第二話
葬儀の日。
信長は位牌の前に進み出ると、抹香をつかみ、激しく投げつけた。
周囲の者たちは息を呑んだ。
「なんという無作法な」
「やはり、うつけだ」
ざわめきが広がる。
だが、信長の胸にあったのは怒りではなかった。
悲しみだった。
認めてくれた父が、もういない。
その事実を、どうしても受け止められなかった。
まっすぐすぎる感情は、常識という形を取らなかっただけである。
だが、それを理解する者は少なかった。
信長は、ますます「うつけ」と呼ばれるようになった。
*
翌年。
さらに信長を支えていた柱が失われた。
平手政秀が自刃したのである。
その知らせを受けた時、信長はしばらく動かなかった。
「……なぜだ」
震える声でつぶやいた。
政秀は、自分を理解してくれていた。
世間が笑っても、父とともに信じてくれていた。
その政秀が、命をもって諫めた。
信長は一人、政秀の遺書を見つめ続けた。
長い沈黙の後、静かに立ち上がった。
「父上も、政秀も、もうおらぬ」
声は不思議なほど落ち着いていた。
「ならば――わしがやるしかない」
信長の目に、かつての迷いはなかった。
孤独は変わらない。
だが、その孤独から逃げることは、もうやめた。
父と政秀が信じた自分を、今度は自分自身が信じる。
尾張をまとめる。
家中を掌握する。
そして、誰も見たことのない国をつくる。
この頃から、尾張のうつけは、少しずつ変わり始めていた。
稲生の戦い
清洲城の朝は、張り詰めた静けさに包まれていた。
その静寂を破るように、一騎の使者が城門を駆け抜けた。
「ご注進! ご注進!」
息を切らせた使者は、広間に駆け込むと膝をついた。
「織田信行 殿が兵を挙げられました! 柴田勝家 率いる千の兵、林秀貞 率いる七百、合わせて千七百ほどと見られます!」
広間にざわめきが走った。
家臣の一人が顔色を変えて言った。
「殿……我らはわずか七百。兵力差は歴然にございます」
一瞬の沈黙。
しかし、織田信長 は、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「ふふふ……」
その目は、獲物を前にした鷹のように鋭かった。
「今こそ、この鉄砲の威力を示す時ぞ」
信長は立ち上がった。
「馬鹿者がどちらか、天下に知らしめてくれよう」
そして、高らかに命じた。
「出陣じゃ!」
「おおっ!」
若き家臣たちの声が、広間を震わせた。
信長軍は 清洲城 を発した。
しばらく進み、稲生 近くに差しかかったところで、信長は馬を止めた。
兵たちは静かに主君を見上げる。
信長は声を張り上げた。
「皆、よく聞け!」
戦場の空気が凍りつく。
「この日のために、おぬしたちは鍛えてきた。鉄砲の扱いも、退き際も、突撃の間合いも、すべてだ」
信長の声には揺るぎがなかった。
「おぬしたちは、わしが選び抜いた精鋭である」
家臣たちの胸が熱くなる。
「必ず勝てる」
ただその一言が、何よりも力強かった。
前田利家、丹羽長秀、池田恒興ら若き武将たちは深くうなずいた。
やがて敵影が見えた。
柴田勝家の軍勢である。
まだ林隊との連携は整っていない。
信長の目が鋭く光った。
(今だ)
信長は軍配を振り上げた。
「突撃じゃ!」
「おおおおおっ!」
前田利家 と 丹羽長秀 を先頭に、およそ二百の精鋭が敵へ向かって駆け出した。
その様子を見た柴田勝家は鼻で笑った。
「なんじゃ、あれしきで奇襲のつもりか」
口元に冷笑を浮かべる。
「我が軍だけで片づけてくれるわ。かかれ!」
勝家軍千騎が一斉に前進した。
ところが――。
利家が叫んだ。
「退け!」
信長軍の前衛は、きれいに向きを変え、後方へ駆け戻り始めた。
勝家は勝ち誇ったように笑う。
「ふん。戦う前から逃げるか。やはり、うつけの家臣はうつけよ」
勝家軍は勢いづき、隊列を乱したまま追撃した。
その瞬間だった。
逃げていた信長軍の前衛が、左右へすっと分かれた。
その背後に並んでいたのは、黒々とした鉄砲隊。
信長の右手が静かに振り下ろされた。
「放て!」
次の瞬間。
天地を裂くような轟音が鳴り響いた。
ドドドドドン――!
白煙が一斉に噴き上がる。
前列の足軽たちが、糸の切れた人形のように次々と倒れた。
馬は嘶き、兵は悲鳴を上げる。
勝家の乗馬にも弾が命中し、大きく跳ね上がった。
「ぬおっ!」
勝家は馬上から投げ出され、地に叩きつけられた。
前列の兵が折り重なるように倒れ込む。
後続の兵は止まれず、味方同士で押し合い、隊列は一瞬で崩壊した。
何が起こったのか、誰にも分からなかった。
ただ、雷鳴のような音と、仲間が次々と倒れていく光景だけがあった。
信長は太刀を抜き放ち、叫んだ。
「今ぞ! かかれ!」
「おおおおおっ!」
鉄砲隊の後方に控えていた四百の精鋭が、一斉に突撃した。
先頭には信長自身。
その後ろに池田恒興、森可成らが続く。
混乱した勝家軍は、もはや抗う術を失っていた。
そこへようやく林秀貞の軍が戦場に到着した。
だが、その時にはすでに勝家軍は崩壊しつつあった。
信長は間髪入れず、再び命じた。
「放て!」
第二射。
轟音とともに、林軍の前列が崩れ落ちる。
「突撃!」
今度は利家と長秀が再び駆け出した。
槍が閃き、兵が倒れ、悲鳴が響く。
すべては、あまりにも短い時間の出来事だった。
勝敗は、一瞬で決した。
尾張のうつけと呼ばれた若者は、この日、戦場において自らの真価を天下に示したのである。
薄暗い広間の中央に、柴田勝家 は静かにひざまずいていた。
戦場で負った傷はまだ癒えていない。包帯の下からにじむ血が、畳に小さな染みを作っていた。
だが、その顔には痛みによる苦悶はなかった。
あるのはただ、敗れた者としての覚悟だけだった。
やがて、上座の障子が開き、織田信長 が現れた。
勝家は深く頭を垂れた。
「この勝家、信長様をうつけと呼び、謀反に加担いたしました」
声は震えていた。
「もはや、申し開きの言葉はございませぬ。この命をもって、お詫びいたします」
広間は静まり返った。
勝家は目を閉じた。
次に聞こえるのは、切腹を命じる言葉だと覚悟していた。
だが、しばらくして聞こえてきたのは、意外なほど静かな声だった。
「信行は許してやったぞ」
勝家は顔を上げた。
信長は感情を表に出さぬまま、淡々と続けた。
「母上――土田御前の懇願によってな」
そして、勝家をまっすぐ見つめた。
「弟を許しておいて、おぬしだけ腹を切らせるわけにはいかん」
「……はっ?」
勝家の口から、思わず間の抜けた声が漏れた。




