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第一話

夜の熱田神宮は静まり返っていた。


 風に揺れる木々のざわめきと、遠くから聞こえる波の音だけが、境内を包んでいる。


 社殿の奥、誰もいない薄暗い一角に、一人の少年が膝をついていた。


 織田三郎信長、十五歳。


 尾張の大名・織田信秀の嫡男でありながら、その顔には武家の跡取りらしい威厳はなく、ただ抑えきれぬ悲しみが浮かんでいた。


 信長は両手を握りしめ、震える声で天を見上げた。


「なぜだ……」


 声はかすれていた。


「なぜ、わしは嫌われる」


 その一言に、長年胸に押し込めてきた思いがあふれ出した。


「母君は弟ばかりをかわいがる。父上も、何も言ってくださらぬ」


 悔しさに唇を噛みしめる。


「わしが何をしたというのだ」


 次の瞬間、信長はその場に崩れ落ちた。


 堰を切ったように涙があふれた。


「わしは……いやなものは、いやだと言うただけだ」


 すすり泣きの間に、言葉が途切れ途切れにこぼれる。


「綺麗なものは綺麗だと言うた。ただ、それだけではないか」


 少年は拳で地面を叩いた。


「大人たちは、皆、嘘をつく」


 政略、打算、権威、見栄。


 誰も本当のことを言わない。


「わしは……ひとりぼっちじゃ」


 その声には、戦国の覇王となる男の面影はまだなかった。


 ただ、誰にも理解されず、孤独に泣くひとりの少年がいた。


「なあ……教えてくれ」


 神に向かって問いかける。


「わしは、ついに訳の分からぬ大人たちに利用され、見たこともないおなごと結婚させられる」


 斎藤道三の娘との婚姻。


 それは尾張と美濃を結ぶための政略結婚にすぎない。


「わしの人生は、誰のものなのだ」


 信長はうつむき、声を殺して泣き続けた。


 その姿を、社殿の障子の隙間からじっと見つめる小さな影があった。


 まだ六歳の少年。


 松平竹千代。


 後の徳川家康である。


 人質として尾張に送られ、自由を奪われた幼い竹千代は、その夜、偶然この場所に迷い込んだ。


 そして見た。


 誰も恐れる「うつけ」と呼ばれる少年が、神の前でひとり涙を流す姿を。


 その姿は、幼い竹千代の胸に深く刻み込まれた。


 この人もまた、自分と同じように孤独なのだ。


 竹千代はそう感じた。


 言葉を交わすことはなかった。


 だが、この夜の出来事は、二人の運命を静かに結びつけた。


     *


 翌年。


 織田信長と斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)の祝言が盛大に執り行われた。


 家中では噂が飛び交った。


「道三殿は、あのうつけに娘を嫁がせた」


「いずれ織田家を乗っ取るつもりではないか」


 人々は面白半分にささやいた。


 だが、当の信長にはどうでもよかった。


 祝言を挙げたものの、信長は濃姫と床を共にしなかった。


 父や家臣たちの思惑通りになることが、どうしても我慢ならなかったのである。


(親父たちの思惑には乗らぬ)


(子など作らぬ)


(まして、あんな気の強いおなごは好かぬ)


 そう心に決め、信長は相変わらず好き勝手に振る舞った。


 人々はますます彼を「うつけ」と呼んだ。


     *


 信長は海が好きだった。


 熱田の浜辺に立ち、水平線を眺める時間が何よりも好きだった。


 漁船が帰ってくる。


 魚が揚がる。


 商人たちが威勢よく声を上げ、荷が運ばれていく。


 海は、見ているだけで胸が躍った。


(海があれば、何もいらぬ)


 信長は思った。


(土地を奪い合う必要もない)


(くだらぬ争いもない)


(人も物も、自由に行き来できる)


