第12話 秋刀魚俳句
ナーイラの秋祭りは、思っていたよりずっと煙たかった。
港通りの真ん中に炭火台が並び、細長い青魚がじゅうじゅう音を立てる。焼けた脂が火へ落ちるたび、白い煙が夜気へ舞い、塩と海の匂いが町じゅうへ広がった。雨待ち亭も今夜だけは診療札を片づけ、店先に七輪を出している。
「これが秋刀魚です」
サルマンが串を返しながら胸を張ると、アルハシムは煙に目を細めた。
「魚の名前にしては、妙に秋らしい響きですね」
「秋だからだろ」
「雑な説明ありがとうございます」
隣でクロエが、焼き上がった魚を無言で皿へ移す。腹の裂き方がきれいすぎて、普段から魚を触っている手だと分かる。店主は塩加減を巡って近所の魚屋と喧嘩し、エスメラルダは白衣ではなく祭り用の落ち着いた色の上着を着ていた。いつもより少しだけ肩の力が抜けている。
祭りの目玉は、焼いた秋刀魚を食べながら一句詠むことだった。季節の感想でも、近所の悪口でも、恋心でもいい。気の利いた句を詠んだ者には、来年の港倉庫で使える炭一袋が贈られるという、妙に実利的な賞までついている。
「俳句、ですか」
アルハシムが呟くと、年配の漁師が笑った。
「難しく考えるな。五七五っぽければ勝ちだ」
「っぽければ」
「それで毎年揉めるのよ」
エスメラルダが肩をすくめる。
最初に句を披露したのは魚市場の女将だった。
『塩が飛ぶ あんたの嘘も 火に落ちろ』
場がどっと沸く。誰に向けた句なのかは明らかだったが、本人はしれっと秋刀魚を齧っていた。
続いてサルマン。
『炭足りぬ 去年も言ったが 足りてない』
「実務的すぎる」
「暮らしは大事だろ」
クロエは頼まれてもすぐには詠まなかったが、子どもたちに急かされ、面倒そうに一つだけ口にする。
『皿洗い 終わらぬうちに 祭り終わる』
「現実!」
アルハシムが笑うと、彼女は焼き網を睨んだまま言った。
「本当のこと」
順番が回ってきたアルハシムは、しばらく悩んだ末に口を開いた。
『秋刀魚焼き 煙の向こうで 席が足りぬ』
一拍の沈黙のあと、サルマンが腹を抱えた。
「祭りでまで席勘定するのかお前は」
「職業病です」
「職業って何」
クロエが聞く。
「今となっては、なんでしょうね」
そこへ、少し遅れてジュエルが現れた。祭り用の簡素な外套姿で、普段の監査役然とした固さがいくらか薄い。彼女は焼き魚を一本受け取りながら、さらりと一句を置いた。
『数合わぬ 帳面笑わぬ 秋の夜』
周囲が一瞬静まり、それから妙に感心したような声が上がる。
「怖い句だなあ」
「賞、取れるんじゃないか」
ジュエルは肩をすくめただけだったが、彼女がここへ来たこと自体が、誰よりはっきりした合図だった。
祭りの後半、年寄りたちが昔の句を持ち寄り始めた。木箱から出てきた古びた冊子は、海風に角が丸くなっている。クロエの祖母の名が表紙にあった。
「うちの婆さん、毎年書いてたから」
クロエが言う。アルハシムは何気なく頁をめくり、ある句で指を止めた。
『西の杭 鳴る夜は七つ 子を上へ』
「……これ、避難の指示に見えます」
エスメラルダが身を乗り出す。
「上へ、というのは高台?」
サルマンも別の頁を覗き込んだ。
『三番の石 欠けたら縄を 二重掛け』
「防波設備だな。西堤の三番石は、昔から傷みやすい」
さらに読み進めると、季節の句に見えたものが次々と別の顔を見せ始めた。
『白波や 鐘ひとつ前に 舟返せ』
『青い月 南の坂は 灯を三つ』
『魚焼けば 煙まっすぐ 北を見る』
遊び半分の暗号ではない。嵐の来る夜に、どこを点検し、どこへ逃がし、何を目印にするか。海鳴りの民が口伝えだけでは消えると知って、祭りの句へ紛れ込ませた記録だ。
ジュエルが冊子の端をそっと押さえた。
「帳簿より賢い残し方をするのね」
「隠すなら、毎年みんなが口にする形が一番ですから」
アルハシムが答えると、クロエは少しだけ遠い顔をした。
「婆さん、俳句が好きだったわけじゃない」
「じゃあ何で」
「忘れないように。笑いながら言える形にしたかったんだと思う」
周囲ではまだ祭りの笑い声が続いている。魚を焼く音、炭をつつく音、誰かが失敗した句に野次を飛ばす声。その真ん中で、冊子の中だけが妙に静かだった。
アルハシムは頁の順番を指で追った。句の並びが、港の西から南へ、最後に北へ移る。到来時期、点検箇所、避難の流れ。ばらばらに見える五七五が、一本の地図になっていく。
「これ、嵐の手順書だ」
サルマンが頷く。
「しかも、かなり具体的だ」
エスメラルダは句集を抱え、祭りのざわめきの向こうを見た。
「息抜きの夜のはずだったのに」
「息抜きの夜だから残ったんでしょう」
アルハシムはそう言って、皿の上の焼き魚へ箸を伸ばした。冷めかけているのに、不思議とうまい。
そのとき、魚市場の女将がこちらへ大声を飛ばしてきた。
「おい座らせ屋! 賞はあんたじゃないよ! その句じゃ炭はやれない!」
「え、僕けっこう手応えあったんですが」
「働きすぎの句に手応え持つな!」
笑いが起きる。だがその笑いの裏で、雨待ち亭の面々は同じものを見ていた。
炭火の赤、冊子の黒い文字、港へ吹く秋の風。
秋刀魚俳句は、ただの祭りの余興では終わらなかった。この町が何度も嵐をくぐり抜けるために、笑いながら残してきた救命の言葉だった。




