第19話 王都からの迎え
王都からの馬車は、晴れた日にやって来た。
灰青の雲が珍しく遠くへ退いた昼前、雨待ち亭の前に濃紺の箱馬車が止まる。銀の縁取り、磨いた車輪、泥ひとつ跳ねさせない御者。辺境の港町には不釣り合いなほど整った到着だった。
最初に降りてきたのは、見覚えのある黒い法衣だった。
セヴランは王都中央治療院にいた頃と同じ笑みを浮かべている。上等な手袋を外し、町の潮風が自分へ触れるのを許すような仕草まで変わらない。その後ろには従者が二人、護衛が二人。まるで視察にでも来た顔ぶれだった。
店内の空気が一気に冷える。
アルハシムは受付卓の前に立ったまま、笑わなかった。
「遠路はるばる」
「久しいね、アルハシム」
セヴランは懐かしむような声音で言う。
「君が元気そうで何よりだ。辺境で苦労していると聞いて、心を痛めていたよ」
サルマンが露骨に顔をしかめ、クロエは無言で扉の札を裏返した。喫茶の客が少なかったのが救いだった。
セヴランは店内を一瞥し、木椅子と薬棚と並ぶ卓を見て薄く笑う。
「なるほど。噂通り、器用な真似をしているらしい」
「お褒めにあずかりどうも」
アルハシムが返すと、セヴランは手を広げた。
「今日は争いに来たのではない。迎えに来たんだ」
その言葉に、エスメラルダの肩がぴくりと動く。
「迎え、ですって」
「そうだとも。王都では誤解があった。君の名誉は回復できる。中央治療院への復職も用意しよう。いや、もっと上でもいい。王家直属の医療調整補佐。君の能力は、こんな辺境で埋もれさせていいものではない」
聞き慣れた調子だった。相手を持ち上げ、選ばれた側だと思わせ、その実、置く場所は最初から決めてある。
アルハシムが黙っていると、セヴランはさらに柔らかく声を落とす。
「君は本来、もっと大きな場で働くべき人材だ。ここで何十人を救っても、王都で救える数には及ばない」
その理屈は、昔なら少しだけ刺さったかもしれない。だが今、アルハシムの目の前には、寝台へ横になる子どもと、火傷の薬湯を待つ漁師と、皿を洗うクロエの背がある。
そして、セヴランの隣へ一歩寄った時、胸の奥へ濁った欠片が触れた。
――囲え。使えるうちは使え。拒むなら切れ。
短く、冷たい本音だった。
アルハシムは息を吐く。
「断ったら?」
セヴランの笑みは崩れない。
「残念だ。だが、王都の配分には限りがある。薬も、人も、便も。優先順位を誤れば、辺境は後回しになる」
脅しを脅しの声で言わないところが、この男の質の悪さだった。
サルマンが一歩前へ出る。
「帰れよ」
「無礼だな」
護衛が動きかけたが、シルバがその前へ立った。鎧の鳴る音が、店の床を小さく震わせる。
「ここは診療所だ。抜剣するなら先に私を通せ」
王都の護衛たちは、若手騎士の紋章を見て動きを止めた。
セヴランは面倒そうに息をつき、それでも視線はアルハシムから外さない。
「感情で決めるな。君は賢い。誰に使われるべきか、分かるはずだ」
その瞬間、店の隅からぽつりと声が飛んだ。
「美しいのが罪でした、ってやつ?」
言ったのはクロエだった。皿を持ったまま、心底どうでもよさそうな顔をしている。
一拍置いて、サルマンが吹き出す。シルバが咳で誤魔化し、エスメラルダですら口元を押さえた。セヴランだけが意味を知らず、目を細める。
アルハシムは肩をすくめた。
「王都で流行ってた嫌味返しです。ご存じないなら結構です」
「……くだらない」
「ええ。くだらない中傷で追い出されたので」
笑いが完全に消えた。
セヴランはようやく笑みを薄くし、本来の冷たさを顔へ出した。
「今日中に返事を聞こう。君一人の意地で、町の薬を止められても困るだろう」
そう言って、まるで交渉の余地を残す親切な訪問者のように一礼する。従者と護衛を連れ、箱馬車は領主館側の宿へ向かった。
扉が閉まったあとも、店の中には金属みたいな沈黙が残った。
アルハシムは受付卓へ手をつき、指先の冷えを自覚する。
迎えではない。回収だ。
誰かの命を守るためではなく、都合のいい場所へ戻すための迎え。それを、今の彼はもう見誤らなかった。