 その浜辺で、信長はしばしば相撲を取った。


 相手は近くの子どもたち。


 そして、その中には竹千代の姿もあった。


 竹千代に唯一許されていた外出先が、熱田神宮への参拝と、この浜辺だった。


 幼い身体で何度挑んでも、十五歳の信長に勝てるはずがない。


 だが、竹千代は何度倒されても立ち上がった。


 砂まみれになりながら、また向かってくる。


 その姿を見て、信長は笑った。


「また来たか、竹千代」


 竹千代は唇を結び、黙って構える。


 その目には、幼いながらも強い意志が宿っていた。


 信長はその目が好きだった。


 自分と同じ目をしていると思った。


 孤独に耐え、誰にも屈しない目。


 何度倒されても、立ち上がる目。


 信長は竹千代を見つめながら、心の中でつぶやいた。


(いつの日か……)


(この童とともに、この腐った世を変えてみたいものよ)


 潮風が二人の間を吹き抜けた。


 その時、彼らはまだ知らない。


 やがて一人は天下統一の礎を築き、


 もう一人はその天下を完成させることを。


 だがすべては、この熱田の浜辺から始まったのである。


信長物語 うつけ(続き)


 濃姫 を正室に迎えても、織田信長 の暮らしは何ひとつ変わらなかった。


 朝になれば城を抜け出し、熱田の浜へ向かう。


 漁船の動きを眺め、魚の値を聞き、商人たちのやり取りに耳を傾ける。


 時には町の若者たちと相撲を取り、砂まみれになって笑った。


 その姿を見て、家臣たちは顔をしかめた。


「祝言を済ませても、相変わらずか」


「やはり、あのお方は本物のうつけよ」


「尾張の行く末が思いやられる」


 陰ではそんな声が絶えなかった。


 だが、その信長を、ただのうつけと見ていない者が二人だけいた。


 父の 織田信秀 と、傅役の 平手政秀 である。


     *


 ある日、政秀は信秀にこう報告した。


「殿。若君の御質問は、ことごとく急所を突いております」


「急所とな?」


「はい。兵の動かし方、鉄砲の使い方、商いの仕組み――どの話をしても、若君は必ず『なぜそうするのか』『こうすればもっと良いのではないか』と問われます」


 信秀は静かにうなずいた。


 政秀は続けた。


「しかも、その考えがいずれも理にかなっております。恐ろしいほどに」


 信秀の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「やはり、そうか」


 世間が何と言おうと、信秀は知っていた。


 嫡男の胸の内に、並外れた才が眠っていることを。


 商いに対する鋭い感覚。


 戦場全体を見渡す広い視野。


 そして、誰にもとらわれぬ自由な発想。


 それらは、いずれ尾張のみならず、この国の姿さえ変えるかもしれない。


 信秀はその可能性に賭けていた。


 そのためにも、美濃の雄 斎藤道三 との同盟は欠かせなかった。


 道三の娘・濃姫を信長に嫁がせたのも、その一手である。


 そして信秀は、政秀に命じた。


「三郎を頼む。あれを一人前に育ててくれ」


 政秀は深く頭を下げた。


「命に代えましても」


     *


 信長は、意外なほど学ぶことを好んだ。


 兵法、馬術、弓術、鉄砲。


 商いの仕組み、諸国の情勢、人の使い方。


 一度教えれば、すぐに本質を見抜いた。


 いや、ただ覚えるのではない。


 必ず、その先を考えた。


「なぜ、そのようにする」


「もっと良い方法はないのか」


 問いは尽きなかった。


 政秀は教えるたびに驚かされた。


 だが、あまりにも飲み込みが早すぎた。


 型にはめるより、自由にさせた方が伸びる。


 政秀はそう判断し、あえて細かく縛らなかった。


 世間には、それが好き勝手に振る舞っているように見えた。


 だが信長は、誰よりも多くのことを見て、考えていたのである。


     *


 翌年。


 信秀の病が重くなった。


 信長は父の枕元に座った。


 かつて恐ろしく見えた父の顔は、驚くほど小さく見えた。


「三郎……」


 かすれた声で信秀が呼ぶ。


 信長は黙って膝を寄せた。


「人の言葉に惑わされるな」


 信秀は苦しげに息を継ぎながら言った。


「おぬしの思うままに進め」


 それだけを言い残し、信秀は静かに目を閉じた。


 信長は、その手をしばらく握ったまま動かなかった。


 父の言葉は短かった。


 だが、その一言で十分だった。


 父は、自分を信じていた。


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