第6話 「報告書の二重構造」
―――赤ずきんセクター・会議室(仮設)―――
カノジョと赤ずきんが戻ってきてから、会議室の空気は確かに変わった。張り詰めていた緊張は霧のように消え、代わりに「何かが始まる」という静かな予感が漂っている。
しかし――システムは待ってくれない。
雇い主の端末に、冷徹な文字が浮かび上がる。
【警告:報告書提出期限まで残り24時間。未完のままの提出は認められません】
雇い主は深く息を吐き、キーボードに向かった。
「……やるしかない。表の報告書を書くぞ」
「表の、ですか」
カレシが尋ねる。
「ああ。システムが望む『ハッピーエンド』の顛末だ。赤ずきんは狼に襲われたが、猟師に助けられた。そして、めでたしめでたし――それでいいんだ」
「……それで、いいんですか」
カレシの声は、わずかに震えていた。
雇い主は、一瞬だけ手を止めた。
「よくない。ただ、それがこの世界のルールだ。私たちが書かなければ、システムが代わりに書く。だったら――私たちが書く方が、まだマシだ」
―――表の報告書、作成開始―――
雇い主とカレシは、黙々とキーボードを叩き始めた。
『被害者:赤ずきん。狼に襲われたが、猟師に救出される。現在は平穏に暮らしている。犯人は狼。既に猟師によって退治された』
『動機:狼の犯行は、衝動的かつ非計画的。特に深い理由は存在しない』
『結論:事件は解決した。社会秩序は回復した』
カレシは、文字を打つたびに、違和感が積み重なっていくのを感じていた。
(……狼は、赤ずきんに頼まれただけだと言った。花は、狼は優しかったと言った。木々は、赤ずきんが狼の首を絞める練習をしていたと言った。どの証言も――嘘ではない)
(でも、この報告書は、それら全てを「なかったこと」にしている)
カレシの指が、止まった。
―――夜、一人の時間―――
会議室の照明が落とされ、ほとんどのメンバーが休息を取っていた。スターは長椅子で目を閉じている。女将はコーヒーカップを片付けている。隊長は入口の近くで座って気を張っている。
カレシだけが、端末の前で動かなかった。表の報告書は、ほぼ完成している。あとは、最終チェックをしてシステムに送信するだけだ。
でも――彼は、それを送信できずにいた。
代わりに、彼は新しいファイルを開いた。タイトルはまだない。でも、書くべきことは決まっていた。
『狼は、赤ずきんに頼まれた。おばあちゃんを連れ出してほしいと。彼は、その頼みを聞いただけだった』
『森の木々は、赤ずきんが毎日、狼の首を絞める練習をしていたと言った。でも、それは――彼女が本当に狼を殺したかったからではなく、自分を閉じ込める「役割」を殺したかったからかもしれない』
『花たちは、狼を褒めた。彼が毎日、花に水をやっていたから。優しい声で話しかけていたから。悪役として生まれながら、それでも誰かに愛されることを諦めなかったから』
カレシの指は、止まらなかった。
『彼女は、狼を殺したのだろう。でも――狼も、彼女を愛していたのだろう。その二つが矛盾しているなら、私は、その矛盾を記録する。それが、私の「真実」だ』
その時――スターの声が聞こえてきた。
声は遠く、微かだった。でも、確かに聞こえた。
「♪……あ〜あ〜、……」
彼は目を閉じたまま、ゆっくりと口ずさんでいる。まるで、何かを祈るように。
「♪……、み~お、まか〜せて〜いた~い〜……」
カレシは、その歌声を聞きながら、もう一度端末の画面を見た。そして、自分が書いた「裏の報告書」に、最後の一行を追加した。
『これは、表の報告書には書けない。でも――きっと、どこかに届くといい。この声が』
その時、机の上に置かれたたんぽぽの綿毛が、風もないのに、ふわりと揺れた。カノジョが赤ずきんと別れる時に持って帰ってきた、あの一本。それが、一瞬だけ光を反射して、また沈んだ。
「風さんの声を聞いて……か」
カレシはそう呟いた。でも――その瞬間、端末の警告音が、ほんの少しだけ弱まった気がした。
端末を閉じる直前、備忘メモにそっと一言付け加えた。「昭和の歌姫、要確認」
その時、後ろから声がした。
「そっちの『裏』の方が、いい顔してるぜ、記録者くん」
青年が立っていた。彼は、いつものように飄々とした口調だったが、その目は真剣だった。
「……見てたのか」
「いや。顔に出てたよ。表の報告書を書いている時の顔と、今の顔は、違う」
カレシは、何も答えなかった。
「それ、システムに送るのか?」
青年が尋ねる。
「……わからない。でも――」
カレシは、自分の書いた文字を見つめた。
「――記録を書いているときだけ、自分が自分でいられる気がする」
青年は、何も言わなかった。代わりに、自分の端末の画面をカレシに向けた。
「……見てくれ」
そこには、二つの未来予測が表示されていた。
未来A:表の報告書だけを送信した場合 → システムは整合性を確認。セクター閉鎖。住人たちの記憶は初期化される。
未来B:裏報告書も送信した場合 → 霧が晴れる。しかし――別の“影”が現れる。
「未来は収束しない」
青年は静かに言った。
「でも……この『影』が現れる未来だけは、どの分岐でも消えないんだ」
「影……?」
「ああ。次に会うべき相手の気配だ。……多分、この世界の最後のピースは、まだ誰も会っていない」
青年は端末をしまった。
「君が今、何を選ぶか。それで、未来は変わるんだよ」
