「……なぜ、そんなことを?」
「わからない。でも――」
妻は、少し間を置いた。
「泣いていた日も、ありました。」
その言葉に、誰も答えなかった。
カレシは、自分の端末を見つめた。そこには、まだ「裏の報告書」が開かれたままになっている。彼は、それに一行書き加えた。
『彼女は、存在しない夫を待つ役割だった。でも、その静かな待ち時間こそが、この世界の余白を支えていたのかもしれない。』
―――夜、帰路―――
一行が、猟師の家を後にする時、妻は玄関先に立っていた。
「……ありがとう」
彼女は、静かに言った。
「私は、ここにいます。たとえ誰の物語にも書かれなくても――私の時間は、私のものです」
隊長が、最後に振り返った。
「薪、割っておいた。いつでも使える」
「……ありがとう」
妻は、もう一度、そう言った。
【システムログ:赤ずきんセクター・観測エラー】
現実確率:22.3%(上昇中)
歪みレベル:中(安定化傾向)
――猟師の妻(名もなき者)の存在を確認。彼女は「物語の余白」そのものである。
――彼女の声を記録した観測者の端末に、新たな一行が追加されました。
――これにより、報告書の「余白」が、初めて物語の一部として認識され始めています。
――「監視者」おばあさんの行動パターンに、保護目的の可能性を検知。次話、最終確認予定。
観測を継続します。
──次回予告──
「真実は一つじゃない」
二重報告書に、余白の声が加わった。
ようやく、世界は動き始める。
次回、Season 2、最終話。
真実は、どこにあるのか?
「――答えは、彼らの数だけある」




