第25話 昨日のつづき
嵐が去って七日後、雨待ち亭の軒先には新しい板札が掛かった。
『雨待ち亭兼ナーイラ救護所』
クロエはその字面を見上げ、鼻で笑った。
「長い」
「削ると誰かが怒るので」
入口で釘を打っていたアルハシムは、金槌を持ったまま答える。横ではサルマンが港から運んできた板材を下ろし、二階の窓ではエスメラルダが乾かした包帯を揃えている。向かいの空き店は正式に避難所兼待機所となり、ジュエルが新しい流通札の見本を卓へ広げていた。
町はまだ完全ではない。
壊れた防波板は半分だけ直り、濡れた家財を干す家も多い。けれど人の顔には、嵐の最中には無かった「次をどうするか」が戻っている。
ラーディルは職を剥がれ、王都での調べ待ちになった。セヴランも同じだ。偽薬と搬送妨害と利権の証拠は、ジュエルが帳簿を三重に写して各所へ送りつけたおかげで、どこか一つを黙らせても消えない形になっていた。
その報せを持ってきた視察使は、ついでのようにアルハシムへ言った。
「王都で役所勤めを再検討する気はないか」
アルハシムは即座に首を振った。
「席が埋まっているので」
視察使は意味が分からない顔をしたが、横でクロエが「満席です」と真顔で言ったので、それ以上は食い下がらなかった。
午前、診療の時間になる。
エスメラルダは診察卓で子どもの喉を見て、母親へ湯冷ましの量を説明する。以前なら王都へ戻るまでの仮住まいだと思っていた手つきが、今はこの町の基準そのものになっていた。
サルマンは荷車の手配表を持ち、港の再建班と救護所の搬送班を同じ紙で回している。怒鳴る時は怒鳴るが、必要な相手へ必要な人数が届く限り、彼の機嫌は悪くない。
ジュエルは新しい薬の箱へ、自ら監査印を押した。正規品が正規の値段で届くことを当たり前にするために、彼女は私語の顔ではなく仕事の顔で笑う。
シルバはと言えば、嵐の翌日には一度王都側の報告へ戻ったくせに、三日後には「護衛経路の再点検だ」と言ってまた現れた。港の若い衆からは、点検のたびに喫茶の焼き菓子を多めに買う騎士として妙に評判がいい。
そしてクロエは、相変わらず愛想があるのかないのか分からない顔で皿を拭いている。
違うのは、時々ほんの少しだけ鼻歌が混ざることだった。
大きく歌わない。見世物にもしない。ただ、湯気の立つ朝や、子どもが泣き止まない午後に、小さく一節だけ置く。そうすると不思議なくらい店の空気が落ち着くので、誰も余計なことは言わなかった。
昼の合間、アルハシムはようやく自分の席へ腰を下ろした。
雨待ち亭の片隅、壁と窓の間の小さな卓。札を並べ、通りの様子が見え、厨房の声も拾える場所。嵐の最中、彼が中央の卓から離れられなかったのを見て、町の大工が勝手に作って置いていった席だ。
「司令塔用」と焼き印まである。
「趣味が悪い」
アルハシムが言うと、サルマンは「実用だ」と返し、ジュエルは「分かりやすくて良い」と言い、シルバは「似合っている」と笑った。エスメラルダだけは「せめて角は丸くしなさい」と職業柄らしい文句をつけた。
その席へ、クロエが茶を二つ置く。
「片方は苦い」
「知ってます」
「昨日のつづき」
それだけ言って、彼女は向かいではなく、隣の椅子へ腰を下ろした。
アルハシムは少しだけ遅れて茶碗に手を伸ばす。窓の外では、港の修理槌が規則正しく鳴り、向かいの待機所では白札の子どもが笑っている。嵐の時と同じ町だ。壊れたままの箇所もある。次の厄介事だってきっと来る。
それでも今日は、昨日のつづきとして始められる。
喫茶も、診療も、相談も、避難の手配も、ぜんぶ同じ場所で続いていく。その片隅に、アルハシムの席がある。空席ではない。もう追い出されて立ったまま働く場所ではなく、誰かが当たり前みたいに隣へ座る場所だ。
彼は茶をひと口飲み、苦さに顔をしかめた。
「やっぱり苦い」
「知ってるって言ったのに」
クロエがそっけなく言う。
けれどその声は、少しだけ笑っていた。
雨待ち亭の戸が開き、次の客が入ってくる。エスメラルダが手を上げ、サルマンが荷札を確認し、ジュエルが帳面を閉じ、シルバが椅子を一つ引く。アルハシムも立ち上がろうとして、やめた。
まずは座ったまま、来た客へ言う。
「どうぞ。空いてる席、あります」
その一言のあとに、町の一日がまた動き始めた。




