第17話 恋の歌
その夜、雨待ち亭には珍しく子どもが多かった。
西堤の見回りが長引き、港側の家々では早めに戸締まりが始まっている。風の気配に敏い親たちは、幼い子を一人で寝かせたがらない。診療所の長椅子には咳の軽い子や熱の下がりきらない子が毛布にくるまり、喫茶卓には付き添いの親たちが小声で湯を啜っていた。
そのうちの一人、昨夜から熱の続く少女ミナが、眠れないまま目を開けていた。胸の病ではないのに呼吸が落ち着かず、眠りに入るたび肩がびくりと跳ねる。魔力酔いに近い乱れ方だった。
エスメラルダが薬湯を薄くしたが、今夜は効きが鈍い。
「外の風ね」
彼女が窓へ目をやる。
「嵐になるほどじゃないけど、揺さぶられてる」
ミナは毛布の端を握り、か細い声で言った。
「歌、ききたい」
付き添いの母親が困って笑う。
「誰の歌?」
少女の目が、店の奥を向く。皿を重ねていたクロエが、ぴたりと止まった。
「クロエさんの」
店内の視線が、静かに集まる。
クロエは皿を置き、いつもの無愛想な顔で返した。
「知らない」
「うたえるって、おばあちゃんが言ってた」
「亡くなってる人は勝手なこと言うから」
サルマンが咳払いし、アルハシムは咳払いしなかった。無理に勧めれば、今夜はもっと遠くなると分かる。
それでもミナは目を閉じたまま、もう一度だけ言った。
「かえりたい歌」
短いその言葉が、店の空気を少し変えた。
クロエは黙って窓辺へ歩き、外の闇を見た。濡れた石畳の向こう、港の灯が揺れている。しばらくして、彼女は振り返らないまま言った。
「一回だけ」
誰も返事を急がなかった。急がせるようなことではなかった。
クロエは窓際の椅子へ腰を下ろした。背筋を伸ばし、両手を膝へ置く。歌う前の形だけが、店の娘ではなく、もっと古い誰かのものに見える。
最初の音は、驚くほど小さかった。
声量ではなく、輪郭が違う。波打ち際に置いた貝殻へ耳を当てた時のような、遠く近い響きだった。言葉は古く、町の人でも全部は分からない。それでも「待つ」「灯」「帰る」といった意味だけは、ゆっくり染みるように伝わってくる。
毛布の下で強ばっていたミナの肩が、一つ、二つと落ちていく。窓ガラスを震わせていた風も、いつの間にか細くなっていた。吊るした薬匙の触れ合う音が止み、入口の鈴さえ鳴らない。
アルハシムは息を詰めた。
歌が直接何かを押し返しているというより、乱れていたものへ「戻る場所」を思い出させている。風にも、眠れない子どもの体にも、同じように働いている気がした。
一曲にも満たない短い節が終わる頃、ミナはもう眠っていた。眉間の皺が消え、母親の袖をつかんだ指もほどけている。
エスメラルダがそっと脈を取り、目を見張る。
「落ち着いてる……」
サルマンが窓の隙間へ手をかざした。
「風も弱いな」
クロエは椅子から立ち上がると、何事もなかったように皿の方へ戻ろうとした。だが、アルハシムが呼び止める。
「今の歌」
「感想はいい」
「感想ではなく確認です。恋の歌、なんですね」
クロエは少しだけ迷い、それから頷いた。
「婆さんはそう呼んでた」
「恋人に向けた歌ではなさそうでした」
「違う。帰ってきてほしい相手を、呼ぶ歌」
彼女は視線を落とし、皿の縁へ指をかける。
「海へ出た人。嵐で足を止められた人。家へ戻る道が見えなくなった人。待つ側が、自分の場所を灯しておく歌」
アルハシムは小さく息を吐いた。
「それなら、恋って名前も分かる気がします」
「何が」
「帰ってきてほしいって、たぶん一番しつこい感情なので」
サルマンが吹き出す。
「言い方が台無しだな」
「実務寄りの解釈です」
「お前、何でも実務に寄せるな」
そのやり取りに、張りつめていた親たちがやっと笑った。店に遅い時間のぬくさが戻る。
クロエは呆れた顔をしたが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その夜、雨待ち亭の外で荒れかけていた風は、結局それ以上は強まらなかった。
港の暗がりに向けて、誰かを呼び戻す歌は、恋という名前のままで十分だった。




