第6話 夜だけ診療所
嵐の夜が明けたあとも、雨待ち亭の床からは湿った木の匂いが抜けなかった。
割れた皿は籠へまとめられ、濡れた毛布は裏庭の綱に掛けられている。昨夜の騒ぎで動かした卓と椅子は、朝の開店に間に合わせるため元の位置へ戻されたが、壁に貼った札の跡だけはそのままだった。赤、黄、白。クロエが剥がしたはずなのに、薄い糊の痕が板壁に残っている。
アルハシムは、まだ半分だけ診療所の顔をした店内を見渡した。
「長椅子をもう一つ窓際へ寄せれば、夜は待機席を六つ取れますね」
「朝一番の客が座る前に、昨日みたいな話をするのはやめてもらえる?」
カウンターの向こうで、クロエが乾いた声を落とした。
「店なんだから」
「だからです。店だから、夜の使い方を考えやすい」
「何を当然みたいに」
呆れた顔のままなのに、彼女は長椅子の脚が引きずった跡を見ている。昨夜どこが詰まり、どこが動きやすかったか、ちゃんと覚えている目だった。
店の奥では、エスメラルダが沸かした湯に器具をくぐらせていた。細い金属の鉗子を布で拭う手つきは落ち着いているが、口元だけが硬い。サルマンは入口脇の柱にもたれ、店主が計算している割れ物の数を横からのぞき込んでいる。気だるい朝に見えて、誰も昨夜を終わったものとして扱っていなかった。
開店前の短い時間に、話は自然と昨夜の続きへ戻った。
「港の診療小屋は?」
アルハシムが尋ねると、サルマンが肩をすくめた。
「治療師は一人だ。昨日の夜も別の漁村へ呼ばれてた。町中で熱を出してる子どもは増えてるし、荷運びの連中は怪我を隠して働く。昼は何とか散らばるが、日が落ちてからが詰む」
「巡回は組まれていないの」
エスメラルダが器具を布へ並べながら答える。
「組みたくても人がいないの。薬師は二人。どちらも高齢。診られる者は港と市場に引っ張られて、夜になると家へ帰る。夜中に容態が崩れた人は、朝まで我慢するか、諦めるか、その二つ」
店主が顔を上げた。
「昨夜みたいなことが、また起きるってことか」
「昨夜みたいなことだけじゃないです」
アルハシムは壁の糊跡を見たまま言った。
「高い熱が夜に上がる子どももいる。昼は隠していた腹痛が、仕事を終えたあとに立てなくなる人もいる。暗くなってからしか動けない人もいます。昼の診療だけで拾いきれない」
エスメラルダが、そこでようやくはっきりと首を振った。
「駄目よ」
店の空気が止まる。
「昨夜みたいな臨時対応と、毎晩開けるのは話が違う。衛生管理も記録も必要になる。治療行為に使った卓で翌朝すぐ食事を出すの? 薬草の煎じ殻は。血のついた布は。感染症が出たら誰が責任を持つの」
その言葉は冷たくではなく、重く落ちた。勢いで押し切ればいい話ではないと、店主ですら分かったらしい。昨夜の恩義だけで、毎晩店を差し出せるものではない。
アルハシムはすぐには答えず、厨房と客席と裏口を順に見た。前世の記憶が、油じみた床の色や、桶の置き場や、水場までの歩数を勝手に数え始める。
「昼の客席と夜の診療を分けます」
「どうやって」
「完全には分けられなくても、汚れを持ち込む線を細くすることはできます」
アルハシムは会計台にあった包み紙の裏を借り、炭筆を走らせた。
「入口は二つある。表は喫茶、裏は夜の患者。夜は裏口だけを使う。最初の待機は裏庭の屋根下。そこで咳、熱、怪我、腹痛を分ける。赤札はすぐ奥の卓、黄札は窓際、白札は壁際の長椅子。食器棚の下段を夜だけ薬棚にして、上段は布で覆う」
炭筆の先が止まらない。
「消毒用の湯は厨房で沸かす。使い終わった布は裏の大桶へ。血のついたものは灰と湯で仮洗いしてから別籠に。翌朝の開店前に、卓と椅子の天板は全部熱湯拭き。厨房の盆は診療で使わない。診療用の盆を木工所へ頼んで色を変える。記録は診療札ごとに紐でまとめる」
