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第三話

信長は静かに言った。


「過ぎたことはよい」


 一瞬、信長の目に、戦場に横たわる兵たちの姿がよぎったように見えた。


「これ以上、織田の血を流しとうない」


 その言葉には、勝者の驕りはなかった。


 ただ、国を背負う者の重い覚悟だけがあった。


 信長はさらに言った。


「死んだつもりで、わしに仕えよ」


 その瞬間、勝家の胸の中で何かが崩れ落ちた。


 これまで自分が信じていたもの。


 うつけと蔑んできた男への思い込み。


 すべてが、音を立てて崩れていった。


(このお方こそ……)


 勝家の視界が滲んだ。


 頬を熱いものが伝う。


 慌てて拭おうとしても、涙は止まらなかった。


 勝家は畳に額をこすりつけるように、深く頭を垂れた。


「……この柴田勝家、一命を賜ったこの恩、生涯をかけてお返しいたします!」


 声は嗚咽に震えていた。


 信長は短くうなずいた。


「頼むぞ、勝家」


 その一言は、勝家の胸に深く刻み込まれた。


 この日、柴田勝家は初めて知った。


 うつけと呼ばれた若き主君の器の大きさを。


 そして、この男のためなら命を捨ててもよいと、心の底から思ったのである。


          *


信長が柴田勝家の切腹を許す前の事だった。


 末森城 の一室に、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。


 障子が乱暴に開かれ、血と泥にまみれた 織田信行 が転がり込むように姿を現した。


「母上!」


 土田御前は立ち上がった。


 信行の鎧は傷だらけで、顔には疲労と恐怖がありありと浮かんでいた。


「このままでは、兄上に殺されまする!」


 信行は母の前にひざまずき、必死に訴えた。


「どうか、お助けくだされ。私はただ、正しいことをしようとしただけにございます!」


 土田御前はしばらく黙って息子の顔を見つめていた。


 そして静かにうなずいた。


「……分かりました。私に任せなさい。」


 その言葉を聞いた瞬間、信行の顔に安堵の色が広がった。


 その日のうちに、土田御前は輿に乗り、清洲城 へと向かった。


 かつて毎日のように見ていた城門が、今日はどこか遠いもののように感じられた。


 母として、長男に頭を下げなければならない。


 その現実の重さに、土田御前の胸は締めつけられていた。


 信長の前に通された土田御前は、畳に額がつくほど深く頭を下げた。


「信長……お願いです。信行の命だけは助けてください。」


 声は涙に震えていた。


 信長はしばらく黙っていた。


 拳を握りしめる手が、かすかに震えていた。


(母上とこうして向かい合うのは、いつ以来であろうか)


