第23話 昨日まで君が座っていた僕の隣
夜明け前の雨待ち亭は、眠っているようで一番働いていた。
入口では白札の避難民が毛布に包まれ、向かいの空き店では青札の者が咳を抑え、裏倉庫では炊き出しの鍋が次の湯を待っている。店の奥、夜通しクロエが中央卓のそばへ引き寄せて使っていた椅子だけが、そこだけ切り取られたみたいに静かだった。
アルハシムは中央の卓に座り、散った色札を拾い直していた。
断片はまだ来る。けれどさっきより少しだけ整理がつく。助けを呼ぶ声の線と、今すぐではない疲労の線。町が彼の札と席に慣れ始めていた。
だからこそ、次の違和感が遅れてきた。
クロエの声が、しない。
入口の鳴子も、鍋の蓋の音も、濡れた布を絞る気配もあるのに、あの平たい返事だけが混ざっていない。
アルハシムは顔を上げた。
椅子に、誰も座っていない。さっきまで置いてあったはずの紺の上着も無い。卓の隅には、祖母の句集と、湯の冷めかけた茶が一杯。頁の間には、細く折った紙が挟まれていた。
アルハシムが開くより先に、サルマンが紙を覗き込み、低く舌打ちした。
「先に行きやがったな」
紙には、癖のない短い字で一行だけあった。
『塔の窓を開ける。席は使って』
胸の奥が、嫌な形で空く。
アルハシムは思わず、その椅子を見た。つい昨日まで、いや数時間前まで、そこには皿を持ったまま人を馬鹿にしたような顔で立つ娘がいた。黙っていれば何を考えているか分からないくせに、客の咳の回数は全部覚えているような目で見ていた。
その席だけが、今は空いている。
「昨日まで君が座っていた僕の隣」
口からこぼれた言葉に、自分が一番驚いた。
誰も笑わなかった。
エスメラルダが縫合針を置き、まっすぐ言う。
「行かせたくなかったなら、止めればよかったのに」
「止めたら、たぶん隠れてでも行きました」
答えながら、アルハシムは椅子の背に触れた。木はまだ少し温かい気がした。錯覚でも、今はその錯覚を否定する余裕がない。
シルバが剣を取る。
「旧防波塔までの道は私が開く」
サルマンも頷いた。
「南の抜け道を使えば早い。だが途中で領主館の犬が出るかもしれん」
ジュエルはすでに帳面を閉じていた。
「私は証拠を二手に分ける。ひとつは王都の監査院、もうひとつは近隣領の交易組合。ラーディルが嵐を長引かせて魔鉱石を独占していた帳簿、セヴランが偽薬を流した荷札、今なら両方つながる」
エスメラルダがアルハシムを見た。
「あなたはどうするの」
どうする。
行きたい。今すぐ走って追いかけたい。旧防波塔へ一人で向かわせたくない。その気持ちが、初めて理屈の前へ出た。
けれど断片は止まらない。――二階の子が高熱。――西の空き店、毛布切れ。――水路沿いの老人、移送必要。雨待ち亭の卓へ座っている限り、それらは彼の手を離れてくれない。
アルハシムは両手で顔を擦り、強引に息を整えた。
「僕は残ります」
シルバが眉をひそめる。
「本気か」
「ここで流れを切る方が死人が増える。だから残る。でも、ただ待つ気はありません」
彼は卓の上へ句集を開いた。秋刀魚俳句の頁、暗号のついた一節、点検場所の記号。旧防波塔の窓、南階段、潮抜きの穴。読み方はまだ曖昧でも、行き着く場所は一つだ。
「シルバ、塔の正面は避けて。南の階段から。サルマン、途中の通りで避難民を止めないよう、一本だけ道を空けて。ジュエル、証拠を出し終えたら水路側へ合流して、領主館側の動きを拾ってください」
「あなたは?」
エスメラルダの問いへ、アルハシムは色札を掴み直した。
「町をつなぎます。クロエが戻ってこられる道を、町の中に残し続ける」
言葉にした瞬間、役割が形になる。
エスメラルダは短く頷き、白衣の裾を翻した。
「なら私はここを死守する。戻ってきた人間を死なせないのが医療責任者の仕事よ」
シルバは口元を上げた。
「分かった。行って引っ張り戻す」
サルマンは荷車の鉤棒を担ぐ。
「ただし、向こうが嫌がってもな」
「それくらいでいいです」
アルハシムはやっと少しだけ笑った。
三人が出ていく。雨が吹き込み、扉が閉まる。空席だけがまだ目に入る。
アルハシムはその椅子へ一瞬だけ青札を置いた。帰還予定、という意味を勝手に込めて。
そして中央の卓へ戻る。
「次、北の染屋に毛布四枚。東の空き店へ薬草追加。水路沿いの老人は二人で担ぐ、ひとりは腰をやる」
声を出すたび、町が少しずつ動く。
クロエの不在は痛いままだった。だが、その痛みを抱えたまま働けるようにならなければ、この席は守れない。
外では、旧防波塔の方角だけ風の唸りが違っていた。




