第22話 広域心話
夜になる頃には、ナーイラのあちこちで同じ札が揺れていた。
赤は出血、青は呼吸、黄は発熱、白は避難。雨待ち亭から持ち出した札は足りなくなり、クロエが厨房の薄板を削って同じ形を量産し、子どもたちが紐を通していく。サルマンの荷車には行き先札が括りつけられ、ジュエルの帳面には備蓄と人数が街区ごとに線で結ばれ、シルバが立つ通りには通行可否の印が打たれた。
全部、アルハシムが決めた順番だった。
どこで待つか。
どこで座るか。
どの道から運ぶか。
誰が誰を呼ぶか。
その「並び」が町じゅうへ広がった時だった。
入口で白札を渡していた老婆の手が、ふと遠くなる。
――北の染屋、灯りが消えた。娘が動けない。
次の瞬間、向かいの空き店で咳き込んでいた少年の断片が重なる。
――青札が足りない。父さんが息できない。
さらに別の、見てもいない誰かの気配が薄く滑り込んだ。
――倉庫裏の梯子、外れた。上に子どもが二人。
アルハシムは顔を上げた。
雨待ち亭の中だけではない。自分が組んだ札と席と通路で繋がった場所の「今すぐまずい」が、一気に流れ込んでくる。全部ではない。泣き言も昔話も混じらない。ただ、助けが必要な断片だけが、地図の上へ光点みたいに立っていた。
眩暈がした。
卓へ手をつく。木目がぐにゃりと曲がる。
「アルハシム?」
エスメラルダの声が近い。だが彼は返事より先に叫んでいた。
「北の染屋、娘一人動けない! ジュエル、空き店の青札を二枚持って、東の角から回って! サルマン、倉庫裏の梯子が外れてる、子ども二人、短い縄を!」
その場にいた誰も、どうして分かったとは聞かなかった。
もう何度も見てきたからだ。彼がそう言う時は、本当にそうなのだと。
サルマンが縄を掴んで飛び出し、ジュエルが青札を抱えて駆ける。入れ違いでシルバが戻るなり、アルハシムは指を向けた。
「南の水路沿い、通り三本目の角、荷崩れしかけの樽がある。次の波で倒れる」
「了解した!」
鎧の音が遠ざかる。
断片は止まらない。
――乳飲み子が冷えてる。――鍋の火が強すぎる。――片脚のじいさんが白札で立ってる。――西の倉庫に余ってる毛布がある。――歌、あの歌の場所は塔。
最後の欠片だけ、他より深く刺さった。
アルハシムは息を呑む。塔。旧防波塔。秋刀魚俳句の暗号で出てきた点検場所。クロエの祖母の句集にあった、最後まで意味の確定しなかった一節。
『恋の歌、潮の目返せ、塔の窓』
クロエもそれを聞いたのか、鍋の前で顔を上げていた。
けれど今、確かめている余裕はない。
アルハシムは卓の上へ地図を広げた。いや、正確には町の子どもが描いた雑な見取り図だ。家と井戸と倉庫と坂しかない。しかし今はそれで足りる。色札の余りを石代わりに置いていく。青札はここ、赤札はここ、空いた荷車はこっちへ戻す。通りが塞がる前に西回り。南の水路は二人組で。向かいの空き店の二階は白札専用。
「鳴子を三回鳴らしたら青札搬送、二回は避難誘導、一回は炊き出しの補充!」
「誰が鳴らす!」
「入口はクロエ、裏は帳場のロニ、倉庫は漁協のマフド!」
名前を呼ばれた者たちは、迷う暇もなく動いた。
エスメラルダが縫合の手を止めずに言う。
「そんなに飛ばしたら倒れるわよ」
「倒れるまでの使い道を先に決めます」
「嫌な言い方ね」
「今に始まってません」
言い返しながらも、視界の端が白くなっていく。耳の奥で波の音ではない何かが鳴る。王都で一人分の本音を拾うだけで精一杯だった力が、町ひとつぶんの「助けて」を引き受けようとしていた。
それでも、不思議と潰れきらなかった。
理由は単純だった。全部を自分でやる必要がないからだ。
「ジュエル、東の空き店、着いた!」
「青札の男を先に寝かせた! でも薬草が切れる!」
「裏棚の右、三段目、苦い方!」
「分かった!」
「シルバ、西通り確保!」
「樽ごと海へ落とした! 次!」
「サルマン、倉庫裏の子ども二人!」
「拾った! 一人は泣いてるだけだ!」
声が返ってくるたび、断片は少し整理される。自分の頭の中だけでなく、町そのものが一つの配車盤みたいに組み替わっていく。
深夜、アルハシムはついに膝をついた。
卓から色札がばらばらと落ちる。床板へ散る赤と青と白。そこへクロエがしゃがみこみ、何も言わず札を拾った。彼女の指は濡れていない。いつの間にか、鍋も入口も一段落つかせてきたらしい。
「塔の句、覚えてる」
小さな声だった。
「婆さんの本、まだ奥にある」
アルハシムは顔を上げる。
「旧防波塔ですか」
「たぶん」
彼女は床の白札を一枚、指先でなぞる。
「歌の場所」
エスメラルダが顔を曇らせた。
「今行く気?」
クロエは答えなかった。それがほとんど答えだった。
アルハシムは立ち上がろうとして、足に力が入らないのを知る。それでも口だけは先に動いた。
「まだ、町の中が終わってません」
「分かってる」
クロエは静かに言った。
「だから今は、あんたの席を空けない」
その言葉に、アルハシムは一瞬だけ息を失った。
席。
自分が座り続けているから保てる流れと、誰かが行かなければ止められない嵐。その二つが、ようやく同じ卓の上へ並べられた。




