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追放された転生満床調整係、辺境喫茶で命をつなぐ  ――テレパシー持ちの俺は、満員の治療院も嵐の港町も回してみせる――  作者: 乾為天女


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第14話 昨日まで君が座っていた僕の隣

 その男は、診療所の椅子へ座れなくなっていた。


 名はハディ。小柄な漁師で、いつもなら港で一番に声を張る男だとサルマンは言った。だが今は、雨待ち亭の入口脇の壁へ背をつけたまま、呼ばれても動かない。診るべきなのは彼自身ではない。高熱を出して運び込まれた息子のユーノは、昨夜のうちに峠を越え、今は奥の簡易寝台で眠っている。それなのに父親の方が、朝になっても立ったままだった。


 「中で休んでください」


 エスメラルダが声をかけても、ハディは首を振るばかりだ。


 「平気だ。俺は後でいい」


 後でいい、という声は大抵、全然よくない。


 アルハシムは入口近くの長椅子へ腰を下ろし、ハディの真横ではなく、一人分だけ間を空けた場所を叩いた。


 「ここ、風が抜けますよ」


 「座らねえ」


 「知ってます。だから僕が座ります」


 そう言って本当に座ると、ハディは怪訝そうに眉を寄せた。怒鳴る元気もない顔だった。


 店の中では、クロエが薄い粥を温め、ジュエルが手短に荷札の控えを書き写している。サルマンは港から来た知らせを整理し、エスメラルダは別の子どもの胸の音を聞いている。雨待ち亭は今日も忙しい。だからこそ、入口で立ち尽くす男一人を見過ごしたくなかった。


 しばらく黙っていると、ハディがぽつりと漏らした。


 「……昨夜、あいつを抱えて走ったんだ」


 「ええ」


 「朝飯の途中だった。椅子を蹴って、器を落として、熱いって泣くから、もう駄目だと思った」


 言葉は荒いのに、声だけが妙に小さい。


 「今は助かっています」


 「分かってる」


 「分かっている人の顔じゃないですね」


 ハディは乱暴に鼻をこすった。


 「家に帰ったらよ、椅子が一つ空いてるんだ」


 そこでようやく、アルハシムは彼の中に引っかかっている形を掴んだ。


 朝、急いで飛び出した食卓。子どもの椅子だけが引かれたまま。昨日までそこにいた息子の熱い額、こぼれた汁、転がった匙。助かったあとも、その光景だけが家に残っている。だから椅子を見ると、助かったはずの今ではなく、もう駄目だと思った瞬間へ引き戻される。


 「座ると、その空いた椅子を思い出す」


 ハディは目を見開いた。すぐに視線を逸らし、かすれた声で言う。


 「……なんで分かる」


 「座る仕事をしてるので」


 「意味が分からねえ」


 「よく言われます」


 少しだけ、ハディの口元が緩んだ。


 アルハシムは長椅子の端へ手を置いた。


 「空いた椅子って、変に残りますよね。そこにいた人が戻ってきても、しばらくは空っぽの形だけが先に見える」


 ハディは黙って聞いている。否定しないなら、まだ届く。


 「でも、空いたままにしないでいいんです。今日、ユーノ君が起きたら、また座ればいい。家でも、ここでも」


 「……怖えんだよ」


 やっと出た本音は、怒鳴り声よりずっと細かった。


 「また熱が上がったらどうする。寝てる間に息が止まったらどうする。俺が目を離したら、今度こそ間に合わねえんじゃねえかって」


 アルハシムは頷いた。


 「目を離したくないなら、離さなければいいです。ただ、立ったまま倒れたら、見守る人が一人減る」


 そのとき、奥から小さな声がした。


 「……とうちゃん」


 二人同時に振り向く。寝台の仕切りの向こうで、ユーノが目を開けていた。まだ顔色は悪いが、焦点は合っている。クロエがすぐに水の入った小椀を持って寄り、エスメラルダが脈を確かめた。


 「起きたばかり。無理に起こさないで」


 そう言いながらも、彼女の表情は朝より柔らかい。


 ハディは一歩踏み出し、そこで止まった。近づきたいのに、膝が固まっている。アルハシムは長椅子から立ち、何でもないことのように言った。


 「じゃあ、ここに座って見てましょう」


 入口脇の長椅子を、寝台の見える向きへ少しだけずらす。たったそれだけで、風景が変わった。ハディは数秒迷い、ついに腰を下ろした。


 座った瞬間、息を吐く。昨夜からずっと持ち上げたままだった肩が、ようやく少し落ちた。


 ユーノが薄く笑う。


 「とうちゃん、立ってるとでかい」


 「うるせえ」


 ぶっきらぼうな返事のくせに、声は泣きそうだった。


 アルハシムは少し離れたところで、その親子を見ていた。


 昨日まで君が座っていた僕の隣。そんな言葉が、ふいに胸の内側へ浮かぶ。前の生で見送った家族たちの、病室の丸椅子。面会のたびに埋まり、別れた後に長く空いていた席。助かった人にも、助からなかった人にも、椅子は同じ顔で残る。


 だからこそ、自分の仕事は治療師の隣で紙を回すだけでは足りないのだ、と彼は改めて思う。


 空いた席を、空いたままにしないこと。

 そこへ戻ってこられるように、人をつなぎ直すこと。


 それがこの町で、自分にできることだ。


 昼が近づく頃、ハディはまだ長椅子にいた。だが、さっきまでの立ち尽くした男ではなかった。息子が水を飲むたび頷き、匙を持つ手が震えれば自分も一緒に息を止める。その忙しい顔を見て、クロエが小さく言う。


 「座れた」


 アルハシムは頷く。


 「ええ」


 「座らせ屋」


 「改めて言われると複雑ですね」


 「でも、今は合ってる」


 短いその言葉が、今日は妙にまっすぐだった。



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