―――中継セクター・医療室―――
カレシは、一人で通信回線を開いた。中継セクターの医療室。そこには、まだ完全には回復していない長老がいた。そばに学生が見守ってくれていた。
「……長老。お休みのところ、すみません」
『……構わん。どうした』
長老の声は、弱々しかったが、言葉に力強さを保っていた。
「僕は――」
カレシは、手短にこれまでの経緯を話した。表の報告書のこと。裏の報告書のこと。住人たちの声と、システムの要求の間で、自分が引き裂かれそうになっていること。
長老は、静かに聞いていた。そして、静かに言った。
『真実は一つではない。
だが……“誰かが見た真実”を消すのは、罪じゃ。』
「……はい」
『お前が信じたものを、そのままを、記録せよ。それが、お前の熱量だ』
「……熱量、ですか」
『ああ。お前の中にある“何か”を信じること——その"何か"が、熱量というものだ』
カレシは、しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
『うむ。……しっかりやれよ』
通信が切れた。
カレシは、自分の端末を見つめた。そこには、「裏の報告書」が開かれたままになっている。
――お前が信じたものを、そのまま記録せよ。
彼の指が、キーボードに触れた。
―――報告書、二重送信―――
翌朝。会議室に全員が集まった。
雇い主が、表の報告書を確認する。
「……これで、完成だ。後はシステムに送信するだけ――」
「待ってください」
カレシが立ち上がった。
全員の視線が、カレシに集まる。
「……もう一つ、報告書があります」
彼は、自分の端末の画面を、会議室の中央に映した。そこには、彼が昨夜書いた「裏の報告書」が表示されている。
「これは――表の報告書には書けなかった、住人たちの『声』です。狼の言葉。花の囁き。木々の記憶。赤ずきん自身の――言葉。それらは、システムが『真実』として認めないかもしれません。でも――私は、それを記録したかった」
沈黙が、会議室を包んだ。
博士が、メガネの奥の目を細めて言った。
「……論理的には、非効率だ。二つの報告書を提出すれば、システムは混乱する」
「しかし――」
カレシが言いかけると、博士はそれを遮った。
「しかし――その非効率こそが、この世界に必要な『歪み』かもしれないな」
女将が、静かにうなずいた。
「人の声って、いろいろな届き方をするものよ」
隊長が、深く頷く。
「現場の生の声ってのは、えてして、報告書から漏れやがるんだ。そっちに『真実』ってのが語られているかもな」
スターは、口笛を吹きながら語りかけた。
「カレシくんさ、いい歌ってのはさ、上手い歌じゃないんだよ。……よしっ、一緒に、歌おうか」
「結構です……」
スターはギターをジャランと鳴らしその場を閉じた。
雇い主は、しばらくカレシを見つめていた。そして、小さく笑った。
「……お前、変わってきたな」
「……そんなつもりは――」
「いいんだ。旅の醍醐味だよ」
カレシは、何も言わなかった。
―――二つの報告書、そして――――
システムに送信する直前、カレシは、自分の「裏の報告書」を、表の報告書に添付した。二重送信のバグを起こす――二つの「真実」を、同時に放り込む。
雇い主が、静かに言った。
「これで、どうなる?」
「わかりません」
カレシは答えた。
「でも――これが、僕たちの『真実』です」
送信ボタンが押された。
【警告:提出内容が複数存在します】
【どちらを真実として登録しますか】
カレシは静かに首を振った。
「……両方です」
システムが、二つの報告書を受け取る。警告音が鳴り響く――整合性を問う、冷たい警報。
でも――それ以上に、何かが変わった気がした。森の霧が、少しだけ晴れたように。
その時、机の上に置かれたたんぽぽの綿毛が、風もないのに、ふわりと揺れた。
カノジョが赤ずきんと別れる時に持って帰ってきた、綿毛のいくつか。それが、一瞬だけ光を反射して、また沈んだ。
その光の残像は──ぼんやりと「0612」の形をしていた。誰も気づかなかった。
気づいたのは、たんぽぽの綿毛を見つめていたカノジョだけだった。
カノジョは、会議室の片隅で黙々と紙飛行機を折っていた。誰にも気づかれないように、そっと。
彼女が折り終えた紙飛行機は、どちらが上か下か分からない、不思議な形をしている。
出来上がると窓辺へ歩き、
「飛んでいけー!」
紙飛行機は風もないのにふわりと浮き上がった。窓の外へ吸い込まれるように飛んでいった。
【システムログ:赤ずきんセクター・観測エラー】
現実確率:18.2%(微増)
歪みレベル:大(観測不能)
――表・裏の二重報告書を確認。システム、対応に窮する。
――警告:プロットの整合性が崩れています。
――しかし……霧が晴れ始めています。
――また、机上のたんぽぽの綿毛に、微弱な残光(コード:0612の可能性)を検知。カノジョのみが視認。
――なお、観測者の端末に記録された「心地よい歪み」というコード、マークしておきます。
観測を継続します。
──次回予告──
「忘れられた猟師の妻」
二重報告書を送ったものの、まだ何かが足りない。
次回、会議室が訪ねたのは、物語に名前すらない一人の女性。
彼女は何を知っているのか?
「私は、存在しない夫を待っています」




