第20話 俺はここで働く
セヴランが去ったあと、雨待ち亭の仕事は途切れなかった。
熱を測る子、包帯を替える男、薬の残りを尋ねる母親。いつも通りの手が次々に要る。だからこそ、アルハシムは返事を先延ばしにしたくなかった。
夕刻、最後の患者を見送り、店の札を半分だけ下げた頃、彼は言った。
「僕は戻りません」
言う相手がその場にいなくても、まず口にしておく必要があった。
サルマンは「知ってた」とだけ答え、シルバは腕を組んで頷いた。クロエは薬缶を火から外し、ジュエルは帳面の端へ何かを書きつける。
けれど、エスメラルダだけはすぐに賛成しなかった。
「簡単に言わないで」
振り向いた彼女の声は、珍しく硬かった。
「あなたが戻らないのは好きにすればいい。でも、あの男が本当に薬を絞ったらどうするの。ここには子どもも老人もいる。正しい意地で、人が熱を下げられなくなったら意味がないでしょう」
アルハシムも声を落とした。
「分かってます」
「分かってない」
エスメラルダは一歩踏み出す。
「あなたは王都の手口を知ってる。だから余計に分かるはずよ。報復は、本人じゃなく弱いところへ来る。あなたにではなく、この町へ来るの」
言葉は鋭いのに、怒鳴り声ではなかった。怖がっている人の言い方だった。
アルハシムは一度目を閉じる。
「それでも戻れません」
「どうして!」
初めて、エスメラルダの声が割れた。
「あなたが一人戻れば、配分だけは保てるかもしれないのよ!」
その一言で、店の奥が静まり返る。
アルハシムはゆっくり息を吸った。
「保てません」
「……」
「一度戻ったら、次も同じです。王都のために辺境を切れ、今度は別の町を後ろへ回せ、貴族街を優先しろ、そうやってまた誰かの順番をねじ曲げる。僕は、それを知っていて手伝う側に戻れない」
エスメラルダは唇を噛む。
彼女だって、知らないわけではない。王都で腕を磨いた治療師だからこそ、見たくない優先順位を何度も見てきたはずだ。
「私は……」
言いかけて、止まる。白衣の袖を握る手が強い。
「私は、戻りたくないわよ」
吐き出すような告白だった。
「任期が終われば帰るつもりだった。そう思わないとやっていけなかった。でも今は、王都の帳場へ戻って、何もなかった顔で治療卓につく自分の方が嫌なの」
サルマンが静かに視線を逸らす。ジュエルは帳面を閉じた。
エスメラルダはなおも震える声で続けた。
「だから腹が立つの。あなたが正しい顔で残るって言うと、私も残るしかないって分かるから」
アルハシムはそこでようやく、彼女の怒りの形を受け取った。
引き止めたいのではない。自分ももう戻れないと知っているから、先に口にした相手へ腹が立つのだ。
彼は少しだけ肩の力を抜き、正面から答えた。
「一人で残るつもりはありません」
エスメラルダが顔を上げる。
「残るなら、薬の代替を探す。配分表を組み直す。寝台の順番も、搬送先も、町の中で回せる形へ変える。報復が来る前提で準備する。あなたが医療を仕切って、サルマンが人を動かして、ジュエルが流れを外へ通して、シルバが道を守る。僕はその間をつなぐ。そうでないと持ちません」
静かな声だったが、店の全員へ届いた。
シルバが口を開く。
「私は領主館側の宿を見てくる。王都の連中がいつ動くか見張れる」
ジュエルも言う。
「商会の別経路を洗う。薬草そのものなら、王都を通さず引ける可能性がある」
サルマンは頷いた。
「避難路と備蓄だな。町の連中には今夜から口を回す」
クロエが薬缶を持ち上げる。
「歌は、まだ毎回は無理」
「ええ」
アルハシムが答える。
「でも必要な時は呼ぶ」
彼女は小さく頷いた。
最後に、エスメラルダが長い息を吐いた。
「……本当に面倒な店になったわね」
「最初からでは」
「最初よりよ。責任者が増えた分だけ」
そう言ってから、彼女は初めて少しだけ笑った。
夜、領主館の宿へ返事を届けに来た従者へ、アルハシムは店の前で告げた。
「院長に伝えてください。俺はここで働く」
従者は眉をひそめたが、書き留めるしかなかった。
それで終わりではない。むしろ始まりだった。薬は絞られるかもしれない。物流もさらに荒らされるだろう。けれど、残ると決めた言葉は、人を一つの場所へ立たせる。
雨待ち亭の明かりは、その夜いつもより遅くまで消えなかった。
誰がどこで何を担うか。卓の上に札が並び、通路に箱が積まれ、寝台の数え直しが続く。働く場所を選ぶことは、ただ留まることではない。ここにいる者たちの明日を、具体的に組み替え続けることだった。




