第21話 満員の診療所
翌朝、ナーイラの空は夜の続きみたいな色をしていた。
雨待ち亭の窓ガラスには、細かい潮の粒が白く張りつき、港の方角だけが朝なのに暗い。アルハシムは開店前の卓へ札を並べ、昨夜の打ち合わせどおりに配置を書き換えていた。青札は呼吸、赤札は出血、黄札は発熱、白札は避難だけ。喫茶の注文札と見分けがつくよう、角を切った札も混ぜる。
クロエが湯を沸かしながら言った。
「嫌な静かさ」
「同感です」
エスメラルダは乾いた薬瓶を見つめ、残量を数え直す。ジュエルは帳面へ新しい仕入れ先の候補を走り書きし、サルマンは裏口に荷車を三台並べ、シルバは剣帯を締め直していた。
誰もまだ笑っていない。
最初の報せは、朝食前に飛び込んできた。
「西の防波板が落ちた!」
港の荷役の青年が、ずぶ濡れで扉へぶつかるように入ってくる。肩で息をし、片手に折れた鎹を握っていた。
「波でやられたんじゃない。留め具が、先に外されてた。鎖も切られてる」
サルマンの顔つきが一段深くなる。
「切られてた、だと」
「見張りの爺さんが頭やられた。今、倉庫に寝かせてる」
アルハシムは立ち上がった。
「シルバ、西側へ。壊れた箇所の広がりを見て、近づけない通りを先に決めてください。サルマン、荷車一台は傷病者、二台は避難用。ジュエル、備蓄倉庫の乾物と炭をここへ寄せたい。帳簿はあとでいい、今は人を冷やさない方が先です」
「帳簿も後で回収できるなら、ね」
ジュエルはもう立っていた。
エスメラルダが白衣の袖をまくる。
「負傷者をここへ集めるなら、治療卓は二つじゃ足りない」
「窓際の四卓を潰します。食事は入口側で立食いに変える」
クロエが即座に言う。
「椅子、半分は外へ出す。座る人は選ぶ」
アルハシムは頷いた。
「ありがとうございます。白札は立って待てる人、青札は必ず座らせる。混ぜない」
動き始めてから、一刻もしないうちに第二報が来た。
今度は波ではなく、人だった。
港の桟橋で荷崩れ。逃げ遅れた子どもの打撲。潮風に当たり過ぎた老人の発熱。壊れた防波板の破片で裂いた腕。避難を始めた家々から、不安で過呼吸を起こした者まで混じる。
雨待ち亭の入口に、人の列が二重に折れた。
「会計札を全部出して!」
アルハシムが叫ぶと、クロエが引き出しごと卓へ持ってくる。
「こっちが喫茶の札、こっちが診療の札」
「今日は逆です。喫茶の札を避難食、診療の札を症状に」
白札を握らせた少年へアルハシムはしゃがみこむ。
「君は歩ける。歩ける人は裏の倉庫へ行って、毛布を広げるのを手伝って」
少年は泣きそうな顔のまま、それでも頷いた。
入口横で怒鳴り合いが起きかける。誰が先に診られるか、誰の家がもう危ないか、恐怖はすぐ順番の争いになる。アルハシムはその間へ椅子を一脚差し込んだ。
「座って」
漁師と染物屋の女が、反射で睨み返す。
「二人とも立ってるから怒鳴れるんです。座って息を整えて。話はそれから」
言い方があまりに事務的だったせいか、二人とも毒気を抜かれて腰を下ろした。その瞬間、断片が流れ込む。――うちの婆さん、二階から降りられない。――息子がまだ港だ。どちらも順番より先に拾うべき情報だった。
「サルマン!」
「聞いてる!」
「染物屋の裏通りに脚の悪い老人、荷車を。漁師の息子は第六桟橋の綱倉庫側!」
サルマンは振り返りもせず手を上げ、二人へ別々の若者をつけて走らせた。
昼前、店の奥は熱と湿気で曇った。
煮出した薬草の匂い、濡れた縄の匂い、海水を含んだ衣服の冷たい塩気。雨待ち亭は喫茶店ではなくなっていた。だが治療院とも少し違う。炊き出しの鍋が湯気を立て、窓辺では子どもが眠り、奥ではエスメラルダが縫合し、裏の倉庫ではジュエルが毛布の枚数まで帳面につけている。
アルハシムは息をつく暇もなく札を動かし続けた。
王都中央治療院の廊下が、ふと脳裏に重なる。担架の列。怒鳴り声。銀札一枚で曲げられた順番。あの時と同じ満床。いや、もっと悪い。ここには最初から充分な寝台すらない。
それでも、決定的に違うものがあった。
「次の鍋、塩を控えて!」
「毛布、赤札優先で回せ!」
「うちの裏庭、避難先に使って!」
町の者たちが、自分の分だけでなく他人の分まで言う。
王都では順番を奪い合った声が、ここでは席を譲る声に変わっていく。誰かが誰かの名前を呼ぶ。あの家の子を先に。あっちの婆さんはひとりだ。ここに火鉢がある。そういう声が、少しずつ空気を持ち直させた。
だが午後、風向きが急に変わった。
海側の窓が一斉に鳴り、防波の低い唸りが地面の下から伝わってくる。外へ見張りに出していた若い衆が駆け込んできた。
「西だけじゃない! 南の水門まで閉じなくなってる! 波が街路へ入る!」
エスメラルダが顔色を変える。
「人工的にやってるわね」
「ラーディル側だろうな」
サルマンが歯を鳴らした。
シルバも戻ってくる。鎧に海水を浴び、肩で息をしていた。
「防波板の裏に、工具を捨てて逃げた男がいた。領主館の外仕事につく者の印だ。二人捕まえたが、まだ他にもいる」
アルハシムは入口の列を見た。まだ人が来る。抱えた子ども、肩を貸された老人、裂けた網を頭からかぶった漁師。しかも、ここからさらに避難民が増える。
彼は卓の上へ両手をついた。
「店内だけでは足りません。裏倉庫、向かいの空き店、二階、全部使います」
「回せるの?」
エスメラルダの問いに、アルハシムは即答した。
「回します。診療、避難、食事、連絡、四系統で分ける。混ぜると崩れます」
クロエが窓の留め金を閉めながら言った。
「席、まだ足りない」
「足りない席は作ります」
アルハシムは会計用の長机を引きずり出した。札、紐、空の瓶、木箱、壊れかけの椅子。組める導線は全部使う。王都でできなかったことを、今度はここでやる。
夕方には、雨待ち亭の前の通りまで人で埋まった。
鍋の湯気の向こうで泣く声が上がり、どこかで皿が割れ、荷車の軋みが鳴る。第一話の王都中央治療院より酷い。けれど逃げ場はない。
アルハシムは新しい札の束を持ち上げた。
「次、行きます。ここで止めたら、全部潰れる」
返事は一人分ではなかった。
「ええ」
「おう」
「当然だ」
「皿はまだある」
その声が重なった瞬間、雨待ち亭はただの店ではなく、町の心臓になった。




