第16話 歌わない娘
その日の雨は、降るというより、港の上に滲んでいた。
朝から空が低く、海と雲の境が曖昧だった。雨待ち亭では、窓際の卓へ洗った布が干され、入口には濡れた外套を掛ける縄が渡されている。診療札の並ぶ昼下がり、店の奥で幼い兄妹が小声で言い争っていた。
「だから、その歌は駄目だって」
姉らしい方が弟の口をふさぐ。けれど遅かった。弟は鼻にかかった調子で、短い節を二つ三つこぼしてしまった。
その途端、皿を拭いていたクロエの手が止まった。
音そのものは、ごく短い。町の子どもがどこかで覚えた鼻歌にしか聞こえない。だが、店にいた大人たちは揃ってそちらを見た。サルマンは帳面の上で指を止め、エスメラルダは薬瓶を持つ手を少しだけ強くした。
姉の子が青ざめる。
「ご、ごめんなさい。婆ちゃんが、あの歌は店の中で歌うなって」
クロエは何も言わなかった。ただ、濡れ布を桶へ置き、次の皿を拭き始める。いつもより静かで、いつもよりきれいな手つきだった。
子どもたちが帰ったあとも、店の空気には薄い引っかかりが残った。
夕方、診療を終えて裏口へ出ると、雨は細い糸のように落ちていた。木箱の上に座ったアルハシムは、湯気の立つ茶を二つ持っている。クロエが戸を開ける音に気づき、片方を差し出した。
「置いておきます。いらなければ冷めます」
「雑」
「押しつけると怒られそうだったので」
クロエは受け取らないまま、軒下の柱へ寄りかかった。潮と雨と焙じた茶葉の匂いが混じる。
しばらく黙ってから、彼女はぽつりと言った。
「昔、歌ってた」
アルハシムは杯に触れた指だけを止める。
「港祭りで?」
「もっと前。今みたいに、客の前でじゃない。家で。浜で。婆さんに覚えさせられて」
声は平らだった。平らにしようとしている声だった。
「うちの血は、海鳴りの民に近いって言われてた。嵐の夜に、海の音と喧嘩しない歌い方を知ってる家だった。ほんとかどうか、子どもの頃は分からなかったけど」
雨脚が一瞬だけ強まる。軒先からこぼれた雫が、桶の縁を叩いた。
「兄がいたの」
クロエはまだ柱を見ていた。
「何でも先にやる人だった。高いところも平気で、壊れた縄を見たら先に登る。危ないって言われても笑ってる。……ある年、嵐が早く来た」
アルハシムは何も挟まなかった。促すより、隣に置いておく方が今は近い。
「婆さんは、旧防波塔へ近づくなって言った。でも兄は、歌えば少しは持つって、半分本気で言った。私も一緒に行った。途中まで」
握っていた杯の縁へ、クロエの指先がようやく触れる。
「風が強くて、足場が滑って、私は怖くて歌えなかった。兄だけが前へ出た。振り返って、歌えって言った。なのに、声が出なかった」
雨の音の向こうで、遠くの波が低く鳴る。
「兄は戻らなかった。嵐が明けてから見つかったのは、外套だけ」
アルハシムの胸の奥へ、言葉にならない欠片が沈む。――私が歌えば、止まったかもしれない。――私が行かなければ、兄は行かなかった。そんな、誰にも証明できない罪悪感の形だった。
彼は視線を落としたまま言った。
「歌わなかったから、ではないと思います」
「慰めならいらない」
「慰めではなく、業務上の意見です」
クロエが少しだけこちらを見る。
「何の業務」
「背負い込み過ぎた人を、少し座らせる業務です」
彼女は呆れたように鼻で笑った。けれど、完全には切り捨てない笑い方だった。
アルハシムは空いていた木箱を足先で寄せた。
「無理に歌わなくていいです」
「みんな、そう言う」
「ええ。でも、黙ったまま一人で持ち続けるのも、たぶん違う」
クロエはしばらく黙っていた。やがて、柱から背を離し、木箱へ腰を下ろす。二人の間には、湯気の立つ茶が一杯分だけある。
「歌うと、あの日の風が戻る」
「戻ってきたら、今度は一人じゃないです」
すぐには返事がなかった。雨はまだやまない。
けれどクロエは、裏口の冷たい床へ立ち続けるのをやめ、アルハシムの隣の木箱へ座っていた。
歌わない理由が消えたわけではない。ただ、誰にも触れさせずに固めていたものへ、初めて細いひびが入った。




