第9話 剣しか信じない男
ナーイラの北門に王都騎士団の旗が見えたのは、港の風が妙に乾いていた日の昼下がりだった。
青銀の紋が入った外套は、海風の町にはひどく場違いに見える。市場の女たちは道の端へ寄り、子どもは物珍しさから追いかけ、荷運びの男たちは「また視察か」とでも言いたげに顔をしかめた。
先頭を歩く若い騎士は、馬から降りた時の動きまで無駄がなかった。背は高く、剣帯の位置も足幅もきっちり揃っている。鍛えられたというより、自分で毎日そこへ戻してきた体だとわかる。だが、その目は町を見ていなかった。瓦の欠けた屋根も、濡れた荷縄も、子どもが咳をしているのも、一度にまとめて「守る対象」へ入れている目だ。
つまり、細かいところは見えていない。
「討伐支援で来たシルバだ」
若い騎士は港の詰所でそう名乗った。
「近郊の崖道に出る潮牙狼の群れを払う。避難誘導は町側でやれ」
サルマンが片眉を上げる。
「挨拶が先じゃないのか」
「仕事をしに来た」
「こっちも毎日してる」
空気が少しだけ尖る。そこでアルハシムが一歩前へ出た。
「雨待ち亭で、負傷者の受け入れをしています。討伐の時間が決まったら、先に教えてください。崖道から走って来る人と、港へ逃げる人がぶつからないようにしたい」
シルバの視線が初めてこちらへ向いた。
「君は?」
「アルハシム。帳場寄りです」
「戦えない者か」
ずいぶん綺麗に切り分ける口だと、アルハシムは思った。
「剣では戦いません」
「なら後方へ」
シルバはそれで話を終えたつもりらしく、地図を広げた詰所の机へ向き直った。崖道、倉庫街、逃げ道、鐘楼。線を引く手つきは迷いがない。実力は本物なのだろう。
だが、その日の夕方、潮牙狼は彼の想定より一刻早く現れた。
最初に悲鳴が上がったのは北門ではなく、崖道から外れた荷馬車置き場だった。霧の混じった風に紛れて二頭が先に回り込み、積み荷に噛みついたのだ。馬が暴れ、樽が転がり、驚いた市場帰りの人々が門へ殺到する。
「門を閉じろ!」
誰かが叫んだ。
「閉じたら外の荷運びが戻れない!」
別の叫びが重なる。
人の流れが一気に乱れた。
シルバはすぐ前へ出た。剣を抜く音は鋭く、飛びかかった一頭の前脚を正面から払う。金属と牙が打ち合う音が響き、子どもが泣き出した。
戦う速さは確かにすごかった。だが、速いからこそ、後ろの混乱に目が向かない。
門へ逃げようとする群れと、崖道へ家族を探しに行こうとする男たちがぶつかり、荷車が横転しかけている。このままでは狼より先に人が潰れる。
アルハシムは鐘楼の下へ走った。
「サルマンさん!」
「いる!」
「市場側の道を開けて、子どもと老人を先に港へ。荷車は横倒しのまま壁に寄せる。馬の頭を北へ向けないで!」
「誰に言えばいい!」
「声の大きい人みんなに!」
雨待ち亭で覚えた雑な命令が、ここでは正しかった。サルマンが怒鳴る。市場の女将がさらに怒鳴る。荷運びの親方が馬の手綱をつかみ、子どもを抱いた母親たちを横道へ流す。
アルハシムは鐘楼の段へ飛び乗り、門前の人波へ向けて声を張った。
「走らない! 走ると後ろが見えない! 白い桶を持ってる人について左へ! 赤い布の人は怪我人を壁際!」
白い桶を持っていたのは、ちょうど水を運んでいた酒場の下働きだった。赤い布は、偶然にも染物屋の女が肩へ掛けていたものだ。整っていない町の中で、今使える目印を即席で拾うしかない。
その時、胸の奥にざらつくような感触が走った。
――娘が、まだ向こう。