サルマンが眉を上げた。
「昨夜のうちに考えてたのか」
「考えてました。寝てないだけです」
「威張るところじゃないわよ」
エスメラルダが刺すように言う。けれど、包み紙の上へ身を乗り出している。反対したまま聞き流す気ではないらしい。
「感染症の疑いがある者を店内へ入れたら終わりよ」
「だから最初のふるいを裏庭でやります。強い咳、発疹、嘔吐がある人は隣の空き倉庫へ回す。診る順番を遅らせるためじゃない。混ぜないためです」
「倉庫の持ち主が首を縦に振るかしら」
「そこは俺が行く」
サルマンが即答した。
「倉庫番の婆さんは、昔おれが荷崩れから助けた。恩を返せと言う気はないが、話は聞く」
クロエが炭筆の線を覗き込みながら言う。
「夜だけなら、菓子の棚は布で巻けばいい。匂いが移るのは困るから、焼き菓子は全部奥へ下げる。珈琲豆も」
「手間が増える」
「増えるけど、できないとは言ってない」
その言い方に、店主が苦笑した。
エスメラルダは紙の上へ指を置いた。
「記録が抜けたら駄目。診た時刻、症状、処置、渡した薬、翌朝の再診。最低でもそこまでは要る」
「やります」
「誰が」
「僕が叩き台を作る。書ける人を増やす。文字が苦手な人には印で分かる形にする」
「薬の保管」
「夜は鍵箱」
「針と刃物」
「赤布で巻いて別籠」
「待っている間に騒ぐ酔っぱらい」
「サルマンさん」
「その扱い雑じゃないか?」
「適任です」
「否定しにくいな」
小さな笑いが起きた。エスメラルダだけが笑わなかったが、今度は完全に反対している顔でもなかった。
朝の客が入り始める頃、包み紙の裏は字で埋まっていた。待機札の色分け、導線、桶の数、夜に必要な湯の量、翌朝の拭き掃除まで、思いつく限りを書き込んである。
エスメラルダは読み返し、長い息を吐いた。
「……治療院の許可なんて出ない」
「出ないでしょうね」
「領主館へ届けても、先に税を取られるだけ」
「それでも、夜を空白のままにはできません」
アルハシムがそう言うと、彼女はしばらく黙ったあと、濡れた手を布で拭いた。
「三つ条件がある」
「はい」
「第一に、感染症の疑いが強い者は店へ入れない。第二に、私の判断で王都式の処置を優先する時は口を挟まない。第三に、あなたが倒れたら、その日の帳面は私が破る」
「最後だけ重くないですか」
「昨夜の顔色で言ってるの」
サルマンが吹き出し、店主までうなずいた。
アルハシムは観念して両手を上げる。
「分かりました。倒れる前に座ります」
「座るだけで済めば楽ね」
エスメラルダは包み紙を折りたたみ、会計台の下へしまった。
それが合図になった。
サルマンは昼過ぎには倉庫番のもとへ走り、裏口の灯りを増やすための油を手配した。店主は木工所へ診療用の盆と札箱を頼みに行き、クロエは菓子棚に掛ける厚布を物置から引っ張り出した。エスメラルダは必要な薬草の一覧を作り、足りないものに印をつける。アルハシムは帳面の型を書き、丸印と三角印だけでも分かる症状欄を作り始めた。
日が傾く頃、裏口の上に小さな板が下がった。
『夜だけ診る』
ぶっきらぼうな字で、クロエが書いたものだ。
「ずいぶん簡潔ですね」
「長いと読まれない」
「正しい」
アルハシムはうなずいた。
夕闇が港から町へ這い上がってくる。店の正面では、いつも通りに珈琲を飲む客が最後の一杯をすすっている。だが裏庭では、洗った桶が並び、札箱が置かれ、夜のための椅子が静かに待っていた。
雨待ち亭は、まだ喫茶店の顔をしている。
けれど日が落ちれば、もう一つの顔を見せる。
居場所をなくした者が、朝まで我慢しなくていい場所。その最初の一夜が、まもなく始まろうとしていた。




