第8話 隣に座る順番
雨待ち亭が「夜だけ診る店」として町に馴染み始めると、一番先に増えたのは患者ではなく、文句を言う元気のある連中だった。
熱にうなされる者や血を流す者は、赤札を見れば黙る。だが、肩の痛みが三日前から続いているとか、咳が長引いて夜だけつらいとか、そういう者ほど自分の順番に敏感になる。命に別状はないと頭ではわかっていても、苦しい時の十分は長い。
その晩も、日が沈んで間もなく、裏口の屋根下で口論が始まった。
「俺が先だ、さっきから待ってる!」
「待ってるのはこっちも同じだよ! 港から走って来たんだ!」
片方は漁網職人の男で、もう片方は魚市場の女将だった。男は肩を押さえ、女将は喉を鳴らしながら咳をしている。どちらも命に関わるほどではないが、声だけなら戦争でも始まりそうだ。
裏口番をしていたサルマンが面倒くさそうに腕を組む。
「元気なら最後でもいいんじゃないか」
「よくない!」
二人の怒鳴り声がぴたりと重なった。
アルハシムは札箱を持ったまま、その様子を眺めた。後ろには、腹を押さえた少年、眠そうな子どもを背負った母親、仕事帰りの石工が並んでいる。この二人を正面から押さえつけても、その場は静まっても列の空気は悪くなるだけだ。
「席、変えます」
アルハシムが言うと、漁網職人が噛みついた。
「順番を飛ばす気か」
「飛ばしません。座る場所を変えるだけです」
「何が違う」
「だいぶ違います」
彼は屋根下に並べた長椅子を指さした。裏口に近い二席は、出入りのたびに風が当たり、咳の強い者には向かない。逆に窓寄りの端は、薄い湯気が届くから子どもが落ち着きやすい。真ん中は目が届きやすいが、気の強い者同士を並べると面倒が増える。
アルハシムはまず女将へ向いた。
「あなたはこっち。壁際です。咳の飛沫を散らしたくないから」
「追いやる気かい」
「違います。隣に、声の小さい子どもを置きたいので」
女将はむっとした顔のまま、背負い紐の子どもを見て、ぶつぶつ言いながらも壁際へ移った。
次に漁網職人へ向く。
「あなたは反対側。肘を卓へ乗せられる席です」
「肩が痛いって言ったの、聞いてたのか」
「聞いてなかったらそこに座らせません」
男は少し拍子抜けした顔で座る。肩を浮かせずに済む姿勢へ収まると、それだけで怒鳴る勢いが半分になった。
子ども連れの母親は窓寄りへ。腹痛の少年はすぐ動けるよう中央へ。石工は背もたれのある椅子へ。アルハシムが札の色を変えるより先に席を入れ替えていくのを見て、後ろの列まで妙に静かになった。
クロエが裏口から顔を出す。
「何してるの」
「火消しです」
「水も出てないのに」
「人の火は座らせる方が早い時があります」
その会話に、女将が鼻を鳴らした。
「ずいぶんな言いぐさだね」
「でも、さっきより咳が出にくいでしょう」
女将は文句を返そうとして、一度だけ喉を鳴らし、口をつぐんだ。壁際は風が当たりにくく、確かに少し楽なのだ。
中へ通されてからも、その調子は続いた。
長椅子の右端に座ると不安で落ち着かない老人は、店内が見渡せる席へ移すだけで呼吸が整った。いつも夫婦で怒鳴り合う乾物屋の二人は、あえて卓を別にして間へ湯桶を置いたら、診察が終わるまで喧嘩を忘れた。待っているだけで顔色が悪くなる荷運びの若者には、入口に近い席ではなく、厨房から匂いの届く場所を選んだら食欲の有無まで見えやすかった。
エスメラルダが診察の合間に呟く。
「あなた、今日は座らせてばかりね」
「立たせておくより楽ですから」
「患者が?」
「みんなが」
その言葉通り、診る側も動きやすかった。誰が次に中へ入るか一目でわかり、重症の者を通す時も無用な揉め事が起きない。札の色より前に、席の位置で空気が整う。
夜半過ぎ、最後の患者を送り出したあと、店主が帳面を見ながら感心したように首を振った。
「今日は皿が一枚も割れなかった」
「診療所で皿が割れる基準がまず変です」
「昨日まで二枚割れた」
「昨日までの基準でも変です」
クロエが食器を重ねながら、ぽつりと言った。
「座らせ屋」
アルハシムが振り向く。
「今、俺のことですか」
「他に誰がいるの」
サルマンが低く笑う。
「悪くないな。おい、座らせ屋。外の長椅子、明日もう一本増やすか?」
「呼び名が定着する前提で話を進めないでください」
「もう遅いんじゃない?」
エスメラルダまで平然と言う。
翌日の昼、噂は本当に町へ広がった。
「夜の店へ行くなら、座らせ屋の言うとおり座れ」
「喧嘩してても席を変えられると黙る」
「窓際に座ると咳が楽らしい」
好き勝手に尾ひれがついていたが、結果として裏口の列は前より整った。誰も彼も従順になったわけではない。それでも、「この席に座れ」と言われた時、怒鳴るより先に一度だけ腰を下ろしてみる者が増えた。
その夜、いつもの魚市場の女将が再診に来て、壁際の席へ自分から座った。
「今日はあたし、ここだろ」
「覚えてましたか」
「楽だったからね」
そう言ってから、女将は小さな包みを卓へ置いた。炭火で炙った小魚だった。
「座らせ賃」
「そういう料金制じゃないんですが」
「うるさいよ。食べるか、返すか」
クロエが横から包みをひょいとさらう。
「返さない。厨房に回す」
「勝手だねえ」
「店だから」
女将が笑い、アルハシムもつられて笑った。
椅子を動かすだけで、町の全部がよくなるわけではない。
それでも、誰がどこへ座るかで、今夜を少し穏やかにできる。その小さな積み重ねが、雨待ち亭にしか作れない流れになり始めていた。