振り向くと、門柱の陰で動けなくなっているパン屋の男がいた。顔は門の外を向き、足が動いていない。視線の先、崖道の下り口で、小さな女の子が転んでいる。
シルバは一頭を斬り伏せ、二頭目を追っていた。今呼んでも間に合わない。
「ロープ!」
アルハシムが叫ぶと、荷運びの青年が反射的に縄束を投げた。彼はそれを門柱へ巻きつけ、近くにいた二人へ押しつける。
「持って! 人が飛び出さないように横に張る!」
「お前は!」
「子どもを連れてくる!」
走り出した瞬間、横から影が飛んだ。シルバだった。
「君は後方だろう!」
「今その話してる場合じゃない!」
アルハシムが指した先を見て、シルバの顔色が変わる。言い返すより早く、彼は地を蹴った。鋭く低い踏み込みで狼の横を抜け、転んだ女の子を抱え上げる。その背に別の一頭が飛びかかったが、シルバは半身で受け流し、肘で地面へ叩きつけた。
門内へ戻ってきた時には、縄の柵ができていた。人波が二つに割れ、怪我人の通り道まで細く通っている。
「右へ三人流して! 怪我の足はそっちじゃない!」
アルハシムが声を飛ばす。
「水場を空けるな! 噛まれた人は先に洗う!」
シルバは女の子を父親へ返し、そのまま荒い息でこちらを見た。
「……君」
「今は感想いりません。次、来ます」
崖道の上で、さらに遠吠えが重なった。
だが今度は、人の流れが潰れなかった。縄で仕切り、目印を置き、誰がどこへ動くかが周囲の口から口へ伝わっていく。シルバは前へ出るたび、背後を一度だけ見るようになった。どこに怪我人を通し、どこに剣を振るえば味方を巻き込まないか。その一瞬の確認が、動きをさらに正確にした。
日暮れ前には群れは払われ、北門の混乱も収まった。
雨待ち亭へ運び込まれたのは、咬傷が三人、転倒による骨折が一人、擦過傷が十数人。死者は出なかった。
エスメラルダが最後の包帯を結び終えたころ、シルバが店の入口に立った。外套の裾には泥と血がつき、額に張りついた髪も乱れている。王都で整っていた線が、ようやく町の風に揉まれた顔だった。
「アルハシム」
「はい」
「さっきの縄の柵、君の指示か」
「半分は荷運びの青年です。投げるのがうまかった」
「そういうことを聞いているんじゃない」
珍しく、言葉の置き場を探している声だった。
シルバは少し黙ってから言う。
「俺は、斬れば片づくと思っていた」
「斬って片づくこともあります」
「だが、今日はそれだけじゃ駄目だった」
アルハシムは答えずに、水差しを一つ差し出した。シルバは受け取って一息に飲み干す。
「……剣しか信じていなかった」
「今も信じていてください。前に出る人が迷うと困ります」
「君は」
「俺は、前に出る人が迷わないように、後ろを片づけます」
店の奥で、サルマンが満足そうに鼻を鳴らした。
シルバは空になった杯を見て、少しだけ口元を引いた。笑ったというほどではないが、最初に詰所で見た時の硬さは消えていた。
「次の討伐は、先に君へ時間を伝える」
「助かります」
「……それと」
彼は一拍置き、ぎこちなく続けた。
「口先だけじゃなかった」
「褒め言葉として受け取っておきます」
夜の帳が下りる頃、雨待ち亭の裏口には、討伐の傷を診てもらう順番待ちの騎士見習いたちまで並んでいた。
その列を見たクロエが、静かに呟く。
「口先だけの人、ずいぶん増えた」
アルハシムは振り向く。
「それ、俺のことまだ言ってます?」
「半分は」
残り半分は、たぶん違う。
剣だけでは守りきれない日がある。そのことを、若い騎士も、町の人間も、今日ひとつ覚えたのだった。