 幼い日の記憶が胸をよぎる。


 母の視線はいつも、自分ではなく弟へと注がれていた。


 その寂しさは、今も胸の奥に残っている。


 だが、信長はゆっくりと顔を上げた。


「母上……お会いするのは久しぶりにございますな。」


 土田御前は涙をこぼしながら顔を上げた。


 信長は静かに続けた。


「母上の願いを聞き入れぬ道理はございませぬ。」


 その言葉に、土田御前は目を見開いた。


「わしがこうして生きておるのも、大きくなったのも、母上のおかげにございます。」


 信長は一呼吸置いた。


「信行は許しましょう。」


「……本当か、三郎。」


 その呼び名を聞いた瞬間、信長の胸に幼い日の記憶がよみがえった。


 それでも信長は静かにうなずいた。


「はい。」


 そして、その声にわずかな厳しさを込めた。


「ただし――」


 土田御前の表情が引き締まる。


「今回の戦で命を落とした者たちは、皆、織田家のために忠義を尽くした者たちです。」


 信長の目は真っ直ぐだった。


「そのことを、どうか信行にお伝えください。」


 土田御前は震える手で涙を拭い、深々と頭を下げた。


「……ありがとう、三郎。」


 土田御前が去っていく。


 その後ろ姿を、信長は黙って見つめていた。


 幼い頃から求め続けた母の背中。


 今もなお、どこか遠く感じられるその姿。


 信長はそっと目を伏せた。


 頬を、一筋の光るものが静かに伝っていた。


 ある日の午後、清洲城 の廊下を一人の家臣が駆けてきた。


「お館様! 帰蝶 様に、お子がお生まれになりました!」


 広間にいた 織田信長 は顔を上げた。


「ほう……そうか。」


 それだけ言うと、信長は立ち上がり、足早に帰蝶のいる部屋へ向かった。


 室内には、柔らかな静けさが満ちていた。


 帰蝶は疲れた表情を見せながらも、穏やかな笑みを浮かべていた。


 その腕の中には、小さな命が静かに眠っている。


 信長はそっと近づき、まず帰蝶の手を握った。


 言葉はなかった。


 だが、その手のぬくもりに、互いの思いが確かに通じ合っていた。


 そして信長は、恐る恐る娘を抱き上げた。


 小さな体は驚くほど軽く、温かかった。


 その瞬間、戦場で見せる鋭い眼差しは消え、一人の父親の優しい表情が浮かんだ。


 かつて信長は、政略結婚というものを激しく嫌っていた。


 帰蝶とも長い間、心の距離を置いていた。


 しかし父 織田信秀 の死、そして 正徳寺の会見 を経て、二人の関係は少しずつ変わっていった。


 帰蝶は、信長の気性を誰よりも理解し、何も求めず静かに寄り添い続けた。


 信長もまた、その思いを知っていた。


 長い年月の末に授かった小さな命だった。


 信長は帰蝶に労いの言葉をかけ、もう一度娘の顔を見つめると、静かに部屋を後にした。


 その日の夕刻。


 家臣が信長に告げた。


「柴田勝家殿がお見えにございます。」


「通せ。」


 広間に入った 柴田勝家 は、まず深く頭を下げた。


「このたびは誠におめでとうございます。」


 信長の表情がほころぶ。


「おお、勝家。もう知っておったか。おぬしの耳の早さには恐れ入るわ。」


 久しぶりに見せる穏やかな笑顔だった。


 だが勝家の顔は晴れない。


 その様子を見た瞬間、信長の表情から笑みが消えた。


「……どうした。」


 勝家は目を伏せた。


「申し上げにくきことながら……」


 広間に重い沈黙が落ちる。


 信長は静かに目を閉じた。


「やはり、そうか。」


 すでに信行の動きがおかしいという報せは届いていた。


 だが、心のどこかで、それが誤りであってほしいと願っていた。


 しかし、その最後の望みも消えた。


 信長はゆっくりと目を開けた。


「……仕方あるまい。」


 声には、深い疲れがにじんでいた。


「信行をここへ呼べ。」


 そして、低く続けた。


「こたびは、城に籠もらせるな。」


 勝家は深く頭を下げた。


「はっ。」


 ほどなくして、信行は清洲城に呼び出された。


 そしてその日、再び謀反を企てた弟は、信長の命によりその生涯を閉じた。


 夜。


 信長は馬にまたがり、ひとり 末森城 へ向かった。


 母に、このことを伝えるためであった。


信行が最初の謀反を起こす数ヵ月前


道三の訃報が届いた夜、清洲城は重たい静けさに包まれていた。


 廊下を行き交う足音さえ、どこか沈んでいる。


 誰もが口を閉ざしていた。


 斎藤道三――。


 あの蝮が、ついに討たれた。


 長良川の戦い。


 その報せは尾張にも衝撃を与えていた。


 だが、その中で最も深く胸を痛めている者がいることを、信長は知っていた。


 帰蝶である。


 信長は無言のまま歩いていた。


 甲冑にはまだ泥がこびりつき、肩当てには雨粒が残っている。


 道三を救うため、兵を動かそうとした。


 だが――間に合わなかった。


 その事実だけが、胸に重く残っていた。

 帰蝶の部屋の前で、信長は足を止めた。

 しばらく動かなかった。

 そして静かに襖を開ける。

 薄暗い部屋の中、帰蝶は一人座っていた。

 灯りは小さい。

 その横顔は静かで、美しかった。

 だが、あまりにも静かすぎた。

 信長はゆっくりと部屋へ入り、その場に座り込む。

 甲冑が重い音を立てた。

 帰蝶は顔を上げない。

 信長も、しばらく言葉を探していた。

 だが――。

 やがて低く呟く。

「……すまん」

 声はかすれていた。

「間に合わなかった」

 そう言って、深く頭を下げる。

 尾張のうつけ。

 誰にも頭を下げぬ男が、帰蝶の前で深く頭を垂れていた。

 帰蝶は小さく首を振った。

「……好き放題やって来た人ですから」

 静かな声だった。

「本望でしょう」

 だが、その言葉とは裏腹に、帰蝶の指先はわずかに震えていた。

 信長は気付いていた。

 帰蝶が涙を見せぬよう、うつむいていることを。

 強くあろうとしていることを。

 父の娘として。

 美濃の姫として。

 最後まで気丈でいようとしていることを。

 信長はゆっくりと手を伸ばした。

 そして、そっと帰蝶を抱き寄せる。

 一瞬、帰蝶の身体が震えた。

 だが、抵抗はしなかった。

 張りつめていたものが、少しずつほどけていく。

 帰蝶は信長の胸元に顔を埋めた。

 甲冑は冷たかった。

 鉄の匂いがした。

 戦の匂いだった。

 だがその奥に、不器用な優しさがあった。

 帰蝶の肩が小さく震える。

 信長は何も言わなかった。

 慰めの言葉など、この女には不要だと知っていた。

 ただ、黙って抱きしめていた。

 その夜――。

 二人は初めて、本当の意味で夫婦となった。

 政略ではない。

 義務でもない。

 戦乱の中で、互いの孤独を知った二人が、初めて寄り添った夜だった。



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