第24話 帰ってくる歌
旧防波塔へ続く道は、最初から道ではなかった。
波に削られた石段、崩れた木柵、横倒しの荷車。そこへ領主館の手先が混ざる。工具を持って逃げていた男たちの一部は、まだ嵐の混乱へ紛れて塔周りを固めていた。
先頭を走るシルバの剣が、濡れた朝の光を弾く。
「道を開けろ!」
怒鳴るより先に、剣の腹で一人の手首を打つ。工具が落ちる。サルマンが横から鉤棒で足を払う。背後ではジュエルが濡れないよう外套の内側へ帳簿袋を押し込み、道端の商会伝書手へ封書を渡した。
「これを今すぐ北街道へ。組合印は私が持つ、止められたら監査役の名を出して」
伝書手が頷き、馬へ飛び乗る。
塔へ近づくにつれ、風が音を持ち始めた。
唸りではない。擦れるような、押し返されるような、歌になる寸前の音。クロエはすでに塔の窓際に立っていた。外套の裾は水を吸い、手すりに置いた句集の頁が何度も捲れそうになる。その前方、海は灰青色の筋を巻き込み、嵐の核みたいに一箇所だけ色が濃い。
彼女は目を閉じた。
兄を失った日の風が、喉の奥へ戻ってくる。怖い。今も怖い。けれど、あの日と違うものもある。店の鍋の音。皿を重ねる音。窓際でも中央卓の横でも、あたりまえみたいに仕事を振ってくる男の声。
帰ってこい。
恋の歌は、そういう歌だとようやく分かった。
クロエが最初の一節を置く。
高くない。誰かを脅かさない音。海鳴りへ喧嘩を売らず、その隙間へ細く通すような声だった。
その頃、雨待ち亭ではアルハシムが両手で卓を押さえていた。
断片が、町じゅうから流れ込む。
――塔の道、まだ二人。
――南の避難小屋、火が弱い。
――西の倉庫、赤札の子が吐いた。
――伝書が北門を抜けた。
――歌が聞こえる。
歌。
その一語が混ざった瞬間、ばらばらだった線が束になった。
札で分けられた人々。
席で落ち着いた呼吸。
荷車の往復。
鳴子の回数。
避難路の曲がり角。
その全部が、クロエの歌の拍へ合わせてつながっていく。
アルハシムは目を開けたまま見た。町の見取り図の上に置いた色札が、ただの板切れではなく、助けを回す節点に変わっている。
「エスメラルダ!」
「聞いてる!」
「西の倉庫、赤札の子は吐いたあと脱水、湯冷まし少量を三回。南の避難小屋へ鍋を一つ回して。火鉢は北の染屋から借りられる!」
「分かった!」
「入口、白札を二十人減らして向かいへ。歌が届くうちに人を密集させない!」
クロエの歌は、嵐へ命令する歌ではなかった。
帰る場所を指し示す歌だった。
波が少しずつ向きを変える。港から街路へなだれ込もうとしていた風が、塔の沖側へ引かれる。海鳴りがひとつ大きくうねり、町の上空に溜まっていた重さがほどけ始めた。
だが、簡単には終わらない。
塔の下で残っていた手先の一人が、焦った顔で窓の支柱へ斧を振り上げた。
「歌わせるな!」
シルバが間に合う。刃と刃がぶつかり、火花の代わりに雨粒が散る。
「下がれ、クロエ!」
「まだ!」
クロエは歌を切らない。切れば戻ると知っているからだ。サルマンが背後から男へ体当たりし、斧を海へ落とす。ジュエルは塔の入口へ立ったまま、駆けつけた領兵へ冷えた声を投げた。
「そこの二人を押さえなさい。帳簿と工具と印札、全部証拠になるわ。逃がしたらあなたたちの職も飛ぶ」
領兵たちは顔を見合わせ、結局は縛った。もうラーディル側が勝つ空気ではないと悟ったのだ。
雨待ち亭では、歌に乗るように人の流れが変わっていく。
「青札二人、東へ移送!」
「白札は二階へ!」
「赤札縫合終わり!」
「鍋空きます!」
アルハシムの頭の中を抜けていく断片は、最初より多いのに、最初より痛くない。自分一人で抱え込んでいないからだ。受け取り、つなぎ、渡す。そのための席。そのための仕事。
やがて、灰青の色が海の表面から薄れた。
風が一段、下がる。
旧防波塔の窓辺で、クロエが最後の一節を歌い終えた時、ナーイラの上空には久しぶりにただの雨の音だけが残っていた。
静けさが来る。
その静けさの中へ、別の足音が重なった。近隣領の視察使と、王都の監査院からの急使だ。ジュエルの封書は間に合っていた。捕らえた手先、壊された防波設備、押収した工具、偽薬の荷札、ラーディルの横領帳簿、セヴランの購買記録。どれも逃げ道を残さない。
領主館では、逃げようとしたラーディルの馬車が南門で止められたという報せが入る。宿ではセヴランが王都への先回りの書状を書いていたが、監査院の印の前では言い逃れにも順番がある。もはや彼だけが優先される札はどこにも無かった。
昼、クロエが塔から戻る頃には、町じゅうの人間がその歌を聞いたあとだった。
雨待ち亭の前でアルハシムは立って待っていた。近づいてくる姿を見た瞬間、膝から力が抜けそうになるのをどうにか堪える。
クロエは少しかすれた声で言った。
「席、使ってた?」
アルハシムは、笑うより先に答えた。
「帰ってくる前提で、青札を置いてました」
クロエが目を丸くし、それから小さく笑う。
その笑いが確かにここへ戻ってきた時、ナーイラはようやく助かったのだと、アルハシムは遅れて実感した。




