第11話 公と私の線引き
朝の雨待ち亭は、珈琲の香りより先に紙の匂いがしていた。
窓際の四人席を占領しているのは、湯気の立つ杯ではなく、積み上がった帳簿だった。ジュエルは袖口をきっちり留め、港支店の仕入れ帳、運送控え、診療所で使った薬の記録を横一列に並べている。紙の端を揃える動きまで妙に正確で、その几帳面さだけで近寄りがたい空気ができていた。
アルハシムは、彼女の正面ではなく、一つずらした席へ腰を下ろした。真正面だと身構える相手でも、少し斜めにすると話しやすくなる。最近この町で身についた癖だ。
「朝から難しい顔ですね」
「難しい顔で済むならいいのだけれど」
ジュエルは顔を上げないまま、一冊の帳簿を指先で弾いた。
「この月、港へ届いた解熱薬は四十箱。支店から中央へ上げた報告でも四十箱。けれど、実際に町へ流れた数を追うと二十八箱しか見えないの」
「十二箱、消えてる」
「消えているという言い方は好きじゃないわ。誰かが意図して消したのなら、最初からそこに無かったことにされたのよ」
言葉の冷たさの奥で、彼女の指がわずかに紙を押しすぎていた。糸のような緊張がある。
エスメラルダが厨房口から身を乗り出した。
「数え間違いではないのですか」
「数え間違いなら、私は監査役を辞めるわ」
即答だった。そこで初めて、サルマンが低く笑う。
「怖いこと言うねえ」
「怖くない仕事ほど、あとで人を泣かせるものよ」
彼女は次の帳簿を開いた。そこには、ナーイラ支店の確認印が押されている。見慣れた商会印の横に、細い筆致で担当者名が添えられていた。
ジュエルの名ではない。だが、権限の線は彼女の部署へつながっていた。
アルハシムは、胸の奥へ沈みかけた重いものを拾う。――私がここで情に流されたら、証拠ごと腐る。けれど、切ればこの店が傷む。そんな二つの思いが、帳面の隙間からにじんでいる。
「商会の人間が絡んでる可能性、ありますか」
「ある、では済まないわ。帳面だけ見れば、もう片足は入っている」
ジュエルはそう言ってから、わずかに視線を伏せた。
「私はここ数日、この店へ出入りしすぎた。診療の現場も見た。あなたたちが不正をしていないことも知ってしまった。その状態で私が調査を続ければ、誰かに『肩入れした』と言われる」
「事実を見たんだから、肩入れとは違うだろ」
サルマンが言うと、彼女は首を横に振った。
「違うかどうかを決めるのは、私ではないの」
店の空気が少しだけ重くなる。クロエが黙って新しい湯を置いていったが、誰もすぐには手をつけなかった。
ジュエルは帳簿を閉じ、まっすぐアルハシムを見た。
「今日をもって、この店との情報共有はいったん止めるわ。私は商会の監査役として、商会の中だけを洗う。あなたたちは、あなたたちで動いて」
エスメラルダが息をのむ。サルマンは何か言いかけて、やめた。
アルハシムだけが、すぐには止めなかった。
引き止めれば、彼女は残るかもしれない。だが残り方を間違えれば、帳簿も証言も全部が曇る。そうなれば町を救う札が一枚減るどころか、札束ごと燃える。
彼は卓上の木札を指で回しながら、穏やかに言った。
「切るなら切ってから、あとで戻ればいい」
ジュエルの眉が、ほんの少しだけ動く。
「……簡単に言うのね」
「簡単ではないです。でも、中途半端が一番まずい。あなたが商会の中を洗うなら、今はそれが一番効く」
「私が戻らなかったら?」
「そのときは、そのときです。戻らないと決めた人を、席に縛る趣味はありません」
軽く言ったつもりだったが、ジュエルはしばらく黙っていた。やがて、口元だけでかすかに笑う。
「あなた、親切なのか突き放しているのか分からないわね」
「両方かもしれません」
「困るわ」
「監査役ですから、困るのも仕事でしょう」
サルマンが吹き出し、エスメラルダもようやく息をついた。重かった空気に、細いひびが入る。
ジュエルは帳簿を抱え、席を立った。扉へ向かって二歩進み、それから振り返る。
「一つだけ。今日から港の北倉庫に入る荷は、必ず匂いを見て。帳面の上では正規品でも、現物が違うかもしれない」
「それは、情報共有では」
アルハシムが言うと、彼女は涼しい顔で返した。
「独り言よ」
「よく通る独り言ですね」
「商会育ちの特技なの」
扉の鈴が鳴り、彼女は朝の風の中へ出ていった。
その背を見送りながら、エスメラルダが小さくつぶやく。
「戻ってくるでしょうか」
アルハシムは、まだ温かいままの杯へ手を伸ばした。
「戻るかどうかより、戻ってこられる形で送り出せたかです」
クロエが皿を拭きながら、ぼそりと言った。
「面倒くさい店」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「勝手にしたら」
昼前、入口の鈴がまた鳴り、発熱した子どもを抱えた母親が駆け込んできた。雨待ち亭はいつもの顔へ戻る。帳簿の山は片づいても、困りごとは次から次へ席へ座る。
アルハシムは受付札を整えながら、さっき空いた窓際の四人席を一度だけ見た。空席を空席のままにしておく時間は、長くない方がいい。
誰かが戻る余地だけは、残しておけばいいのだ。




