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第四話 最終話

今川軍、挙兵――。


 その報せは、重苦しい空気と共に清洲城へ届いた。


 兵二万。


 尾張へ進軍中。


 城内は騒然としていた。


 誰もが、今川義元の名に怯えていた。


 だが――信長だけは違った。


 静かだった。


 まるで、ずっと前からこの時を待っていたかのように。


 信長はゆっくりと廊下を歩いていた。


 足音だけが静かに響く。


 やがて、一つの部屋の前で立ち止まる。


 帰蝶の部屋であった。


 襖を開ける。


 部屋の中では、小さな娘が無邪気にはしゃいでいた。


 三歳。


 まだ戦も天下も知らぬ幼子である。


 その横で、帰蝶は静かに正座していた。


 まるで、信長が来ることを分かっていたかのように。


 信長はしばらく何も言わなかった。


 娘の笑い声だけが、小さく部屋に響いている。


 その光景を見つめる信長の目は、どこか優しかった。


 やがて、低く口を開く。


「……帰蝶」


 帰蝶は静かに顔を上げた。


「今川が攻めてくる」


 短い言葉。


 だが、その重みを帰蝶は理解していた。


「万が一を考え、熱田神宮に居を整えた」


 信長は続ける。


「そこで静かに暮らすが良い」


 帰蝶は何も言わない。


 ただ静かに、信長を見つめていた。


 信長の脳裏に、ある日の言葉がよみがえる。


 帰蝶が、静かに語った夜。


『娘と静かに暮らしたい』


 その言葉を、信長は忘れたことがなかった。


 帰蝶は、かつてこうも言っていた。


『信長様が父上と交わされた言葉を、私は存じております』


『美濃を治める約束――』


『ですが父は申しておりました』


 帰蝶の声が、記憶の中で静かによみがえる。


『いずれ信長様は、天下を治められる器』


『国を豊かにし、民を救えるのは、信長様しかおらぬと』


 信長は黙って聞いていた。


『これから、信長様はもっと大きなお方になられる』


『そして――愛情深いお方であることを、私は知っております』


 その時、帰蝶は少しだけ寂しそうに笑った。


『……それゆえ、私は身を引きとうございます』


 信長は、その言葉を思い出すたび、胸が熱くなっていた。


 帰蝶は、自分を理解していた。


 誰よりも。


 信長自身すら気付いていなかった心を。


 帰蝶への想いは、年を追うごとに深くなっていた。


 娘が生まれてからは、なおさらであった。


 戦から戻るたび、小さな笑い声が迎えてくれる。


 その時間が、どれほど自分を救っていたか。


 だが――。


 信長は知っていた。


 このままでは、天下は取れぬと。


 情に流されれば、必ず迷う。


 そして、これから進む道は――修羅の道である。


 今川。


 美濃。


 上洛。


 戦はさらに大きくなっていく。


 やがて、自分のそばにいる者すべてを巻き込む。


 だからこそ。


 今が、その時だった。


 決断の時。


 信長は娘へ視線を向けた。


 無邪気に笑っている。


 その姿に、わずかに目を細める。


 そして帰蝶を見る。


「……すまぬ」


 その声は小さかった。


 帰蝶は静かに首を振った。


「いいえ」


 それだけだった。


 だが、二人には十分だった。


 言葉など、もう必要なかった。


 信長は帰蝶を送り出した。


 それが、自分にとっても救いであることを知っていた。


 帰蝶と娘が生きていてくれる。


 それだけでよかった。


 これで――心置きなく戦える。


 この世を変えられる。


 天下を――変えられる。


 帰蝶は去っていった。


 だが、その名は消えなかった。


 信長の正室として。


 誰よりも信長を理解した女として。


 その名は、静かに歴史へ刻まれていく。

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