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追放された転生満床調整係、辺境喫茶で命をつなぐ  ――テレパシー持ちの俺は、満員の治療院も嵐の港町も回してみせる――  作者: 乾為天女


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第10話 満腹より先に安心を

 北門の騒ぎから二日後、雨待ち亭の厨房では、見慣れない鍋が三つ並んでいた。


 一つ目は麦を多めに煮た薄い粥。二つ目は塩を控えた白身魚のすり流し。三つ目は、細かく刻んだ根菜を柔らかく煮込んだ黄いろい汁だ。どれも店の昼食として出せなくはないが、客が「おすすめ」を尋ねてきた時に胸を張って出す料理ではない。


 店主は鍋を見下ろし、複雑そうな顔をしていた。


 「地味だな」


 「病人向けですから」


 エスメラルダが即答する。


 「腹を壊してる人に香辛料たっぷりの煮込みを出せるわけないでしょう」


 「わかるけど、こう……喫茶店としての景気が」


 「景気より先に胃袋の平和です」


 アルハシムが木札へ料理名を書きながら口を挟む。


 『やさしい粥』

 『魚のすり流し』

 『柔らかい根菜の汁』


 書いてから、自分でも少しだけ悩んだ。


 「名前が弱いですね」


 「料理も弱いだろ」


 「弱くていいんです」


 クロエは黙って鍋の様子を見ていた。彼女は普段、注文の通る時間には必要なことしか言わない。けれど今朝は、客席から下げてきた皿を並べるついでに、いつもより何度も厨房へ顔を出していた。


 アルハシムはその視線の動きに気づいていた。


 昨夜の記録では、熱が下がりきらない子どもが三人、食欲不振が続く漁師が二人、怪我の痛みで眠れず食べられない騎士見習いが一人。診療だけで帰しても、家で何を口に入れればいいかわからない者が多い。


 「昨日の荷運びの青年、干し肉をかじって吐いたそうです」


 アルハシムが言うと、店主が顔をしかめた。


 「そりゃ無茶だ」


 「無茶だとわからない時ほど、腹が減るんです」


 エスメラルダがうなずく。


 「熱があるのに揚げ菓子を食べて、さらに胃を荒らす人もいるわ」


 そこでクロエが初めて口を開いた。


 「飲み残し、三日前から増えてる」


 全員の視線が彼女へ向く。


 「薄い茶は半分残る。珈琲は匂いだけ嗅いで置く人が多い。硬いパンは端だけちぎって、そのまま」


 言いながら、彼女は洗い桶の横へ並べていた皿を一枚ずつ指した。


 「咳の人は汁だけ飲む。腹が痛い人は白いところしか食べない。熱がある子どもは、甘い果の煮汁なら口にする」


 店主が目を丸くした。


 「見てたのか」


 「店だから」


 いつもの短い返事だったが、それだけで十分だった。クロエは皿を運び、注文を覚え、床を拭きながら、誰が何を残したかまで見ている。無関心に見える顔の裏で、店の空気を一番細かく拾っているのは彼女なのだ。


 アルハシムは木札を置き、鍋の横へ寄った。


 「では、熱のある子向けに果の煮汁を少し。咳の人向けに、とろみをつけた汁を別鍋で。腹痛の人には塩を抜きすぎない」


 「抜きすぎると飲まない」


 クロエがすぐに足す。


 「そう。それです」


 彼女は少しだけ眉を寄せた。


 「何が」


 「見ていたことが、全部使える」


 「捨てるのが嫌だっただけ」


 「十分です」


 昼前、店の入口に新しい札が出た。


 『食べやすいものあります』


 これもクロエの字だった。相変わらず飾り気はないが、何の店なのかは一目で伝わる。


 最初に頼んだのは、咳の長引く染物屋の女だった。恐る恐る白身魚のすり流しをすすり、しばらく黙ってから、小さく息をつく。


 「喉が痛くない」


 その一言で十分だった。


 続いて、北門で腕を噛まれた騎士見習いが粥を頼み、熱の下がりかけた子どもが果の煮汁を舐める。仕事を終えた漁師が「腹に優しいなら」と根菜の汁を注文し、結局はおかわりまでした。


 店主は最初こそ不服そうだったが、鍋の減り方を見て考えを改めたらしい。


 「派手じゃないのに売れるな」


 「困ってる人に合ってるからです」


 「喫茶店の儲けとしてどうなんだ」


 「夜の診療所の続きだと思えば」


 「それ言われると弱い」


 午後遅く、いつもの魚市場の女将が喉を鳴らしながら入ってきた。席に着くなり、威勢よく言う。


 「座らせ屋! 今日は何を食わせる!」


 「呼び名が定着しすぎでは」


 「いいから、腹に優しくて気が晴れるやつ」


 難題だなとアルハシムが思った瞬間、クロエが横から皿を置いた。


 薄い粥の上に、香草をほんの少し散らしてある。匂いは柔らかく、見た目だけが少し明るい。


 「気が晴れる方」


 女将は怪訝そうに一口食べ、それから鼻を鳴らした。


 「こういうのでいいんだよ」


 どこかで聞いたような物言いに、店主が吹き出し、厨房の空気が少し和らぐ。


 昼の客が引いたあと、アルハシムは洗い上がった皿を拭くクロエの隣へ立った。


 「ありがとう」


 「何が」


 「残し方まで見てくれていたこと」


 クロエは皿の水気を払う手を止めない。


 「見るしかないでしょ。客は自分で言わないから」


 その言葉に、アルハシムは少しだけ笑った。


 「そうなんですよね」


 「何」


 「困ってる人は、自分で言わないことが多い」


 彼女はそこで初めて、横目だけを向けた。


 「だから、あんたは勝手に拾うわけ」


 「勝手にというと聞こえが悪いですね」


 「半分悪い」


 「残り半分は」


 「役に立つ」


 短い返事だったが、妙に胸へ残った。


 夕方、夜の診療が始まる前に、エスメラルダが新しい帳面へ料理の欄を加えた。


 処置だけではなく、そのあと何を食べられたか。食べられなかったか。それも回復の一部だからだ。


 雨待ち亭は、喉の渇きを癒やすだけの店ではなくなっていた。


 満腹より先に、安心がいる夜がある。


 その夜に温かいものを出せる場所があるだけで、人は少しだけ明日へ戻りやすくなる。アルハシムは空になった鍋を見ながら、この町の椅子だけでなく、器の置き場もまた、自分の仕事になり始めていることを知った。



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