第7話 苦い珈琲と苦い帳簿
夜だけ診療所を始めて三日目の午後、雨待ち亭の客席には、珈琲の香りに混じって乾いた薬草の匂いがうっすらと残っていた。
昼の客はそれに文句を言うでもなく、むしろ前より静かに座っている。昨夜、自分の隣の家の子どもが熱を下げてもらったとか、荷運びの親方が腹を抱えて転げたあと歩いて帰れたとか、そんな話が町の中を先に回っていたせいだろう。店の壁に新しく打たれた棚の釘の音にさえ、誰も不思議そうな顔をしない。
アルハシムはカウンターの端で帳面を繰っていた。夜の診療記録を、朝の会計とは別に綴じるためだ。熱、怪我、咳、腹痛、再診の有無。丸と線の印だけでも、三日分並べれば町の体調が見えてくる。
「その帳面、見せてもらっていいかしら」
声をかけてきたのは、港から来た監査役の女だった。
初日に見た時と同じ灰色の上着を着ているのに、今日は旅塵が少ない。つまり、宿を決めて何日か滞在する気なのだろう。ジュエルは椅子へ腰を下ろす前に、まず卓の上の伝票と壁の棚と厨房の位置を一度で見た。目線が金勘定の人間そのものだと、アルハシムは思った。
「会計の帳面ではないですよ」
「ええ。だから見たいの」
「理由は」
「理由がないと、珈琲一杯も頼めない店?」
クロエが何も言わずに水を置く。ジュエルは礼だけを言ってから、まっすぐアルハシムを見た。
「港に届く薬の量と、町で消えていく薬の量が合わないの。多すぎるんじゃなくて、足りなすぎる。支店の棚卸しをしていて、数字の減り方が妙だった」
アルハシムは帳面を閉じた。
「監査役が、ずいぶん率直ですね」
「あなたも率直でしょう」
「俺はただの居候です」
「喫茶店の居候が、夜になると診療記録を三種類の印で並べ替えるの?」
返しが速い。しかも、さっき座ったばかりなのに、もう帳面の組み方まで見抜いている。
アルハシムは少しだけ笑った。
「見せるのは、こっちの分だけです」
差し出したのは、薬の使用量を書き抜いた一覧だった。誰に何を使ったかではなく、夜ごとに何包減ったかだけをまとめたものだ。ジュエルは一枚目を見て、二枚目へ移る前に一度だけ眉を寄せた。
「解熱薬の減り方に対して、港の納品記録が追いついていない」
「診た感じでも、そうです」
「誰かが横で抜いてるか、最初から届いていないか」
「そのどちらかですね」
「言い切るのね」
「熱は帳簿をごまかしません」
ジュエルはそこで初めて、ほんの少し口元を緩めた。
クロエが珈琲を置く。濃く淹れた深い色で、表面に細かな泡が浮いていた。ジュエルは一口飲んで、顔色一つ変えずにカップを置く。
「苦い」
「珈琲ですから」
「帳簿も同じね」
「美味しい帳簿は大体危ないですよ」
そのやり取りを聞きながら、アルハシムの胸の奥に、薄い引っかかりが生まれた。
――切り捨てたくない。
言葉ではなく、感触だけが触れる。隣に座り、少し距離が縮まった時だけ拾える、相手の押し殺した本音の欠片だ。ジュエルの表情は涼しい。監査役としての顔は崩れていない。だが、帳面の数字の向こうにいる人のことを、見ないふりでは済ませたくないのだと、その欠片は伝えてきた。
アルハシムは帳面を一冊、さらに前へ寄せた。
「昨夜、港で働く荷運びが四人来ました。全員、軽い発熱と腹痛。休めば治る程度だと思っていたら、一人は脱水寸前。無理して運んでいた木箱に、薬瓶の割れた跡がついていました」
ジュエルの視線が細くなる。
「何色の封蝋?」
「茶色。荷札は濡れて読みにくかったですけど、角に三本線」
彼女は黙って自分の手帳へ何かを書いた。
「ナーイラ支店の正式印じゃない」
「偽物?」
「偽物か、別口の横流しか。少なくとも、表の帳簿に正面から載せる気のある荷じゃない」
カウンターの向こうで、エスメラルダが薬包紙を折る手を止めた。
「粗悪品の可能性は?」
「あります」
ジュエルはすぐにそう答えた。
「ただし、私はまだ断定しない。数字だけで人を吊るす気はないから」
「いいですね、その姿勢」
アルハシムが言うと、彼女は小さく首を傾げた。
「皮肉?」
「違います。数字しか見ない人なら、町ごと切ります。そうしない人なら、話ができる」
ジュエルは返事をしなかった。
店の外では、港から戻った男たちの笑い声が遠く聞こえる。昼下がりの陽は暖かいはずなのに、客席の上だけ少し陰っていた。ここに届くはずの薬が届いていない。その事実が、珈琲より苦いものとして卓の上に置かれている。
「あなた、私を味方に引き入れたいの?」
やがてジュエルが言った。
「候補には入れています」
「堂々としてる」
「敵に回すには惜しいので」
「褒めてるようで、ずいぶん値踏みするのね」
「監査役に言われたくないです」
クロエが、かすかに鼻で笑った。
ジュエルはその音を聞き逃さなかったが、何も言わず、代わりに伝票の束へ視線を落とした。
「ひとつ確認しておくわ。私は自分の商会の看板を守るためなら、ここを切ることもある」
「ええ」
「その時に恨まれても困る」
「切るなら切ってください」
アルハシムはあっさり答えた。
ジュエルの目が少しだけ見開かれる。
「ずいぶん簡単に言うのね」
「切る前に迷ってる人を、無理に縛っても役に立ちません。切ってから、戻りたければ戻ればいい」
しばらく、珈琲の湯気だけが二人の間にあった。
ジュエルの表情は動かない。けれど、胸の奥でまた、あの断片が揺れた。
――それで残っていいのなら。
アルハシムは聞こえないふりをした。拾った本音を、すぐ口にしてしまえば壊れる時がある。今のこれは、まだ帳簿に挟まったままの紙片みたいなものだ。
その日の夕方、ジュエルは港の支店へ戻る前に、代金より多い硬貨を卓へ置いた。
クロエが眉をひそめる。
「取りすぎ」
「帳面代」
「うちは喫茶店」
「じゃあ、苦い珈琲代」
「それなら足りない」
珍しくクロエが負けていない。ジュエルは少しだけ口元を上げ、結局ぴったりの額だけ残して余分を引いた。
店を出る前、彼女はアルハシムに一枚の紙切れを渡した。
「今夜、茶色い封蝋の荷がもう一つ入る。場所は北倉庫の裏。私が見つけたとは言わないで」
「監査役がそんなことしていいんですか」
「してない。私は珈琲を飲みに来ただけ」
灰色の上着が、夕方の光の中へ消えていく。
紙切れを開いたアルハシムは、そこに書かれた時刻と倉庫番号を見て、小さく息をついた。
苦い珈琲は、舌に残る。
苦い帳簿は、もっと長く残る。
けれど、その苦さをごまかさずに飲み込める相手が、この町に一人増えたのだとしたら、悪い午後ではなかった。




